第53話 嘆願の筆
頼みとは書だった。
「観察使どのへの嘆願の書を」と言いかけて、大使は一度言葉を切った。切って言い直した。「わしの名で出す書を、そなたが書いてくれ」
浜の夜が静かだった。波の音だけが、柵の向こうで規則正しく続いていた。囲いの小屋の灯は、もう落ちていた。波の引き際に、砂の鳴る音が細く混じった。
代作である。国の使いの長の名で出る書を、位階なき留学僧が書く。書いたことは表に出ない。名は残らない。書が通れば功は大使のものであり、通らなければ恥もまた大使のものである。
「わしの書は三通、送った」大使の声は乾いていた。「三通とも届いて、読まれて、動かなんだ。わしの筆では足りぬ。それはもう分かった。そなたの書は読んだ。海を渡る前に、都で読んだ。あれを書いた筆ならあるいはと思う。頼めるのは――そなたしかおらぬ」
雲の上の人が頭を下げた。
浅くない下げ方だった。従者の手燭が、下げた頭の影を莚の上に長く落としていた。空海はその白いものの混じった髷をしばらく見ていた。それから言った。
「一晩、考えさせてください」
大使は、下げた頭を上げずにうなずいた。
*
その夜、空海は囲いの柵のそばに座った。
海が鳴っていた。月はなく、水平線は闇に溶けて見えなかった。星だけが海の上に低く出ていた。潮が満ちてきて、波の頭が闇の中で時おり白くほどけた。三十四日船を運び、男たちを削り、水と日を呑んだあの海である。考えることは、引き受けるか否かではすでになかった。引き受け方だった。
筆は久しく遠ざけてきたものだった。膝の上で、手が独りでに握りの形を思い出していた。
言葉の器用さは若いころのいちばんの得物だった。得物であったがゆえに、山ではいちばん深くまで捨てた。言葉が全部嘘になった夜を越えてきた。谷で声だけを鍛え、言葉を使わない歳月を長く生きた。山に入る前に書いた三教指帰は、その七年のあいだに人の手で写されて殖え、海を渡って、いまこの浜で名指しで呼ばれている。
帳面の名たちを思った。唐の浜で死んだあの水夫の名を。まだ果たしていない湯餅の約束を。二千里の向こうのまだ見ぬ都と、そこにあるはずの教えを。どこの海の上でも聞いていると言った人がいる。この浜で朽ちるわけにはいかなかった。
夜気は冷えて、潮の匂いが濃かった。背の後ろで、囲いの小屋の莚が風にかすかに鳴っていた。
朝、空海は大使の前に座った。
「お引き受けします。ただし、ひとつだけ」
「申せ」
「弁明は、書きません」
大使が目を上げた。
「弁明を書かずに、何で疑いを晴らす」
「晴らしません。晴らそうとすることを、やめます」
空海は続けた。
「読ませていただいた一通は、正しい書でした。三通ともそうだったのでしょう。事の次第を述べ、疑いに答えを尽くしておいでだった。それでも動かなかった。疑いに答える書は、疑いの土俵の上に立ちます。その上でいくら正しくても、疑いは晴れません。賊も同じ土俵で、同じことを言えますから」
大使は黙った。それから、低く言った。
「三通で、それをわしは五十日かけて知ったわけか」
「三通あったから、分かりました」
嘘ではなかった。届いて読まれて動かなかったというあの三通の事実だけが、疑いは理では解けぬということを教えていた。
「では、何を書く」
「疑いようのないものを」
*
筆と紙と墨が、大使の行李から出された。
潮を浴びながら油紙に守られて生き残った一式だった。硯は角が欠けていた。囲いの小屋の隅に板が渡された。机の代わりである。灯りの油は、従者が大使の持ち分から割いて注いだ。水は、若い留学生が兵に付き添われて村の井戸まで汲みに行った。一度に許されるのは桶ふたつで、日に幾度も往復した。その一度ぶんから椀ひとつを、墨に回した。飲む水を削ったのである。
昼は人の出入りが絶えなかった。夜が更けるのを待って、空海は板の前に座った。
小屋の外で通訳が寝ずの番のように座っているのが、気配で分かった。誰に頼まれたのでもない。ただ居るのだった。時おり、乾いた咳をした。その咳が、妙に心強かった。
起草の夜が始まった。灯りの輪の外は、墨のような闇だった。
書くべきものの姿は、昼のうちから胸の中にあった。文章そのものが証になる書である。読んだ者が、書き手の後ろに国の格を見ずにいられない書。賊には書けるはずがない書を書く。観察使の官称と宛名の書式は、昼のうちに従者へ前の三通を出させて確かめてあった。
姿はあった。だが姿と、紙の上の一字との間は遠かった。
初めの一枚は書き出しで捨てた。
日本国の使い、風波に漂うて大唐の境に至る。憐れみを垂れたまわんことを。正しい。事実である。そして、大使の三通と同じ音がした。
二枚目は半ばまで書いて捨てた。紙は貴重だった。捨てるたび胸が痛んだ。痛んでも捨てた。惜しんで残した半端な文章は、書き手の迷いごと読む者に伝わる。この書に迷いを一字も載せられなかった。残る紙は数えるほどになった。従者が大使の行李の底から、もう一束を出してきた。夜は長かった。灯りの芯が焦げる音だけが、時おり小屋に立った。墨を磨り足すたび、闇の中の潮の音がふと近くなった。墨の匂いと潮の匂いが、板の上でひとつになった。
