第51話 漂着
陸は揺れていた。
八月の初め、仮の舵の船は、河口の浅瀬に半ば乗り上げるように着いた。男たちは我先に浜へ下りた。下りて、よろめいた。三十四日ぶりの動かない地面は、動かないがゆえに動いて感じられた。海の揺れを覚え込んだ身体が、陸の静けさに酔うのである。男たちは砂の上に膝をつき、手をつき、幾人かはそのまま砂に頬をつけた。濡れた砂の冷たさが、生きて着いた証だった。
動かない地面がこの世にあった。
それだけのことが、涙の出ることだった。泣く声は、しばらく浜のあちこちで続いた。
*
河口の川の水は、飲める真水だった。
男たちは川に群がり、飲み、浴び、また飲んだ。三十四日、椀の底で計ってきた水が、いま流れるままにあった。空海も飲んだ。腹の底へ、冷たい流れが落ちていった。飲みながら川上の山々を見た。深い緑の、見知らぬ形の山だった。日本の山とは木の姿が違った。空気の匂いが違った。土の色が違った。川の水は山の匂いを運んでいた。それも知らない山の匂いだった。
どこかの異国に着いたのである。
浜の向こうに村が見えた。家の屋根の反りが日本のものと違い、壁は見慣れぬ色に塗られていた。畑の畝は日本より広く切ってある。風に乗って、見知らぬ香辛の煮炊きの匂いが流れてきた。犬の吠え声さえどこか違って聞こえた。目と鼻と耳が、届くかぎりの異国を片端から蔵っていった。あの帳面が三十四日ぶりに、新しい頁を貪るようにめくり始めていた。
村人が遠巻きに集まってきていた。日に灼けた、漁師や農夫らしい人々である。恐れと好奇の入り混じった目で、漂流者の群れを見ていた。通訳が進み出た。空海も並んだ。船倉の稽古の、初めての実戦だった。舌が乾いた。渇きのせいだけではなかった。
「お尋ねいたします。ここはどこの国の、何という土地でしょうか」
通訳の唐語に村人たちがざわめいた。言葉が通じたのである。年かさの男が進み出て答えた。音の高低が意味を運んで耳に入った。
大唐。福州の地。長渓県、赤岸鎮。
唐だった。目指した国の名だった。
着いていたのだった。風と波に任せた三十四日が、船を目指した国の岸に運んでいた。通訳が振り向いて叫んだ。唐じゃ、着いとる、ここは唐じゃ。浜に歓声が弾けた。男たちが抱き合った。泣く者、笑う者、砂に伏して拝む者。楫取が船に向かって深々と頭を下げていた。船霊への礼だった。空海も砂に膝をつき、海のほうへ長く頭を下げた。
*
槍が来たのは、着いたその日の半日ののちだった。
浜の向こうから兵の一隊が駆けてきた。槍と、弓。陽を受けた穂先が、浜の上で硬く光った。砂に刺さった槍の石突きが、いくつも並んで立った。穂先の影が、浜に短く落ちた。村人たちが潮の引くように退いた。兵は漂流者たちを浜の一角に囲い込んだ。歓声は消えた。囲いの外から馬上の官が進み出た。鎮を預かる官である。その誰何は短かった。
何者か。
短い誰何の唐語が、浜の上に硬く落ちた。答えるまでの短い間に、兵の列が半歩詰めた。
大使が進み出た。潮に朽ちた官服の襟を、それでも正して。襟を正す指が、塩で白くなっていた。爪の間にも、白い粉が残っていた。通訳がその言葉を運んだ。日本国の使いである。国の命により、大唐の皇帝陛下に朝貢のため参った。嵐に遭い、船団と離れ、漂流の末にこの地へ着いた。
官は馬上から一行を見渡した。
その目の動きを、空海は囲いの中から見ていた。官の目は疑う者の目ですらなかった。値踏みする目だった。目の前にいるのは何か。潮に灼け、痩せこけ、ぼろをまとい、髭の伸びた百数十人の男たち。大使と名乗る男の官服は色が抜け、金の飾りは潮に曇っている。国の使いの威儀はどこにもない。あるのは漂流者の群れ。あるいは、そう装った何かの群れ。
「……証は」
と、官は言った。
大使が印を示した。国の印である。官は馬を寄せ、それを検分した。長いこと見た。官の指が、印の縁を二度、なぞった。それから首を振った。
「近年、この海には賊が多い。日本の使いを名乗って岸に寄り、村を襲うた船がこれまでに幾つもあった。印は彫れる。名乗りは言える。まことの使いなら、なにゆえ国書の備えがこれほど薄い」
通訳が訳した。大使の顔から血の気が引いた。使いの威儀を示す文書の主立ったものは、船団の他の船に分けて積まれていた。あの嵐の夜、四つに引き裂かれた船団の、どこかの船に。
