第55話 二千里
道がまっすぐだった。
福州の北門を出て幾日か行くうちに、空海はそのことに気づいた。日本の道は曲がる。山を避け、谷に沿い、川を迂回する。地形の言うことを聞きながら行く。唐の官道は聞いていなかった。丘があれば切り通し、窪みがあれば埋め、まっすぐに引かれていた。道は地形に従うものだと思ってきた。この国の道は、地形を従えていた。
人の力の桁が違うのだった。
道の幅も違った。荷車が四台、並んで行き違えた。路面は踏み固められ、両側に溝が切られ、一定の間ごとに木が植えられていた。轍の跡が幾筋も深く刻まれていた。一定の里ごとに土を盛った堠が築かれ、そこまでの里数が記されていた。二千里を越えて、なお続いているという。冬の日を浴びて、道は乾いた色に光っていた。
列は駅伝の制に乗っていた。
一定の里ごとに駅があった。駅には馬と宿と役人がいた。文書が改められ、馬が替えられた。護送の兵は駅ごとには替わらなかった。幾つかの駅を束ねた区間ごとに、隊がまとめて替わった。同じ顔と十日ばかり行き、ある朝にそれが入れ替わるのである。そして次の駅に着くと、もう一行のことが知られていた。日本国の使節、二十四名、通過の予定。先触れの文書が早馬で先に走っているのである。駅の門の上には、旗が立っていた。旗は乾いた風に、絶え間なく鳴っていた。
「紙が、人より先に、着いている」
空海がつぶやくと、通訳が笑った。
「それが、唐よ。この国はの、御坊、紙でできとる。人が動く前に、紙が動く。紙の通らんところには、米も兵も動かん」
あの浜の五十日も、この駅の一夜の宿も、同じ一枚の紙の裏と表だった。紙に拒まれれば柵の中、紙に許されれば駅の宿。空海は、行李の底の筆を思った。この国を渡っていくのに、あの筆は錫杖より確かな杖だった。
*
紙の国では、空海の帳面も官の目に触れた。
ある駅の朝、経を終えて帳面を閉じたところへ、駅の役人が来た。若くはない男で、袖に墨の染みがあった。異国の僧が毎朝ひとり筆を執り、何かを記している。それを幾日も見ていたのだろう。役人は帳面を指して短く言った。
「何を書いている」
通訳が慌てて間に入ろうとしたのを、空海は目で止めた。帳面を開いて、役人の前に置いた。
名が並んでいた。それだけである。数はなかった。地名もなかった。道の絵も、駅の間の里数も、どこにもなかった。ただ人の名ばかりが、幾十も並んでいる帳面だった。
役人は帳面を持って、二歩下がった。門のほうへ顎をしゃくった。兵が二人、槍を立てたまま近づいてきて、空海の左右に立った。
役人は一頁ずつ繰った。数を数える目つきだった。里程や兵の数を書き留める者が、この道にはいるのだろう。捕らえるなら、この場でできた。書いたものひとつで人を賊にできる国であることは、浜で五十日かけて教わっていた。
通訳は黙って見ていた。口を挟めば、挟んだこと自体が疑いになる。
役人はそれを探して、見つけなかった。
繰り終えて、帳面を閉じ、兵に手を振った。兵が離れた。それから両手で帳面を返してよこした。
「……字が、良いな」
それだけ言って、行ってしまった。通訳が、その一言だけを小声で訳した。
この国では、最後にものを言うのは字だった。浜でも、府でも、駅でも同じだった。その朝の一件は、その日のうちに護送の兵たちに知れた。あの坊主の帳面には、数も地名も入っておらぬ、と。
*
福州を出てからの幾旬、道は山の間を縫って北へ登った。
峠を幾つも越えた。切り通しの壁が両側に迫り、冬の日が谷の底へ短く差した。山があることを、誰も語らなかった。あるのが当たり前だったからである。
やがて、大河に出た。
渡し場に立ったとき、空海は対岸を探した。なかった。水の果てに、水と空の境があるだけだった。渡し船は帆を張って半日走った。川の上を半日である。帆が風を受けて、太い音を立てた。船頭に問うと、この川は西の果ての雪の山々から来ると言った。幾千里の彼方の雪が溶けて、この水になると。