生涯の言葉が集まってくるのが分かった。
大学で叩き込まれた詩文の型。声に出して読まれる文章の、音の運び。宴の座興で求めに応じて即興を吐き続けた、あの回転。人の言葉つきで書き分けた代筆屋の耳。三教指帰で三人の人物を語り分けた、あの息。翁から蔵った、千年を運ぶ節の重さの置き方。
手が覚えていた。宴の座で墨を投げるように書いたときの速さも、頼み手の口ぶりを字に移すときの筆の傾きも、指はまだ持っていた。忘れていたのは頭のほうだった。
だがそれだけでは、まだ届かなかった。
型と音と回転は文章を巧くする。巧い文章と疑いようのない文章の間には、まだ一段あった。その一段を越えるものを、空海は夜半すぎに見つけた。見つけたというより、思い出した。
山だった。
高い山は黙っている。
七年、その黙のそばにいた。山は一度もおのれを説かなかった。来いとも言わなかった。それでも鳥は労を告げずに山へ帰る。深い水は何も言わない。それでも魚は倦むことを憚らず、深みへ赴く。徳のあるところへ、生きものは呼ばれずに集まる。
これを書けばよかった。
大唐の皇帝の徳を、高い山と深い水に置く。だからわれらは来たのだ。万里の波濤を越え、僚船を闇に見失い、帆を穿たれ柁を折られ、それでも来た。漂流の惨状は、憐れみを乞う材料であることをやめる。徳へ向かう者の、労を告げない旅の姿になる。
重い船が空の身で出て、満ちて帰るのも、その徳の及ぶところである。そう一句を継いだ。船のことを書いたつもりだった。
請うことはただ一つ。上陸して都へ至る道を、短く置く。
筆が走りはじめた。
高山は澹黙なれども、禽獣は労を告げずして投帰す。深水は言わざれども、魚龍は倦を憚らずして逐赴す。書き出しの対句が据わった。据わった石の上に、次の石が載った。文章が文章を呼んだ。音で書いた。観察使の幕僚の声で読み上げられる声を、谷で鍛えた耳が一句ごとに聞いた。
黙っている山のことを言葉で書けるのは、山の黙を聞いた者だけだった。
いつから外の咳が聞こえていないのか、分からなかった。
手が震えるときがあった。息を整え、また書いた。夜気が肩に刺したが、寒さは指の先まで届かなかった。
夜明け近く、疲れが指の根に来た。書き終いに近い一枚で、一点、はねを損じた。その一枚は捨てた。渇いた目に灯りの芯が滲んだ。皿の油が細くなり、炎が縮んだ。
戸口が白みはじめていた。灯りはもう要らなかった。空海は皿を脇へ寄せた。捨てた紙が三枚、板の上に重なっていた。それを裏に返して下に敷き、朝の明かりで、損じた句から残りを書いた。筆はもう迷わなかった。迷いは夜半までに全部捨ててあった。
言葉の全部が要る夜だった。
*
海鳥が一声、遠くで鳴いた。夜の間に潮が引いて、濡れた砂の帯が柵の下まで白く光っていた。
書は成っていた。空海は筆を置き、最初から一度だけ読み返した。一字、直したい字があった。直せば前後の音が崩れた。そのままにした。ほかの言葉は、そこにしか置けない場所に置かれていた。
外で通訳が立ち上がる音がした。それから、走る足音になった。
大使が呼ばれて来た。
寝ていなかったのだろう。目の縁の赤い顔で、板の上の書を取った。読みはじめてすぐ、その姿勢が変わった。座り直したのである。書に向かって襟を正す者の座り方だった。外では男たちが起き出して、朝の粥の支度の煙が立ちはじめていた。
長い書ではなかった。だが大使は長いこと読んでいた。二度読んだのだと、あとで分かった。読み終えて、書を持ったまましばらく動かなかった。それから顔を上げずに言った。
「……これは、そなたの名で出すべき書だ」
「いいえ。大使さまの名で」
空海は静かに言った。
「日本国の使いの書として出るのでなければ、この書は用をなしません。……名は、要りません」
大使は顔を上げた。しばらく空海を見て、それから言った。
「では、帰朝の後に奏上する。この書を書いた者の名を、朝廷に」
「それも、要りません」
大使は何かを言いかけて、やめた。それから筆を取り、書の末に自分の名を書いた。墨継ぎの音が、一つした。
その朝のうちに書は乾いた油紙に包まれ、鎮将の手を経て福州へ発った。使いの馬の蹄の音が、街道の先で細くなって消えた。
浜には、また待つ日々が残った。朝の経の声に、口の中で合わせる者が増えていた。
だが待ち方が変わっていた。囲いの中の男たちは知っていた。あの坊さまが夜通し何かを書いた。大使さまがそれに頭を下げた。何が書かれたかは誰も知らない。それでも男たちは、福州の空の方角を見るようになった。
書はいま、二千里の入口の役所の机へ向かっている。
言葉では信を得られなかった浜から、一枚が出て行った。読むのは、文章で人を計る国の官人である。