*
言葉は通じていた。
それがかえって事を難しくした。官は、理解した上で信じなかった。
名乗りは言葉でできる。
証は、言葉ではできぬ。
空海は囲いの中でその理を噛みしめていた。本物だけが持つものは、印と国書と威儀である。印は彫れると言われ、国書は他の船とともに海の向こうで、威儀は嵐が剥ぎ取った。残っているのは言葉しかない。その言葉が、いま信を得られずにいた。
「鎮将どの」
大使が最後に言った。
「われらを疑われるは、ご職務もっともである。なれば、福州の観察使どのへお取り次ぎを願いたい。しかるべき筋の検分を受けたい」
官はしばらく大使を見ていた。馬の尾が、苛立つように一度だけ揺れた。それから初めて、目の色をわずかに緩めた。
「それは、受けよう。報せは送る」官は馬首を返しかけて、囲いの中の男たちをもう一度見た。「気の毒とは、思う。まことの使いなら、なおのこと。じゃが、疑うのがわしの職である。この海で疑わぬ官は、村を亡ぼす」
悪い官ではなかった。
むしろ良い官だった。良い官であることが、この場ではいちばん動かなかった。
*
一行は浜の一角に留め置かれた。
仮小屋が許された。水とわずかな糧も届けられた。だが鎮の外へは一歩も出られなかった。船は兵の監視の下に繋がれた。村人との勝手な行き来も禁じられた。浜の一角に、竹と縄の粗い柵がめぐらされた。柵の杭は浅いのに、越えられない深さを持っていた。
陸は足の下にあった。
だが唐はまだ遠かった。
三十四日の海を越えて、目指した国の砂を踏んで、その砂の上で一行は宙に吊られた。生きて着いたという歓びは、日ごとにべつのものへ変わっていった。使いとして扱われぬという屈辱。長安はここから二千里の彼方である。その二千里が、浜の囲いの柵一重で閉ざされていた。
囲いの日々は、男たちをべつの形で削った。
海の上では、着けば終わるという望みがあった。着いて終わらなかったいま、望みの継ぎ足し方を男たちは見失った。苛立ちが小屋の中にこもった。言い争いが増えた。同じ莚の上で、背中と背中の間が広くなった。あの湯餅の約束の水夫は、囲いの柵ごしに村のほうを毎日眺めていた。あるとき、ぽつりと言った。
「坊さま。……湯餅の匂いがするのう。あの村の煮炊きの中に」
「するようですな」
「長安の湯餅は、もっとうまいんじゃろの」
「でしょうな。約束は長安の市です。こんな浜で済ませはしません」
水夫は割れた唇で笑った。囲いの中の約束は、囲いの外の約束よりよほど強く人を支えた。
空海は朝の経を続けた。
名の帳面は海を渡り切っていた。異国の浜の朝に、日本の海で死んだ者たちの名が乗って出ていった。海はひとつである。届く先は変わらない。兵たちが遠くから怪訝な顔でそれを見ていた。幾日かすると、怪訝な顔がただ聞く顔に変わった。槍を立てたまま、朝の声に耳を澄ます兵もいた。経の声は、言葉の通じぬ者の耳にも経の声として届くのだった。
囲いの中でも、耳は働き続けた。
兵たちの交わす言葉。交代の刻限の呼び声。村から聞こえる物売りらしい売り声。福州の言葉は、通訳の教えた都の言葉と音がずいぶん違った。同じ唐の中に幾つもの言葉がある。その違いごと耳は蔵った。牢の中でも学問はできる。書物のない学問ならなおのこと。耳から入るものはすべて、いつかの路銀になる。
言葉より深くへ届く声がある。
そのことを、空海は囲いの浜であらためて確かめていた。確かめながら考えていた。言葉が信を得られぬなら、言葉より深いもので信を得るほかない。だが観察使は遠い。声は、届かない。
*
幾日ののち、福州から返答が来た。
鎮将が自ら伝えに来た。馬を下り、徒歩で来た。その顔つきで中身は読めた。短い、冷たい返答だった。
――上陸、罷りならぬ。検分の要、認めず。船は沖に退去すべし。
浜が静まり返った。波の音だけが、変わらずに続いていた。
大使は返答の書面を握ったまま、長いこと動かなかった。楫取が繋がれた船のほうを見た。仮舵の、傷だらけのあの船を。三十四日、男たちを生かして運んだ船が、もう一度海へ出れば今度は運びきれない。それは船を知る者なら誰でも分かった。
沖に退去せよとは、あの柁の折れた船でまた海へ出よ、ということだった。三十四日の海を生きて越えた男たちに、海がまた口を開けていた。




