第50話 天水の碧色
嵐は三日荒れて、去った。
四日目の朝、雲が割れ、日が差した。男たちは船倉から這い出して世界を見た。残されたのは、静かな果てのない青だった。波はまだ高かったが、牙は抜けていた。空は洗われて高かった。そして、どちらを向いても陸はなかった。他の船の帆もなかった。四つで出た船は一つになっていた。波の背だけが、どこまでも連なっていた。
柁はない。
水夫たちが太い櫂を幾本も束ね、船尾に仮の舵を組んだ。効きはまことの柁の十が一つ。握りの木は、まだ濡れていた。船は進む道具から浮かぶ道具に変わっていた。束ねた櫂は、波を受けるたびに重く軋んだ。
波に随って昇り沈み、風に任せて南へ北へ。
行く先は風と潮が決めた。人にできるのは、浮かんでいることと待つことだけだった。待つことは、海の上ではそれだけでひとつの行だった。
*
見えるものは、天と水の碧の色だけだった。
朝も昼も夕も、三百六十度、青の濃淡だけが世界のすべてだった。初めの数日、男たちは水平線に目を凝らした。陸を、帆を、何かの影を。何もなかった。目はやがて凝らすことをやめた。見るものがないということがこれほど人を削るとは、船の男たちですら知らなかった。碧は牢獄の色になった。夜だけが色を消し、星が海とすれすれのところまで降りた。あおむけになった男たちの顔を、星明かりが薄く照らした。
空海には違って見えた。
天と、水。上半分と、下半分。遠い一線で接するふたつのもの。それはあの朝の、あの額縁の色だった。額を失って世界の全部になった景色の、そのまん中にいま浮かんでいる。同じ景色が、男たちには絶望の色で、空海には答えの色をしていた。あの洞の額縁が七年かけて教えたことの、これが海の上の稽古だった。
だがそれを口にはしなかった。
絶望の色を見ている人に、これは答えの色だと説くことほど遠い言葉はない。空海は説かなかった。ただ毎朝同じ刻限に舳先に立ち、同じ声で経を読んだ。
*
水が減っていった。
樽の水は配給になり、配給は日ごとに細った。椀に一杯が半分になり、半分が底の見えるほどになった。唇が割れはじめた。声が嗄れはじめた。舌が口の中で、他人のもののように重くなった。飯は生の干飯を噛むだけである。火は惜しんだ。水盡き、人疲る。言葉にすればそれだけのことが、船の上のすべてになった。
飢えと渇きは、空海には旧知だった。
あの雪の冬、貯えの勘定が春に届かなかった日々。身体はあのときの飢えを覚えていた。覚えているから慌てなかった。飢えは初めがいちばん騒ぐ。騒ぎが過ぎれば、身体は細く燃える焚き方に自分で変わる。その変わり目まで心が保てばいい。空海は自分の配給の水を幾度か、若い留学生の椀に半分移した。移しながら言った。
「山で覚えました。人の身体は、思うより粘ります」
雨は一度だけ来た。
雨雲が水平線に見えたとき、空海は楫取に帆布のことを言った。破れた帆布を広げ、中央を窪ませ、雨を受ける。山の岩屋で竹を割って雨垂れを導いた、あの雨受けの海の上の形である。水夫たちが総出で布を張った。雨は半刻降った。布の窪みに溜まった水を、男たちは一滴もこぼさなかった。樽が三分の一戻った。男たちは椀の水を、薬を飲むように少しずつ飲んだ。天の水は、どの水よりも甘かった。
「山の坊さまは、雨の受け方まで知っとるか」
楫取が言った。
「山では雨が命でしたので」
「海でもよ」
*
望みの扱い方がいちばん難しかった。
望みは水と同じで、一度に飲み干せばあとが続かない。明日は陸が見えると言い切った男は、明後日の朝、人より深く落ちた。空海は望みを朝の経の長さに刻んで配った。今日一日ぶんの望みだけを持つ。明日の望みは明日の朝の経が連れてくる。山の雪籠りで覚えた細く長く燃やす焚き方は、薪だけの話ではなかった。
日が数えられなくなっていった。
同じ青の朝と、同じ青の昼と、同じ青の夕の繰り返しは、日々の境の目盛りを溶かした。あれは何日前だったか、嵐から幾日経ったか。男たちの言い合いが時折起きた。十七日だ、いや二十日は経った。数の合わない言い合いは、心の底の乱れの漏れ出す穴だった。
あるとき、楫取が言い合いを断ち切って空海に訊いた。
「坊さま。あんた、分かるかね。今日で幾日か」
「二十三日目です」