渡り終えた岸から、来た岸はもう霞んでいた。
山は、それから幾日かのうちに、低くなった。低くなって、ある朝、なくなった。
視界から、山が消えたのである。
初め、空海はそれが何なのか分からなかった。何かが足りなかった。目が落ち着く先を探して彷徨った。探しても探しても、ないのだった。
山が、ない。
三百六十度、どちらを向いても、大地が平らに果てまで続いていた。冬枯れの黄いろい大地である。その果てに、空との境の線が引かれている。海の水平線なら知っていた。三十四日、見続けた。だがこれは陸だった。陸が、水平線を持っていた。朝の光が、その線の上に薄く延びていた。風だけが遮るもののない大地を渡っていった。
十一の歳にあの山に登って、若葉の海を見た。
それからの歳月、山はいつもそこにあった。学生のころは遠くに。行に入ってからは足の下に。海の上でさえ、心の中にあった。山と共にない自分というものを、考えたことがなかった。その山が、大地ごとないのである。
国の大きさという言葉は知っていた。
書物で読んでいた。唐は大きい。日本の幾十倍。数字も里程も頭には入っていた。だがその朝、山のない地平線が頭を素通りして、身体に入ってきた。大きいとはこういうことだった。この大地の果てのそのまた果てまで、同じ一つの国である。同じ暦が使われ、同じ文字が読まれ、同じ法が届いている。
若い留学生が、隣で立ち尽くしていた。
「広い、ですね」
それだけ言った。それ以上の言葉を、誰も持っていなかった。列はまた、黙って歩き出した。
*
北へ行くほど冬が深くなった。
讃岐の冬を知っていた。山の冬を知っていた。雪に埋もれたあの岩屋の冬も。だが大陸の冬は別のものだった。湿りのない寒さである。風が刃物のように乾いていた。息が鬚の先で凍った。唇が割れ、笑うと切れた。朝ごとに、水甕の面へ薄い氷が張った。氷は日ごとに厚くなった。夜の駅の土壁の中で、男たちは身を寄せ合って眠った。南の海で溺れかけた男たちが、いまは北の寒気に削られていた。この国を渡るとは、季節を幾つも渡ることだった。
道では、幾度も人とすれ違った。
荷を負った驢馬の列が、鈴を鳴らして南へ下っていった。牛車。担ぎ手の群れ。旗を立てた別の国の使いらしい一行とも行き違った。顔立ちも衣も違った。同じ道を、幾つもの国の人間が行き来していた。この道は日本へは来ていない。来ていないだけである。
凍る朝にも、名の経は絶えなかった。
駅の庭の隅で、白い息と共に名を読んだ。室戸の名。船の名。唐の浜のあの水夫の名。凍った空気の中で、声はよく通った。護送の唐兵たちが、初めは遠くから怪訝な顔で見ていた。駅が幾つも替わり、隊も一度ならず替わったが、同じことが繰り返された。怪訝な顔が聞く顔になるまでの日数まで、だいたい同じだった。経の声が経の声として届くのに、言葉は要らないのだった。経が終わると、駅の朝の物音が戻ってきた。
同じ隊と行きはじめて三日目の朝、老兵が近づいてきた。
護送の隊の、いちばん年かさの男だった。鬢が白く、頬に古い傷があった。老兵は経が終わるのを待って、通訳を目で探した。それから訥々と問うた。
「毎朝、何を唱えておられる」
「死んだ者の、名を」通訳が空海の答えを運んだ。「海で死んだ者、旅の途中で死んだ者の名を、朝ごとに呼んでおられる。名を呼ばれた者は迷わない、と」
老兵は黙った。
長い沈黙だった。槍を持ち替え、石突きを一度、地に突いた。それから古傷のある頬を動かして言った。
「わしの、戦友での。若い時分、共に西の果ての安西に征った男が、おる。あれは、砂漠の砦で死んだ。骨は帰っとらん。家も、もう絶えた。あれの名を、呼ぶ者は、この世に、もう、わし一人よ。わしが死ねば、誰も、呼ばん」
老兵はそこで居住まいを正した。
「坊さまの帳面に、あれの名を……載せて、くれんかの」
空海は帳面を開いた。凍てた指で、頁を繰った。
