第4話 海を渡る
船が、讃岐の岸を離れた。
帆が風をはらんで鳴った。真魚が生まれて初めて聞く音だった。粗い布が大きく膨らみ、軋み、張りつめる。その音の下で船板が低く呻き、船端を水がたえず叩いていた。舳先が波を切るたび、冷たい潮のしぶきが頬に散った。
楫を握っているのは、桟橋で真魚を船に乗せたあの甚だった。空を仰ぎ、風の匂いを嗅ぐようにして、太い声で水手たちへ短く指図を飛ばす。欠けた指の残った手が、楫の柄をあやまたず握っている。陸で見たときよりも、その背は大きく見えた。海の上でこそ、この男は本当の背丈になるらしかった。
岸が遠ざかっていく。真魚は艫の近くに座って、小さくなってゆく讃岐を見ていた。館のある丘も、見送りの人影も、もうとうに見えない。浜だけが白い一本の線になって、みるみる細くなっていった。
潮の音は、もう聞こえなかった。
あれほど身の底を流れていた寄せては返すあの谺が、いまは帆の音と水手たちの掛け声とに紛れてどこにもない。十五年、聞き続けた音だった。それがこんなにもあっさり遠くなる。真魚はしばらく呆然とした。
覚えても、連れてはいけない。今朝、浜で思ったことが、もう現になっていた。
代わりに、海が果てしなかった。
讃岐の浜から見ていた海は、いつも「向こう岸のある海」だった。だが船の上の海は違う。どちらを向いても水で、その縁は空と溶けて見分けがつかない。島がいくつも青くかすんで浮かんでいる。青い島影を一つ過ぎても、その先にまた海があり、行けども行けども尽きるということがなかった。
世間は、こんなに広いのか。
真魚は初めてそれを目で知った。郡の館で麒麟児と呼ばれていた。讃岐じゅうに自分ほど覚えのよい者はいない、と。その讃岐がいま、艫の向こうで白い線になって消えていく。
*
水手たちが櫓を漕ぎながら歌っていた。
甚が調子の頭を取り、水手たちがそれに和す。節のついた掛け声だ。意味のある言葉は半分も聞き取れない。だが真魚の耳はその節を一度で覚えてしまった。口の中でそっとなぞってみる。一節も、違わずに。
覚えられる。やはり、何でも覚えられる。
けれど、と少年は思った。この櫓歌を覚えたところで、櫓は漕げない。歌を覚えることと、海を渡れることは違う。また同じだ。覚えることはいつも、何かの手前で止まる。
真魚が口の中で節をなぞっているのに、甚がふと気づいた。
「坊、歌を覚えてどうする。櫓は歌では進まん」
しわがれた声だった。咎めるふうではない。真魚が「櫓は、漕げませぬ」と正直に言うと、甚は少し笑って、また空へ目を戻した。
「そうじゃ。海のことは、手が覚える。耳ではない。……まあ、おまえの耳がどこまで通じるか、都で見てみるがいい」
海のことは、手が覚える。耳ではない。その一言が、なぜか長く真魚の内に残った。
*
艫の近くで、阿刀の叔父が海を眺めていた。
「叔父上。この海を渡ると、都に着くのですか」
「いや」叔父は笑った。「これはまだ、入口じゃ。難波津に着いてから、川を上り、陸を行く。都は、まだ遠い」
「都は、どんなところなのですか」
「いまの帝が新しく造られた都じゃ。長岡の京という。まだ普請の槌の音があちこちで鳴っておるそうな。古い奈良の都を捨てて、一から築いておるのよ」
都を、一から築く。真魚にはその大きさが、うまく像を結ばなかった。郡の館を建てるのとはわけが違うらしい。
「真魚」と叔父は海の向こうへ顎をしゃくった。「讃岐では、おまえは一人きりの麒麟児じゃった。だが、見よ。この海の先に、おまえの知らぬ人間が何万、何十万とおる。書物も、学者も、おまえより上の者も、掃いて捨てるほどな。郡で覚えた経の何倍もの言葉が、あの都には積まれておるぞ」
脅しではなかった。叔父はただ、海の広さと同じことを言っているのだった。真魚はその言葉を、胸の奥で受け止めた。
*
同じ船にもう一人、都を目指す若者が乗っていた。
名を為麻呂といった。真魚より二つ三つ年上で、どこかの官人の子だという。日に灼けぬ白い手をして、良い絹の狩衣の裾を潮風に遊ばせている。一度都へ上ったことがあるとかで、船の上でも臆するところがなく、水手にも気安く声をかけた。都の話を、聞かれもせぬのに語る。
「大学寮か」と為麻呂は、真魚の行く先を聞いて言った。「やめておけとは言わぬが、田舎から出てきた者はたいてい初めにつまずくぞ。都の言葉も、作法も、何もかも違う。経が読めるだけでは、笑われるだけだ」
真魚は黙って聞いていた。為麻呂の言葉は半分は親切で、半分は自分が都を知っているという誇らしさだった。
だが真魚の耳は、その誇らしさの底にあるものまで拾ってしまう。この若者は都の言葉を、生まれたときから浴びて育ったのだ。歯切れのよい抑揚も、人をかるく見るその軽さも、努めて身につけたものではない。ただそこに生まれた、というだけのこと。
真魚はその都言葉を一度で覚えた。抑揚も間の取り方も、そっくりに。試しに、為麻呂の言いまわしをそのまま返してみた。
「なるほど。田舎者は、初めにつまずくのですね」
為麻呂の早口が、半拍だけ止まった。自分の口ぶりが、目の前の田舎の子の口からそっくり出てきたのだ。良い絹の狩衣の裾を、無意識のように握り直す。だがすぐに、鼻で笑ってみせた。