空海は即座に答えた。嵐の明けた朝からの日数は、頭の帳面が一日の狂いもなく刻んでいた。数えようとしたのではない。あの帳面は数えるのである。生まれてこのかたそうだった。楫取はしばらく空海の顔を見て、それから男たちに言った。
「聞いたか。二十三日じゃ。今日から、日付は坊さまが持っとる」
数えられない海の上で、数える男が時の錨になった。
山であれほど殺そうとした数だった。行の敵として五たび戦い、五たび敗れたあの数える力が、海の上では幾百人の男たちの正気の拠り所になった。数は殺さなくてよかったのだ。数には数の席があった。その席が行の座ではなかっただけのことで。
*
夜、通訳はそれでも唐語の稽古を続けてくれた。
「着いたときにゃ、話せんと困るでな」
渇きで嗄れた声の稽古だった。着いたときにゃ、という言い方を、通訳は意地でも変えなかった。着いたら、ではない。着いたときにゃ。もう決まっていることのように言い続けた。そう言い張ることで、この男は自分の明日を手元に繋いでいた。若い留学生は空海の隣で聞いて覚えた。三人の唐語が、渇きの船倉で細く続いた。明日のための言葉だけが、渇きに勝った。
名の経は一日も絶えなかった。
毎朝、空海は舳先に立ち、名を読んだ。室戸の名たち。船の男たちが預けた名たち。声は嗄れても出た。谷で割れ、癒え、低くなった声は、渇きの底でも回る道を知っていた。船の男たちは朝の経で一日を始めた。時も方角も望みも細った船で、変わらずに繰り返されるものがそれだけあった。声の続くかぎり、船はまだ人の船だった。
ある朝、経のあとで、衰弱した水夫が空海を呼んだ。
古株の無口な男だった。壁にもたれたまま、割れた唇で少し笑った。頬の肉が落ち、笑うと皺だけが動いた。
「坊さま。わしらより、その帳面の衆のほうが人数が多うなったのう」
黒い冗談だった。空海は笑わずに聞いた。水夫はそれから目を海のほうへやって言った。
「なあ、坊さま。わしが、もしここで死んだらよ。……その帳面に、わしの名も載せてくれるかの。そしたら毎朝、あんたの声で呼んでもらえる。海の底におっても、朝が来るたび呼んでもらえる。……そう思うたらよ、海で死ぬのが、そう恐うなくなっての」
船倉が静まった。
聞いていた男たちの幾人かが、同じことを思っていた顔をしていた。いつか死ねばあの声に呼ばれる。その思いが、渇きの底の男たちを静かに支えていた。回向というものの、これがいちばん遠い効き方だった。
空海は水夫のそばに膝をついた。痩せた手が、莚の上に置かれていた。
それから、はっきりと言った。
「載せません」
水夫が目を瞬いた。
「あの帳面は、死んだ人の帳面です。あなたの名は載せません。あなたの名は、生きて、長安の市で呼びます。着いたら、いちばんうまい湯餅の店で私があなたの名を呼ぶ。返事をするのは、あなたです」
水夫はしばらく黙っていた。それから割れた唇で、今度は声を立てて笑った。
「湯餅とは、何じゃ」
「知りません。通訳どのが、うまいと言っておりました」
船倉に、幾日ぶりかの笑い声が起きた。細い、嗄れた、だが生きている者の笑い声だった。
*
三十四日目の朝だった。
名の経を読み終えた空海の耳が、聞き慣れない声を拾った。鳥である。海鳥の声が遥か高くで鳴いていた。嵐このかた初めて聞く、陸の使いの声だった。男たちが一斉に空を仰いだ。白い翼が、青の中で光った。
「――鳥じゃ」
楫取が空を指した。それから五十年の海の男は、皺の中の目を水平線に据えた。
「鳥は、陸から来る」
昼、水平線の西の果てに青い線が見えた。雲ではなかった。消えなかった。男たちが舷に鈴なりになった。誰かが泣いた。誰かが笑った。泣き笑いのまま、隣の男の肩を叩く者もいた。仮の舵が軋みながら、船首をその線へ向けた。
楫取が潮の色を見た。それから水の匂いを嗅いだ。海の色が変わっていた。碧の底に、川の運ぶ土の色が混じりはじめていた。大きな川が近くの陸から海へ出ているのである。五十年の鼻は、土の匂いを間違えなかった。
「大きい陸じゃ。島では、ない」
唐だ、と誰かが言った。唐に決まっとる、と誰かが応じた。誰にも確かめようはなかった。それでも男たちの割れた唇が、みな同じ形に動いていた。生きて、着く。三十四日ぶんの海が、その短い言葉をこれほど重くしていた。
陸だった。
どこの、陸か。
着いた場所の名を、誰もまだ知らない。




