第3話 母との別れ
年が明けて、真魚は十五になった。
旅立ちは、春と定まった。
その朝、真魚はいつものように、潮の音で目を覚ました。
まだ暗い。障子の外はようやく白み始めたばかりで、家の者はもう起き出している。土間で火を熾す音、水を汲む音、馬の世話をする低い声が、入れ替わりに聞こえていた。旅立ちの朝の音だ。だが少年の耳が真っ先に拾ったのは、それらの物音の、さらに底のほうを流れる、あの低い谺だった。
浜の潮。
生まれてからずっと、この音で目を覚ましてきた。母が仏間で誦する声も、いつもこの潮の上に重なっていた。今朝も、潮は変わらず寄せて、返している。けれど、この音で目を覚ますのは、今日が最後だ。
真魚は、しばらく動かずに、その音を聞いていた。一度耳に入ったものは、消えない。だから自分は、この潮の音を、都へ行っても忘れはしないだろう。忘れはしない。だが、と少年は思った。忘れぬことと、持っていくことは、違う。耳には残る。それでも、掴んで連れてはいけない。浜は、ここに置いていく。
*
朝餉のあと、館は支度で慌ただしくなった。
学資の米と絹を荷に括る者、文箱を確かめる者、馬の沓を見る者。みなが何かしら手を動かし、声を掛け合っていた。讃岐の麒麟児が、いよいよ都へ発つ。その高揚が、館じゅうの足音を、いつもより半拍ずつ速くしていた。
その真ん中で、真魚だけが、静かだった。
旅装に着替え、沓を履き、あとは発つばかり。することは、もう何もない。少年は外廊の端に立って、慌ただしい家の者たちを、ただ眺めていた。みなの顔は明るい。その明るさは、半分は真魚に向けられ、もう半分は、真魚の向こうの「家の明日」に向けられている。それを、少年はもう知っていた。
兄たちも、支度を手伝っていた。
家を継ぐのは、兄たちだ。田も、館も、いずれ兄たちのものになる。出てゆくのは、末の真魚ひとり。継ぐ者は残り、継がぬ者が、家の名を負って遠くへ発つ。同じ館に生まれて、行く道はもう、とうに分かれていた。
上の兄が、荷を括る手を止めて、こちらを見た。何か言いかけて、けれど、口にしたのは短い一言だった。
「達者でな」
「はい」
それだけだった。兄も、多くは語らぬ人だった。
*
父、佐伯直田公が、庭先に立っていた。
真魚が近づくと、直田公は、いつもの静かな目で息子を見た。
「……行くか」
「はい」
それきり、父は長いこと、何も言わなかった。声を荒げぬこの人は、別れの言葉も多くは持たぬらしかった。やがて直田公は、海の向こう都のある方角へ、ちらと目をやってから、低く言った。
「佐伯の名を、おまえに預ける。重かろう。だが、おまえなら負える」
「……はい」
父が言ったのは、それだけだった。励ましでも、餞でもなく、ただ重さの受け渡しだった。真魚は、その重さを、確かに肩で受け取った。
*
母は、仏間にいた。
いつもの場所で、いつものように、灯明の前に座っていた。旅立ちの朝だというのに、母の周りだけは、家の慌ただしさから切り取られたように静かだった。
真魚が入っていくと、母は経を畳む手を止めた。
二人は、しばらく黙っていた。言うべきことは、もう、いつかの夜にあらかた言ってしまった。覚えるのではなく、身に宿すのですあの言葉は、すでに少年の底に沈んでいる。母も、それを繰り返しはしなかった。
やがて母は、真魚の旅装の襟が、わずかに折れているのに気づいた。手を伸ばして、それを直す。母の指が、ふと、首筋に触れた。
その瞬間、真魚の耳が、勝手に動いた。
母の息づかい。衣の擦れる音。そして、襟を直す指の、かすかな震え。少年の耳は、それらを一つ残らず拾ってしまう。拾って、内に焼き付けてしまう。いつもの、当たり前のなりわいだ。
だが今朝は、その当たり前が、ふいに、たまらなく切なかった。
この息づかいも、この指の震えも、自分はきっと、生涯忘れない。一度入った音は、消えないのだから。けれど、忘れないことは、そばにいられることとは、違う。覚えても、連れてはいけない。母を、この潮の音ごと、ここへ置いていく。
覚えてしまったものは、もう、自分のものではない。
いつかの浜の夜に思ったことが、今朝は、まるで違う重さで、胸に落ちてきた。あのときは、書物のことだった。今朝のそれは、母だった。
*
襟を直し終えて、母は、手を引いた。
「真魚」
「はい」
「達者で」
たった一言だった。喜びとも、悲しみともつかぬ、ただ静かな声。だが真魚の耳は、その短い一言の底に沈んだものまで、拾ってしまう。拾ってけれど、それが何であったかは、やはり読めなかった。母の声の底にあるものだけは、いくら耳がよくても、掴めなかった。
母は、それ以上、何も言わなかった。いつものように。