通訳が名を聞き取り、音を仮に書いた。老兵はそれを見て、首を振った。それから槍の石突きで、庭の土に字を書いた。三つの字だった。書き慣れた手ではない。だがその三つだけは、幾度も書いてきた手つきだった。空海はその字を帳面へ移した。老兵は、移されていく字を、じっと見ていた。翌る朝から、その名は経に乗った。室戸の漁師の名と、船の水夫の名と、唐の兵の名が同じ経の中に並んで、凍る大陸の朝へ出ていった。
海で死んだ者と、砂漠で死んだ者は、帳面の中では隣り合った。老兵はそれから隊が替わるまでの幾日か、毎朝、経の間、庭の隅に立っていた。直立の、兵の立ち方だった。
護送の隊が替わる朝が来た。
老兵はここまでで、次の区間へは行かない。列が動きだす前に、老兵は空海の前へ来た。何か言うつもりで来たらしかった。だが言わなかった。代わりに、腰の帯から小さな革の袋を外した。中身は火打ちの石だった。使い込まれて、角が丸くなっていた。それを空海の手に押しつけた。
通訳が何か訳そうとして、やめた。訳す言葉がなかったからである。
老兵は一歩下がり、槍を立て、直立した。空海は袋を両手で受け、深く頭を下げた。列が動きだしても、老兵はその形のまま立っていた。道が曲がるまで、その影は同じ場所にあった。
その朝から、火打ちの石は行李の底で、筆の隣にあった。
*
大きな都市を幾つも過ぎた。
城壁があり、楼門があった。市が立ち、人が渦を巻いていた。楼門の影が、道の上に長く落ちていた。どの街も、日本の都より大きかった。初めの街で、若い留学生は声を失った。二つ目の街でも失った。三つ目あたりから、男たちは街の大きさに驚くことに疲れはじめた。驚きにも体力が要る。それでも夜の宿では、男たちは見た街の話をやめなかった。
その様子を見て、護送の官人が笑って言った。
「長安に比べれば」通訳が訳した。「どの街も、村だそうな」
村。
この、日本の都の幾倍もある街が、村。男たちは顔を見合わせた。誰も笑わなかった。冗談の顔ではなかったからである。
夜、駅の土壁の中で、若い留学生がぽつりと言った。
「長安に着いたら、私たちは別々の寺になるのでしょうね」
「なるでしょうな」
「二十年」若者は天井を見たまま言った。「長いと思って、参りました。いまは、少し違います。この国の大きさを見てしまうと、二十年で何を学び切れるのかと」
「学び切りは、しません」空海は言った。「二十年は、器の大きさです。汲めるだけ、汲む。汲み方なら教え合えます。寺が別でも、同じ都の中です」
若者は笑った。笑ったまま言った。
「約束、ですよ。いや、約束はやめておきます。船で懲りました。会いましょう。死なずに」
通訳が莚の向こうから口を挟んだ。
「わしは、大使さまと来年には帰る。ええか、御坊。わしが帰ったら、あんたの唐語はあんたが磨くんじゃぞ。長安の言葉は生きとる。市で、磨け。学者の唐語で、止まるな」
灯りが尽きて、あとは寝息だけになった。土壁の向こうで、繋がれた駅の馬が身じろぐ音がした。
*
十二月の暮れだった。
渭水の平原に入っていた。冬の日は短い。夕暮れの光が、枯れ野を横から灼いていた。枯れ野の風が、列の背を押していた。列の先頭がふいに止まった。誰かが西を指した。
地平線に影があった。
低く長く、地の果てに横たわる影である。北にも南にも、平原を挟んで山は見えていた。空海は初め、その影も山の続きだと思った。夕靄の底で、稜線がそこだけ濃くなったのだと。
山ではなかった。
影は平らに、まっすぐに、地平の上に引かれていた。山の裾は左右へ流れて消える。あの影は、消えずに横へ伸びつづけていた。あれは壁だった。城壁である。この距離で、まだあの高さに見えた。
人の作ったものだった。
夕日が、その影の縁を赤く縁取っていた。
列がざわめいた。馬上の大使が、潮に朽ちた官服の襟を、そこで一度、正した。護送の官人が西の影に向かって軽く頭を下げた。それから一行を振り返って言った。通訳の声が、震えながらそれを運んだ。
「――長安である」