「口だけは達者だな」
真魚は、それ以上は言葉を返さなかった。都言葉は一度で覚えられる。だが「そこに生まれた」ことだけは、いくら覚えても手に入らない。掴めぬものが、また一つ増えた。
それでも、と少年は思い切って訊いてみた。
「都は……覚えるだけでは、足りませぬか」
為麻呂は怪訝な顔をした。
「足りぬも何も。都はな、覚えた者が勝つのだ」
迷いのない声だった。真魚はそれきり黙った。この人には、たぶん通じない。それでも、いつかこの問いの通じる誰かに、会えるだろうか。
*
難波津に着いたのは、翌日の昼だった。
船が岸に寄ると、甚が楫から手を離し、初めて真魚のほうを見た。
「わしの海は、ここまでじゃ。この先は、陸の者に連れていってもらえ」
それだけ言うと、甚はもう次の荷のことを水手に指図しはじめていた。別れの言葉はなかった。ただ、瀬戸へ戻る船の頃合いだけが、この男の頭にはあった。真魚は深く礼をした。潮と魚の脂の匂いのする、あの荒い手のことを、たぶん忘れまいと思った。
桟橋に降りると、真魚はまず音に圧倒された。
人の声が洪水のようだった。荷を担ぐ者の掛け声、物を売る者の呼ばわり、車の軋み、牛の鳴き声、どこかで打たれる槌の音。魚と潮と、人いきれの匂いが一度に押し寄せる。そして、言葉がいくつもあった。讃岐とは違う訛り。聞いたこともない抑揚。早口で歯切れのよい、都に近い者の言葉。
橋のたもとで、干した小魚を笊に積んだ女が、真魚の顔を見るなり早口でまくし立てた。買え、安い、と言っているらしいが、訛りが強くて半分も分からない。真魚がまごついていると、女はもう次の客のほうを向いて同じ口上をがなっていた。真魚の耳は、そのすれ違いざまの口上を、丸ごと覚えてしまう。隣を行く者たちのやりとりも、聞くともなくすっかり諳んじてしまう。
どれもたやすく身の内に収まった。讃岐の外へ出ても、この耳は少しも鈍らない。
讃岐では、真魚が経を諳んじれば大人たちは目を丸くし、神童と呼んだ。だがこの雑踏では、誰も真魚を見なかった。物売りも、商人も、急ぎ足の人々も、一人としてこの少年に目を留めない。覚えのよい子も、ここではただ人波に流される小さな影の一つだった。
それが、不思議と嫌ではなかった。誰にも知られていないということは、誰の期待もここにはないということでもあったからだ。肩にのしかかっていた家の名が、この雑踏の中ではふと軽くなった気がした。
だが、覚えれば覚えるほど、奇妙なことに胸の窪みは大きくなった。
讃岐で覚えるものは、限られていた。経があり、漢籍があり、それを覚え尽くせばひとまず底が見えた。だがここは違う。覚えても覚えても、まだ無数の声がある。言葉がある。人がいる。世間は、覚え尽くせぬほど広かった。
――では、この広い世間の、どこかに。
真魚はふと思った。覚え尽くせぬほど広いのなら。そのどこかには、覚えてもすり抜けぬもの、一生かけても掴みきれぬほど深いものがあるのではないか。讃岐の浜では見つからなかった。だが、これだけ広ければ。
窪みは相変わらず埋まらない。けれど真魚はこの雑踏の中で初めて、窪みを抱えたまま胸がかすかに高鳴るのを感じた。
*
その夜は難波の宿で過ごした。
壁の向こうから、宿の者の話し声、遅くまで開いている店の物音、遠い犬の声が絶え間なく届いた。讃岐の夜は、潮の音のほかにほとんど何も聞こえなかった。ここでは夜さえも、音で満ちている。板壁ひとつ向こうの寝息までが、妙に近く聞こえた。
真魚は寝床で、その音のひとつひとつを聞いていた。板壁を伝う物音も、遠い犬の声も、耳に入れば残る。残っても、砂のように指のあいだからこぼれ、手にはひとつも留まらなかった。
けれど、その夜の音は嫌ではなかった。むしろどこか心強かった。まだ自分の知らぬものが、この世にはこんなにもある。
*
翌朝、難波津から川舟に乗り換え、叔父に従って都への水路を北へ上っていった。岸の景色が、讃岐とも難波の浜とも違うものに少しずつ変わっていく。田が広がり、人家が増え、行き交う舟が多くなる。都が近づいている、と景色そのものが告げていた。
やがて、川の行く手からおびただしい槌の音が風に乗って聞こえてきた。
岸の彼方に材木が山と積まれ、真新しい木組みがいくつも空へ伸びていた。柱を立てる者、土を担ぐ者、号令をかける者。無数の人影が、蟻のように動いている。叔父の言った、一から築かれているという都の普請の音だった。
一つの都をまるごと新しく、地に起こす。それを人の手でやってのける。讃岐の郡では考えも及ばぬことだった。ここでは、何もかもの大きさが違う。
行く手のまだ見えぬ先に、長岡の京がある。新しい都。何万の人と、何倍もの書物と、自分より上の者が数えきれぬほどいるというその場所が。
真魚はもう、呆然とはしていなかった。
覚えるだけでは足りぬ場所が、もしあるなら。それはきっと、これだけ広い世間の一番深いところにある。海のことは手が覚える、と甚は言った。ならば、覚えるだけでは足りぬものは、いったい何が覚えるのか。
その問いの通じる誰かが、あの槌の音の向こう、何万の人のなかにいるだろうか。まだ顔も知らぬ、いつかの師が。
川舟は櫓の音を立てて、都の方へゆっくりと上っていった。




