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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第6章 伝法
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第58話 待っていた 

 門の内は、静かだった。


 音の海の都で初めて聞く種類の静けさだった。壁ひとつ隔てただけである。市の売り声も車輪の轟きも、遠い潮騒になって退いた。境内の古い樹々が初夏の風に鳴っていた。その葉音がいちばん大きかった。白い砂の上を、僧がひとり音もなく横切った。塀の内は日差しの落ち方まで、外の大路とは別のものだった。


 山だ、と思った。


 この静けさの種類なら知っていた。七年、そのそばにいた。何も説かずにただそこに在る、あの黙っている山々の静けさである。黙っている高い山のことを、いつか浜の夜に書いた。禽獣は労を告げずにそこへ帰る、と。書いたときは皇帝の徳の譬えだった。いま、その言葉が譬えの衣を脱いで、目の前に寺の形で建っていた。


 空海に労を告げる用はなかった。七年の山も三十四日の海も告げなかった。歩みだけが、静けさの中を進んだ。


  *


 西明寺の僧たちが供をしてくれた。取り次ぎは済んでいた。門から院まで、誰も無駄な口をきかなかった。先に立つ僧の足音だけが、乾いた砂を踏んでいった。


 東の塔の院へ、若い僧が先に立った。庭の白い砂が初夏の日を返していた。渡り廊を幾曲がりか行った。柱の影が砂の上に等間隔に落ちていた。磨かれた廊の板が、足の裏に涼しかった。奥へ進むほど静けさが深くなった。深くなるほど、あの窪みが鳴った。門前で鳴っていたものが、いまは胸の底で鐘のように鳴っていた。


 院の奥の間に、その人はいた。


 香が焚かれていた。嗅いだことのない深い香りだった。舌の奥にまで届く匂いだった。煙は細く、まっすぐに立っていた。香炉の銅が、灯を受けて鈍く光っていた。窓の外の緑が、その煙の向こうで揺れていた。


 老いた僧である。歳は六十ほどか。病がその身体を削っているのが、ひと目で分かった。頬の肉が薄い。息が浅い。息の継ぎ目に、細く笛のような音が混じった。耳がそれを拾って、拾ったことを厭うた。だが、背筋は立っていた。座り方が山だった。削られた身体のそのまん中に、削れないものが据わっていた。窓からの薄い光が、その肩の線を静かに縁取っていた。


 目が上がった。


 見られるということなら生涯ぶん知っていた。麒麟児を見る目。俊才を測る目。賊を疑う目。賓客を遇する目。どれも、衣と履歴を見る目だった。


 この目は外側を素通りした。


 旅塵の衣も痩せた頬も海の向こうの島国も素通りして、まっすぐいちばん奥のあの窪みに届いた。届いて、確かめて、老師は笑んだ。皺の中で目が若くなった。


 そして、言った。ゆっくりと、しかしためらいなく。


「我れ、汝を待つこと、久し。――来ること、何ぞ、遅き」


 通訳はいなかった。要らなかった。名句は短く、定型だった。船倉の莚の上で、渇きの底で、凍る駅の土壁の中で磨いてきた唐語である。海に出てからの稽古の全部が、この一言をじかに受けるためにあった。声の低さまで、そのまま胸に来た。


 あの朝、門の内へ入って返ってこなかった一音の返事が、いま、人の声で来ていた。


  *


 待つこと、久し。


 待たれていた。


 道理がなかった。会ったことがない。文を交わしたこともない。海の向こうの名もなき留学の僧を、長安の密の頂に立つ人が待つ。道理がないのに、その言葉は嘘の音をひとつも含んでいなかった。人の声のまことと嘘を聴き分けてきた耳がそれを保証した。この人はほんとうに待っていたのである。


 そして、遅い、と言われた。


 生まれてこのかた、遅いと言われたことがなかった。何でも一度で覚える子はいつも早すぎた。読むのも覚えるのも、大学を出るのも山に入るのも早すぎた。そう言われ続けた男が生涯で初めて、遅い、と言われたのだった。


 迷った、と思ってきた。大学を捨てたのは道を外れることだった。山の七年は世の帳面の外だった。嵐も漂流も浜の柵も、みな道の断たれる形をしていた。だが、待っていた人がいた。待っていた人の側から見れば、断たれたと見えた道は遅れて来る者の一本の道だった。


 誰にも数えられず、官の帳面にも載らず、雪の中に肱を枕とした、と四つの字で書くほかなかったあの七年が、そっくり見出されていた。


  *


 空海は膝を正した。名乗ろうとした。老師は小さく手を挙げてそれを止めた。


「名は、聞いておる。……今日、相見ゆ。大いに、好し。大いに、好し」


 大いに好し、を老師は二度言った。二度目のほうが深かった。まっすぐに澄んだ音だった。長安の密の頂に立つ人が、海の向こうから来た痩せた僧を前に歓びを隠さなかった。供の僧たちが、戸口で顔を見合わせるのが分かった。


