第52話 上陸拒否
沖へ退去せよという命は、しかし船そのものが拒んだ。
大使は退去の命を受けたその日のうちに、鎮将へ再嘆願の書を送った。船は柁を失い、船底は傷み、外海に出れば沈むほかない。修理の間の滞留を許されたい。鎮将はそれを受けた。役人を送り、船を検分させた。検分の答えは明らかだった。この船は航行に堪えない。検分の役人は、船底の穴を見て黙って首を振った。
退去は、修理の名目で猶予された。
ただし上陸の許しではなかった。浜の囲いはそのままである。船の修理も資材が届かず進まなかった。進まないことがむしろ、滞留の口実として都合がよかった。奇妙な均衡の上で、宙吊りの日々が始まった。朝な夕なに潮は満ち、引き、日だけが確かに減っていった。
鎮将は時折、囲いの様子を見に来た。
良い官であることは変わらなかった。糧の配給を絶やさなかった。病人が出れば薬草を届けさせた。だがそれ以上は動かなかった。動けなかった。上陸の許否は福州の観察使の権であり、鎮将の身丈を越えていた。身丈を越えるものには手を出さぬ。それがこの官の生き延び方だった。
「観察使どのは、代替わりでな」
あるとき、鎮将は囲いの柵ごしに通訳へ漏らした。
「新しい観察使どのは、赴任してまだ日が浅い。前例のない客人を上げて、もし賊であれば首が飛ぶ。上げずに、まことの使いであれば、それでも首は飛ばぬ。役人の秤とはそういうものでな」
*
囲いの中にも、日々の形はできていった。
男たちは破れた帆を繕い、綱を綯い直し、修理の来ない船の、来る日のための手入れを続けた。仕事は正気の錨だった。若い留学生は、空海と通訳の唐語の稽古に欠かさず加わった。湯餅の水夫は、柵ごしに村の煮炊きの煙を数えるのを日課にしていた。今日は七筋じゃ、祭りでもあるかの。そんな報告が、囲いの中の小さな楽しみになった。煙の数は、囲いの外に暮らしが続いていることの証でもあった。
大使は書を送り続けた。
観察使への嘆願の書である。事の次第、使いの由来、船団の離散、印の由緒。筆を尽くし、礼を尽くし、三度、送った。返事は来なかった。来てもそっけない一行だった。検討する。待て。それだけである。書の往復には片道で幾日もかかった。待つ側の日は長く、返る一行は短かった。
書は届いている。読まれてもいる。だが動かない。
あるとき、大使の従者が次の書の下書きを抱えて通りかかった。空海は乞われてそれを目にした。留学僧の中に文章の心得のある者がいると、録事のあたりから聞こえていたのだろう。読んでくれ、と従者は言った。読んだ。
正確な書だった。
事実は漏れなく並んでいた。礼式は正しかった。文法の誤りはひとつもなかった。弁明の筋は通っていた。そして、胸を打たなかった。
空海はその書を二度読んだ。読みながら、この国のことを考えていた。
この国は、文章の国である。官吏は詩文の試で選ばれる。文の格がそのまま書き手の格を示す。皇帝への上奏も、官と官の間の往復も、すべて文の出来が物を言う。文は人なり。それがこの国の官界の言葉の作法だった。
その晩、空海は通訳に問うた。
「唐の官人は、書をどう読むのですか」
「どう、との」通訳は莚の上で胡座を組み直した。「そうさな。わしが前に唐におった時分、あちらの役人が言うとった。文を見れば、その男の育ちも器も肚の底も、みな見える、とな。あちらはの、御坊。詩文の試で官を選ぶ国じゃ。文が書けん者は人ではない、とまでは言わんが、まあそれに近い」
「では、大使さまの書は」
「正しい書じゃ」通訳は少し言葉を選んだ。「正しい書は、正しい、というだけのことよ。あちらの官が唸るのはの、正しい書ではない。美しい書じゃ。読んだ者の胸ぐらを掴んでくる書じゃ。そういう書を書く者を、あちらでは疑わん。書けるはずがない、と思うとるからよ。賊には」
賊には、書けるはずがない書。
それが、この国における言葉の形をした証だった。印は彫れる。名乗りは言える。だが胸ぐらを掴む文章は、彫れない。
だとすれば。
観察使は大使の書を読んでどう思ったか。疑いを理で解こうとする書。だが疑いは、理では解けないのだった。あの鎮将の秤がそれを教えていた。首が飛ぶか飛ばぬか。理はすべて理解された上で、信じられなかった。動かすべきは、人の心の置き場所である。
では、何が動かすのか。
空海はその問いを抱えたまま、書を従者に返した。
*
抑留は五十日を越えた。
秋が深まった。浜の風に、朝ごとの冷えが混じった。福州の秋は、日本の秋と匂いが違った。それでも秋だった。囲いの中の男たちは痩せ、目の光を失いはじめていた。海の三十四日を耐えた身体が、浜の五十日にべつの削られ方をした。海には敵の形があった。摑みかかる波も、折れる柁もあった。浜の敵には、形がなかった。ただ待つよりほかにない日々が、いちばん深く男たちを削った。夜になると、柵の向こうの村に灯がともった。届かない灯だった。
やがて、病人が出はじめた。
