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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第5章 渡唐
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第54話 言葉で開く道

 返答は十日で来た。


 その朝、浜の見張りの兵たちが急に動いた。隊列を整えたのである。囲いの中の男たちが何事かと立ち上がった。街道の向こうから馬が来た。鎮将だった。供を数騎連れただけで、自ら馬を飛ばして来た。下りた馬の腹が、朝の光の中で汗に光っていた。


 馬から下りた鎮将の顔つきが、すべてを語っていた。


「――柵を、外せ」


 その一言が、五十余日を終わらせた。兵たちが柵の縄を解きはじめた。杭が一本ずつ、砂から抜かれていった。抜けるたび、湿った砂が鈍い音を立てた。


 観察使の書状が、大使の前で読み上げられた。通訳の声がそれを運んだ。日本国の使節の来着を慶ぶ。長途の艱難を思う。一行を福州の城へ迎える。船の修理は官の費えをもって行う。上陸の許可ではもうなかった。客を迎える言葉だった。疑われた漂流者の群れが、その一枚の中で国の賓客に変わっていた。


 男たちは初め、声が出なかった。


 それから浜が割れるように沸いた。抱き合う者、泣く者、砂に膝をつく者。冬の入りの浜に、男たちの声が高く上がった。五十日の宙吊りが切れたのだった。楫取が、また繋がれた船に向かって深々と頭を下げていた。解かれた縄が、砂の上に長々と伸びたままになっていた。


 鎮将はその騒ぎの外で、大使に礼を正した。それからふと目を上げて、囲いの奥の莚の男を見た。長いこと見た。歩み寄って来た。


「坊主どの。ひとつ、訊いてよいか」


「どうぞ」


「どんな書を、送られた」


 空海は答えなかった。答えの代わりに少し頭を下げた。鎮将はその沈黙をしばらく眺めていた。それから初めて、声を立てて笑った。


「言わぬか。よい。わしの疑いは、正しい疑いであった。いまでもそう思うとる。だが」鎮将は首を振った。「見事に、やられた。観察使どのの府では、あの書が幕僚たちに回し読みされた。役所の書が回し読みされる。二十年、官におるが、初めて聞いた」


  *


 福州の城は、囲いの浜から水路を二日だった。水路の両岸に、瓦の屋根が続いた。


 一行には宿館が与えられた。屋根があった。壁があった。湯が立てられた。五十余日の垢と三十四日の潮と、その前の航海の疲れとが、湯の中で順に剥がれていった。湯上がりの男たちの顔は、別人のように明るかった。衣が支給された。唐の官給の、目の詰んだ布だった。粥に青菜と塩漬けの魚がついた。男たちは椀を持ったまま、しばらく箸をつけられなかった。器に盛られた飯である。配給の椀の底ではなかった。箸の先が震えて、椀の縁に小さく鳴った。


 夜、宿館の房で通訳がしみじみと言った。


「御坊。わしはの、昔、一語まちがえたことがある」


「唐で、ですか」


「明州よ。荷の数をひとつ、多く訳した。それだけで、船頭が縄をかけられての。三日、縛られたままじゃった。解いてもろうたのも、わしの一語よ」通訳は椀を置いた。「浜におったあのぼろの群れと、この宿館の客と、中身は同じわしらよ。変わったのは書、一枚」


 空海は椀の湯気を見ていた。


 言葉は人を変えない。人の置かれる場所を変える。その置き分けの札が、紙の上の言葉だった。椀の湯気は、いつの間にか消えていた。


 耳は、福州の街の音を蔵いはじめていた。


 水路を行き交う舟の櫓の音。市の売り声。寺の鐘。日本の鐘と、音の腹が違った。異国の都市の音の全部が、新しい頁に流れ込んできた。だが空海はそれを浅く蔵うに留めた。この街はまだ入口である。耳の底は、二千里の先のために空けておきたかった。夜半、水路の水音だけが宿館の壁を伝ってきた。


  *


 関門はまだひとつ残っていた。


 入京である。観察使から朝廷への上申が行われた。日本国の使節の入京の許可を請う上申である。返答の勅は、二十日ののちに下りた。早い、と録事が驚いていた。入京を許す。ただし、人数を限る。


 府から仕分けの沙汰が下り、録事がそれを名簿に写した。


 大使。判官。録事。訳語。史生。傔従。選ばれたのは二十三人だった。数百人の一行のうちの二十三人である。残りは、曳かれて水路を上ってきた船と共に福州に留まる。名簿は房の前の廊で読み上げられた。読み上げられる名を、男たちは息を詰めて聞いた。


 空海の名は、なかった。


 聞き終えて、空海は録事のところへ行った。録事は名簿から目を上げずに言った。


「留学の僧は入京の要なし、との仕分けじゃ。そなたは二十年の留学。急ぎの朝見の列には入らぬ。福州に留まり、勅許を待ってしかるべき寺に配される。それが慣わしよ」


「その仕分けは、どなたが」


「勅は人数を限れと仰せられたきりでの。数も、誰を入れるかも、観察使どのの府が定める。府は慣わしで定める。慣わしを作ったのはわしらではない」


「勅許は、いつ下りますか」


「さての」録事は初めて目を上げた。上げてから、名簿の縁を指で押さえ直した。廊の先に人がいないのを一度たしかめた。「半年か。一年か。下りぬこともある。慣わしとは、そういうものでの」