 問われたことは、ひとつもなかった。どこの生まれか。師は誰か。なぜ来たか。ひとつも。あの浜で、名乗りは言葉でできるが証は言葉ではできぬ、と骨に刻んだ。その証がここでは初めから済んでいた。七年は、姿勢に出るのである。


「ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


 あれほど問いの巧かった男の口から出たのは、幼い問いだった。


「あなたさまの法は書にはならぬと聞きました。なぜ、でございますか」


 文の組み立ては、つたなかった。持っている言葉で言えることだけを言ったのである。


 老師は笑んだまま、脇の経机を指した。


「経は、火の絵と思うがよい」


 声は低かった。削られた身体のどこから出るのかと思うほど確かだった。短く区切って話す人だった。異国の僧に合わせているのだと、途中で分かった。一語だけ聞き取れずにいると、老師は机の上に、指でその字を書いた。


「精しい絵よ。線の一本も揺るがぬ。だが、絵からは火は点かぬ。百年見つめても点かぬ。火は、火からしか移らぬ」


 それから老師は、両の手のひらを上に向けて開いた。


「経は貸せる。写しもできる。海の向こうへも渡せる。だが、これは」とおのれの胸を指した。「手から手へしか渡せぬ」


 窪みの底に初めて、言葉が触れた。


 物心のついた日から書物という書物を呑んできた。一度で覚え、忘れなかった。呑んでも呑んでも満ちなかった。その理由がいま、一言で言い当てられていた。書物は絵だった。おのれは火を探しながら絵を集めていたのだった。絵はどれほど精しくとも、絵だった。


「老衲の火は」


 と、老師は言った。


「もう、長くは燃えぬ。移す先を長く探しておった。両の手で受け取れる器が要る。金剛の智の流れと、胎蔵の理の流れと。ふたつを、まるごと。……時が、ない」


 短い言葉ほど重い人だった。浅い息の間から、言葉は選び抜かれて出た。


「香花を、弁ぜよ」


 老師は言った。


「灌頂壇に入るがよい。すぐに、な」


  *


 院の内がざわめいた。


 供の僧たちの息を呑む音を耳が拾った。入門の式がない。試業がない。年月がない。灌頂は密の教えのいちばん奥の門である。何年も何十年も階を登って、ようやく許されるかどうかの門である。その階を老師は一段も置かなかった。会ってから香一炷も燃え尽きぬほどの間だった。戸口の外の廊まで、僧たちの衣擦れが寄って来ていた。


 ひとりの僧が進み出た。青龍寺の上座で、年配の僧である。


「師よ。あまりに急でございます」


「急か」


「両部を、と仰せられました。両部は、この寺の者がまだ誰も、まるごとは受けておりませぬ。それを、今日会うた」上座の僧はそこで言葉を選んだ。「今日会うた、海の向こうの方に」


 異国の者に、とは言わなかった。言わずに済ませたぶん、意味は残った。


 老師は笑った。皺の奥の目が、また若くなった。


「わしがこの二十年、誰を待っておったか、そなたも見ておったろう」


 上座の僧は答えなかった。答えないことが答えだった。


「来た」老師は言った。「遅いくらいよ」


 来ること、何ぞ、遅き。最初の言葉がそこに返ってきた。


 空海は床に手をついた。床板は冷たく、掌に固かった。頭を深く下げた。上げて、言った。


「弁じます」


 それ以上の言葉を、この部屋は要らなかった。香の煙だけが、変わらずに立っていた。


  *


 帰り道、都は夕暮れだった。


 夕風が、汗の引いた首すじに冷たかった。暮鼓が鳴りはじめた。太鼓の波が屋根の海を渡り、遠い城壁の際で薄れた。胡餅を焼く竈の火が、路地の奥で赤かった。


 空海は音の海の中を西明寺へ帰った。歩きながら、二人の人を思っていた。


 待つこと久し、と言った人。


 今度は待つとは申しますまい、と言った人。


 どちらの言葉も同じ歳月を指していた。おのれが迷いと呼んできた歳月を、二人は別の名で呼んだのだった。


 老いた男は筆を置いて思う。あの日、私は見出された。数えられなかった七年を算えもせずに受け取った人が、この世にいた。そういうことは、生涯にそう幾度もない。まことの証は、こちらの支度の済まぬうちに向こうから来るものらしい。


 夏の初めだった。


 青龍寺の樹々の緑が、日ごとに濃くなっていった。青龍寺の東塔院で灌頂壇の支度が始まった。壇を築く土を運ぶ音が、朝ごとに院の奥から聞こえた。新しい土の匂いが、香の匂いに日ごと混じった。壇の扉の向こうにあるもの。絵ではないもの。


 火である。


 それを受け取りに行く日が決まった。

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