熱の病だった。異国の水と疲れと季節の変わり目が、弱った身体を順に倒した。空海は山の薬の残りで手当てに回った。爺と翁の包みは底が見えかけていた。それでも幾人かは熱の峠を越えた。峠を越えた者の粥に、鎮将の届けた米が入った。
越えられない者が、ひとりだけ出た。
年かさの水夫だった。嵐の夜、誰よりも長く艫で櫂を握っていた男である。三十四日の海を生き延びた男である。湯餅の水夫と同じ艫の組で、あの晩も並んで櫂を握っていた。その男が浜の囲いの中で熱に倒れて、三日目の夜明けに息を引き取った。
空海は最期の夜、その枕元にいた。濡らした布で唇を湿し、夜どおし脈を取っていた。莚の反対側に、湯餅の水夫が座っていた。ひと晩、動かなかった。
男は熱の中で、幾度か櫂を漕ぐ手つきをした。夢の中でもまだあの嵐の海を漕いでいるのだった。指の下の脈は細く速く、時折ふいに飛んだ。湿した布は、湿すたびにすぐ乾いた。明け方近く、手が止まった。目がうっすらと開いた。空海を見た。それから囁くほどの声で言った。坊さま。名ぁ、頼む。載せてくれ。そこで息が切れた。継ぐのに間が要った。あんたの、朝の声で。今度は、載せませんとは言えなかった。言うかわりに空海はその名を聞き取り、深くうなずいた。うなずいた首が、なかなか上がらなかった。
海は越えたのに。
柵ひとつを、越えられなかった。
*
葬送は翌る日、浜で行われた。
鎮将が火葬の許しと薪を出した。良い官の精いっぱいだった。仲間の水夫たちが薪を組み、楫取が火を入れた。潮に湿った薪は初め白い煙ばかりを吐き、やがて底のほうで爆ぜはじめた。脂の匂いが浜の冷えを割って立った。風下にいた若い水夫がひとり、後ろを向いて肩を震わせた。空海は経を読んだ。名の経の声で読んだ。
煙が、異国の空へまっすぐに立った。風のない、よく晴れた朝だった。
囲いの外で、唐の兵たちが遠巻きにそれを見ていた。誰が命じたのでもなく、幾人かが槍を置いて頭を垂れた。言葉は五十日通じなかった。経の声は通じていた。死者を送る声は、国の別なく死者を送る声として届くのだった。
その夜、空海は帳面に名を載せた。
日本の海で死んだ者たちの名の、いちばん新しい頁に、唐の浜で死んだ最初の名が並んだ。海はひとつだと思ってきた。ならば土も続いている。届くと決めて読む。それがこの帳面の作法だった。
翌る朝の経に、その名は乗った。読み上げる声がその名のところでわずかに深くなるのを、囲いの誰もが聞いた。
仲間の水夫たちが、朝の経に初めて全員で和した。嗄れた声の群れが浜の朝に低く渡った。柵の外の兵たちがまた頭を垂れた。その朝だけは、囲いの内と外の境が薄かった。
*
その夜遅く、空海の莚の前に人が立った。
大使だった。従者をひとりだけ連れていた。灯りは、従者の持つ小さな手燭ひとつだった。
空海は身を起こし、居住まいを正した。位階にして雲の上の人である。国の使いの長が、留学僧の末席の莚の前に自ら立っていた。夜目にもその顔の憔悴は深かった。手燭の灯に、書を送り続けた右手の指の腹が墨で黒いのが見えた。
大使はしばらく黙って空海を見ていた。
それから、静かに問うた。
「……そなたが、あの書の作者か」
あの書、が何を指すか、問い返すまでもなかった。三教指帰。都で書き手のいない間に殖え続けた、あの三巻。その名声は船に乗り、海を渡り、嵐と漂流を越えて、いま異国の浜の莚の前まで来ていた。
「……空海と、申します」
大使はうなずいた。うなずいてそのまま、また長いこと黙っていた。雲の上の人が、末席の僧に何かを頼もうとしている。従者の手燭の炎が、動くもののない闇の中でひとりでに揺れた。空海は急かさなかった。ただ待った。
浜の闇の向こうで、海が鳴っていた。
五十日、男たちを閉じ込めてきた、あの静かな果てのない音である。その音の上に、大使の声がようやく落ちた。
「――頼みが、ある」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第52話「上陸拒否」。宙吊りの五十日の話です。
退去の命は、船が拒みました。航行に堪えない船の修理の名目で、退去は猶予。ただし上陸の許しではない。奇妙な均衡の上の、宙吊りの日々。鎮将は良い官のままです。「役人の秤とはそういうものでな」。
大使の書は、届いて、読まれて、動きません。正確で、礼を尽くし、事実を並べて、胸を打たない。この国は、文章の国。文の格が、書き手の格を示す。疑いは、理では解けない。動かすべきは、理ではなく、人の心の置き場所。では、何が動かすのか。この問いが、次話の筆に繋がります。
そして、死者が出ました。三十四日の海を生き延びた水夫が、柵ひとつを越えられずに。名の帳面に、唐の土で死んだ最初の名が載ります。海はひとつ。ならば、土も、続いている。葬送の経に、唐の兵たちが頭を垂れました。言葉は五十日通じなかった。経の声は、通じていた。
夜、大使が、末席の僧の莚の前に立ちます。「そなたが、あの書の作者か」。書の名声は、海を渡っていました。
次話「嘆願の筆」。雄弁の生涯の、決算が始まります。