 下りぬこともある。


 空海は宿館の房に戻った。戻って壁を見た。廊の冷えが、足の裏から上がってきていた。


 五十日の浜で、待てという言葉の意味は骨まで知っていた。期限のない待てとは、檻の別名である。屋根と湯があるだけで、ここもあの浜と同じだった。師も経も、長安にある。二十年の期限は、渡海の日からもう数えはじめられている。


 その日の夕、大使が房へ人をよこした。


 大使は録事を通じて名簿を洗わせ、観察使の府へも自ら人を立ててくれていた。返ってきたのは同じ一行だった。慣わしにより認めがたし。


「わしの名では、もう一度は動かせぬ」


 大使の声は、あの浜の夜と同じに乾いていた。


「あの書は一度きりの矢であった。二度目を放てば、一度目の値打ちまで下がる。それに」大使はそこで言い淀んだ。「そなたの名を出して押すことも、わしにはできぬ。出せばあの書が誰の筆かを言うことになる。言えば、あの書はただの代作になる」


 空海は深く頭を下げた。止まった先から先は、自分の足で行くほかない。


 夜、空海は筆を借りた。房の灯りを、いちばん細くして据えた。


  *


 二度目の夜は短かった。


 あの浜の一夜のように、生涯の全部は要らなかった。書くべきことが初めから決まっていたからである。今度書くのは、願いの書である。願いの書に要るのは、飾りの言葉よりまっすぐな事実だった。墨を磨る音が、静かな房に低く続いた。磨るほどに、墨の匂いが房の冷えた空気に広がった。


 日本国留学沙門空海、啓す。


 書き出して、筆が一瞬止まった。


 自分の名で、自分のために書く文章を、この手は書いたことがなかった。人の恋文を書いた。人の詫び状を書いた。大使の名の書を書いた。名は要りませんと言った。その手がいま初めて、おのれの名を書き出しに置いていた。名の帳面を持つ男の、おのれの名である。あの言葉の入った、あの人の呼んでくれた名で、道を願う。


 筆はそれから迷わなかった。


 遠く滄海を渡って来たのは、法を求めるためである。求める法は長安にある。書き進めながら、書くべき事実の中にあの七年が入ってくるのが分かった。おのれが何者であるかを示さねばならない。位階はない。寺の格もない。示せるものは、歩いてきた道だけだった。


 雪の中に肱を枕とした。


 雲の峯で霞を喫った。


 筆がその二句を置いた。置いてから、空海は少しの間、灯りの中でその字を見ていた。あの雪の冬が四つの字になった。峯の上の歳月が、また四つの字になった。誰にも見られず、誰にも数えられなかった七年が、異国の官文書の中で初めて身分の証になった。


 求めるのは名にあらず、位にあらず。


 長安への道、ただそれだけである。


  *


 返答は三日で来た。


 観察使の府から宿館へ書状が届き、録事が名簿に筆を入れた。二十三の名の末尾に、一つ、名が加わった。


 留学僧、空海。


 墨の跡はまだ新しかった。録事は筆の先の墨を落とし、その字の高さを上の名と見比べた。それから隣に立つ男に言った。


「一人ぶん、枠を伸ばせとの沙汰じゃ」録事は墨を拭いた。「府の使いが、訳語を通して妙なことを言うておった。二枚目じゃ、と。あの浜の書と、同じ手じゃ、と。こういう書き足しは、わしも初めてよ」


 名は隠しても、字が名乗るのだった。


 出発は、十一月の初めと決まった。長安まで二千里。冬の大陸を北へ渡る道である。宿館の房で、男たちは荷を作り直した。官給の衣の上へ、さらに綿入れが配られた。


 発つ前の日、湯餅の水夫が来た。水夫たちは船と共に福州に残る。修理の成った船で、大使たちの帰りを待つ役である。水夫はしばらく足の先で土を掻いていた。それから言った。


「坊さま。約束の、湯餅じゃがの」


「長安の市の、いちばんうまい店。忘れておりません」


「わしは、行けん」水夫は笑った。歯の欠けた日灼けの笑いだった。「じゃからよ。代わりに、頼みが、ある。長安の市に着いたらよ。いちばんうまい湯餅を、食うてくれ。食うてから、わしの名ぁ、一度、呼んでくれんかの」


 空海は、水夫の顔を見た。


「あいつの名ぁは、あんたの帳面じゃ」水夫は浜のほうへ顎をしゃくった。あの朝、煙になって異国の空へまっすぐ立った男のことである。「朝ごとに呼んでもらえる。ええ組じゃった。わしのは、市で呼んでくれ。あんたの帳面は、海の底にも届く、いうことじゃった。なら、生きとる者の名も、届くんじゃろ。福州と長安の間くらい、なんぼのもんじゃ」


「……届きます」


 空海は言った。それから、はっきりと言い直した。


「届かせます。長安の市で、いちばんうまい湯餅の湯気の中で、あなたの名を、呼ぶ。……返事は、要りません。生きていて、くだされば」


 水夫は割れた声で笑った。笑いながら目じりを拭いた。夕日が、水路の水を赤く染めていた。水夫の背中が、その赤の中へ戻っていった。


 十一月の朝、二十三人と一人の列が福州の北門を出た。門の外で、朝の霜が道を白くしていた。男たちの吐く息が白く立って消えた。荷を締める革紐が、あちこちで固くきしんだ。


 二千里の道が、冬の大陸の中へまっすぐに伸びていた。

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