第49話 暴雨穿帆
約束の三日目は、朝から色が違った。
空の南東の隅に、墨を流したような雲が低く湧いていた。風はまだ順風である。だがうねりはもう隠さなかった。間合いは長く、背は高い。船腹を持ち上げる力に、昨日までとは別の底力があった。海鳥の影は朝からひとつも見えなかった。鳥は人より先に空の機嫌を知る。
楫取は夜明けから船を嵐支度に変えていた。
帆を縮めさせた。荷を縛り直させた。竈の火を落とし、水路を確かめ、水夫たちの持ち場を決め直した。号令は短く無駄がなかった。五十年の海の男の背中が、船じゅうの男たちの恐れの置き場になっていた。縄の結び目をひとつずつ確かめて回るその手つきに、迷いはなかった。
「坊さま」と楫取は空海を呼んだ。「あんたの骨は、波の先が読めるんじゃったな」
「間合いなら」
「わしの近くにおってくれ。……今夜は、耳が幾つあっても足りん」
昼のうちに男たちは食えるだけ食った。炊きの男が竈を落とす前に、握り飯を山ほど作った。握り飯は塩が強かった。汗で失う分を、炊きの男は知っていた。今夜は火も飯もない。分かっている者から順に食った。若い留学生は喉を通らない様子だった。空海は自分の分をひとつ、若者の手に握らせた。
「食えるときに、食う。山でも海でも同じです」
若者は頷いて無理に噛んだ。噛むことがすでに恐れと戦う仕事だった。
*
夕刻、雨が来た。
雨ではなかった。矢だった。
南東からほとんど横ざまに走る太い雨が船を叩いた。叩くというより射た。甲板の板で雨が白く砕け、飛沫が煙のように走った。帆を縮めて残していた布に雨が当たり続け、穿った。布が鳴きながら裂けていった。雨が帆を穿つのである。そんなことが起こるとは陸の人間は誰も知らない。海の上では起こった。水夫たちが裂けた帆に取りつき、残りを下ろした。
風が牙になった。
笛のような高い音が帆柱と綱の間で鳴りはじめた。それが唸りになり、咆哮になった。山の颱風の夜と同じ咆哮だった。ただひとつ違った。あの夜、山は囲ってくれた。岩屋は幾百年の窪みで男ひとりを抱えてくれた。ここには囲いがない。あるのは人の手が作った木の殻ひとつ。その殻ごと海に掴まれていた。
夜が来た。
闇は山の闇より完全だった。空も海も境を失い、世界は音と揺れと水だけになった。目の前にかざした自分の手のひらさえ見えなかった。灯は舵座の風防の一つを残してすべて消された。火は荒れる船では水より恐い敵だった。男たちは互いの声と、たぐる綱の張りとで居場所を確かめ合った。
波が山になった。
*
高波は天に届くかと思われた。
波の谷に落ちるとき、両側の水の壁が夜空を塞いだ。波の背に持ち上がるとき、船は星のない天の底に突き出された。上るときは腹が沈み、落ちるときは身体が浮いた。海水が甲板を川のように走った。船倉には水が入りはじめていた。揺れは休みなく、立つことも座ることも許さなかった。
水は繋ぎ目という繋ぎ目から入った。上からは波が、下からは軋んだ板の間から。汲み出しの列が船倉に組まれた。男たちは膝と肘で船底を這い、持ち場についた。
男たちは汲んだ。
空海も汲んだ。桶を受け、渡し、汲み、また受けた。留学の僧も録事も炊きも、その夜はみなただの汲む手だった。木の殻の中の水を外の海へ返す。それだけの仕事を何百回も何千回も繰り返した。腕が上がらなくなった。上がらないまま汲んだ。桶の縁が手の皮を破り、塩水が傷に沁みた。沁みるたび、腕はまだ自分のものだと知れた。
合間に空海は舵座へ走った。
骨がうねりを読んでいた。汲みながらも読んでいた。波には群れがあった。大きな波は続けて来る。その先触れの間合いの変化を骨が拾った。
「次、大きいのが。三つ続きます」
「おう」
楫取が舵に身体を預けた。船首が波に立てられた。一つ。二つ。三つ。船は山を斜めに越えた。越えるたび楫取は何も言わなかった。言わない代わりに、次も空海の声を待った。声と舵。耳と腕。二人の連携が幾つもの波を越えさせた。
一度、読みが遅れた。
群れの外からはぐれ波が来た。間合いの外の波は骨にも読めない。横ざまに受けた波が船を深く傾けた。積み荷が鳴り、男たちが転がった。船は悲鳴のような軋みを上げて、戻った。戻った瞬間、楫取と空海の目が合った。言葉はなかった。読める波は読む。読めない波は船と船霊と運に任せる。そう割り切って、二人は次の波に向き直った。