真魚は、深く礼をして、仏間を出た。一度だけ振り返ると、母はもう、灯明の方へ向き直っていた。その横顔は、灯のなかで、ただ静かだった。
*
館の門前に、家の者が並んでいた。
縁者たちが見送りに出て、口々に言祝ぎの言葉をかけた。讃岐の誉れ。家の明日。中央への返り咲き。その声を背に受けながら、真魚は、馬を曳く阿刀の叔父のあとに従って、坂を下り始めた。
坂の途中で、叔父がふと振り返った。
「名残は、惜しいか」
真魚は、すぐには答えなかった。惜しい、という言葉が、いま胸にあるものに当たっているのか、よく分からなかったからだ。
「……分かりませぬ」と、正直に言った。「ただ、潮の音が、いつもより大きく聞こえます」
叔父は、少し笑ったようだった。
「都には、海はない。あの音も、聞こえぬぞ」
真魚は、足を止めかけた。
「だが、おまえは忘れぬのだったな」と叔父は続けた。「ならば、持っていける。耳のなかにな」
持っていけるその言葉に、真魚は、なぜか首を振りたくなった。耳に残ることと、持っていけることは、違う。今朝、母の指の震えを拾ったときに、それを思い知ったばかりだった。けれど、それをうまく言いあらわす言葉を、少年はまだ持たなかった。だから、黙って頷いておいた。
叔父は、それ以上は訊かなかった。代わりに、坂の下の海を見やりながら、これから先のことを話した。
「都に着いたら、まずは阿刀の家に身を寄せることになる。母御の里方じゃ。書物なら、いやというほどある。讃岐の比ではないぞ」
「……はい」
「学問の初歩から、みっちり仕込まれよう。大学寮の試に通らねば、官の道はそもそも開かぬ。覚えのよいおまえでも、楽ではあるまい」
覚えのよいおまえでもその言い方が、真魚には、少しおかしかった。覚えがよいことが、楽になる理由にならぬ場所。それは、むしろ、望むところだった。覚えるだけでは足りぬ場所が、もし本当にあるのなら。
叔父は、馬をゆっくりと進めた。真魚は、そのあとに従った。
*
坂を下りきると、浜辺の道に出た。
春の朝の光が、瀬戸の海に、無数に散っていた。その海の向こうに、都がある。これから渡ってゆく、見たこともない世界が。
すぐ間近で、波が砂を舐めている。坂の上では遠かった潮の音が、ここではもう、すぐ足もとにあった。
真魚は、一度だけ、足を止めた。
濡れた砂。寄せる波。かつてこの浜で、覚えた文字を砂に書いては、波に消されたことがあった。覚えても掴めぬものを、初めて知った夜のことだ。
少年は、しゃがんで、濡れた砂に、指で一字を書いた。
誰に見せるためでもない。ただ、一字。
書き終わらぬうちに、波が来て、それを舐めていった。退いたあとには、平らな砂が残っただけだった。
いつかの夜と、同じだった。覚えても、掴めぬ。書いても、残らぬ。けれど今朝は、その消え方が、不思議と、嫌ではなかった。
あの問いの答えを、自分はまだ見つけていない。だから、見つけに行くのだ、と少年は思った。覚えるだけでは足りぬ場所へ。すり抜けぬ何かが、もしかすると、あるかもしれぬ場所へ。
潮が、寄せて、返した。
その音に、真魚は、心のうちで、ひとつだけ返した。声には出さなかった。
行ってまいります。
母にも、浜にも、十五年聞き続けたこの音にも、その一言は、たぶん同じだけ向けられていた。
*
浜辺の道を抜けると、港があった。
都へ向かう船が、朝の光のなかで、静かに帆を上げ始めていた。
真魚は、生まれて初めて、海を渡る。讃岐の潮の、その向こうへ。
少年はまだ知らない。この海の向こうに、覚えるだけでは足りぬ場所も、覚えても掴めぬものも、そのどちらもがいくつも、待っていることを。
ただ、春の風が、帆を、都の方角へ押していた。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第3話は、讃岐を発つ朝です。派手な別れの言葉は、あえて置きませんでした。父は「名を預ける」とだけ、兄は「達者でな」とだけ、母は「達者で」とだけ。多くを語らない人たちの家です。
書きたかったのは、一度聞いた音を忘れない真魚が、その才を、初めて「切ない」と感じる瞬間でした。母の息づかいも、指の震えも、彼は生涯忘れません。けれど、忘れないことと、そばにいられることは違う。覚えても、連れてはいけないかつて砂に書いた字を波にさらわれて知った虚しさが、今朝は母に重なります。だからこそ最後にもう一度、彼は砂に一字を書いて、波に返してもらうのですね。覚えても掴めぬものを、ひとつ讃岐に置いて、少年は発ちます。
次話、いよいよ海の上へ。故郷の小ささと、世間の広さの、最初の出会いです。