*
船倉で怯えが崩れはじめたのは夜半前だった。
若い留学生が莚の間で頭を抱えて震えていた。念仏とも悲鳴ともつかない声があちこちで上がりはじめていた。怯えは水と同じだった。ひとところから漏れると船じゅうに回る。暗がりのどこかで、桶の受け渡しが一度乱れて水音を立てた。
空海は船倉の真ん中に座った。
そして腹の底から経を上げた。
船人たちが聞き慣れた声だった。毎朝、舳先で死んだ者たちの名を乗せて海へ出ていった、あの声である。轟音は声を呑んだ。呑まれても上げた。低い声は木の船体にも伝わり、足の裏から響いた。谷を相手に七年鍛えた声は、呑まれながら途切れなかった。その夜、声にできる仕事はそれきりだった。
通訳がまず気づいた。桶を受け渡す手を止めずに、耳だけをこちらへ向けた。それから隣の水夫を肘でつついた。あの坊さまが経を上げとる。朝のあの経じゃ。囁きが水よりも速く船倉を回った。
震えていた若者が顔を上げた。
誰かが経に和した。ひとり増え、またひとり増えた。念仏が悲鳴の形から声の形に戻っていった。声は縄になった。縄の端は、どこにも結ばれていなかった。落ちていく心が掴まるための、太くはないが切れない縄である。男たちはその縄に掴まったまま、桶を回す手を動かしつづけた。
恐怖は、あった。
空海の中にもあった。波の谷に落ちるたび、腹の底が冷えた。木の殻の薄さを背中が知っていた。山の七年は恐怖を消しはしなかった。それと同じ場所に居られるようにしただけだった。恐れは恐れのままそこに居させて、声は声の仕事をする。
*
闇の中で、他の船の灯が消えていった。
嵐の前、四つの船は灯を確かめ合っていた。夜半、その灯がひとつ波間に見えなくなった。しばらくしてもうひとつ。残った灯の数を、誰も口に出さなかった。口に出せば、消えた数も言うことになる。灯がひとつ消えるたび、闇はひとまわり深くなった。そして第二船の灯が波の谷に沈み、二度と浮かばなかった。
沈んだのではない。離れたのだ。
風と波が、四つの船を四つの運命に引き裂いていくのだった。あの灯の下にあの疲れた顔の人がいる。同じ嵐の別の場所で、あの人もいま揺られている。息災であれと、空海は汲む手を止めずに思った。会ったこともない人だった。それでも同じ海に浮かぶ者は、もう他人ではなかった。
この夜引き裂かれた四つの船が、それぞれどこへ運ばれていくのか。誰が着き、誰が還り、誰が還らないのか。夜の海は何も教えなかった。空海はただ、次の桶を受けた。
*
夜半を過ぎたころだった。
それまでのどの音とも違う音が船尾で鳴った。
乾いた雷に似た、木の裂ける音だった。船が一瞬、生きものが息を呑むようにたわんだ。舵座から楫取の声が飛んだ。悲鳴に近かった。五十年の海の男の声が初めて裂けていた。
「――柁が」
柁が折れたのだった。
風が柁を折った。何百人の命の行く先を握っていたあの大きな木の板が、根元からへし折られて闇の海に持っていかれた。折れ口の白い木肌が、風防の灯に一瞬浮かんで消えた。船は波に横腹を向けはじめた。水夫たちが艫に殺到し、予備の櫂で必死に船首を立てた。立てても立てても、船はもう進む力と向かう先を繋げられなかった。
船倉に悲鳴が走った。柁を失った船が何を意味するか、船乗りでなくとも分かった。経の縄が千切れかけた。空海は声をいちだん深くした。千切れかけた声たちがもう一度掴まり直した。泣きながら和す声もあった。それでよかった。泣きながら掴まっている手は、まだ生きている手だった。
空海は汲む手を止めなかった。
止めないまま、耳は聞いていた。船の音が変わっていた。波を越える音から、波に運ばれる音へ。
船は生きていた。
ただ、行く先を失っていた。
夜明けの色が雨の向こうに滲みはじめていた。うねりの背を、鉛色の光が走った。嵐の背はまだ低くならなかった。雨は横ざまのまま、弱る気配を見せなかった。折れた柁の船は荒れる海の上で、風の行きたいほうへ流されはじめていた。
誰か能く風を繋がん。
十年前、都を出る置き文にそう書いた。風は繋げない。それは志の言葉だった。いまその同じ言葉が別の顔で返ってきた。柁を失った船は、繋げない風の行くがままである。志を運んだ風と船を攫う風は、同じひとつの風だった。




