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明星、口に堕つ ― 空海、消えた七年  作者: KAMUI
1章 讃岐の麒麟児
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第2話 家の灯火

その年の秋、佐伯の館に、人が集まった。


刈り入れを終えた田は刈株かりかぶだけを残して鈍く光り、その(あぜ)を縫って、近郷の縁者がひとり、またひとりと館の門をくぐった。馬をいてくる者、徒歩かちで坂を上ってくる者。みなはかまの裾に旅のほこりをつけ、門前で軽く払ってから、表の間へ通された。


真魚は、その足音を数えていた。


板敷を踏む音には、人それぞれの癖がある。ゆったりと重い足は東の郷の長老。せかせかと刻む足は、いつも何かを急いている叔父筋の者。一度聞いた足音は、この少年の内に焼き付いて消えない。何人が集まったかは、数えるまでもなく、耳が知っていた。


ただ、これほど多くが一度に集うのは、初めてのことだった。



寄り合いを召したのは、家のおさである父、佐伯直田公さえきのあたいたぎみであった。


直田公は、声を荒げる人ではない。真魚は父が声を張るのを、一度も聞いたことがなかった。けれど直田公が一言を発すると、座のざわめきはふっと退いて、館じゅうがその次の言葉を待った。


その父が、上座に座を占めていた。下手しもてには、阿刀の叔父の顔もある。都で学問を修めた読書人。先ごろ讃岐に下ってきて、まだ館に留まっている、母方の人である。


真魚は、母とともに座の末に座らされていた。


灯はまだ早い。秋の日が、しとみを上げたひさしの奥まで斜めに射し込んで、座した人々の膝のあたりを淡く染めていた。誰も、まだ口を開かない。表からは、刈田を渡る風の音と、遠くの低い潮騒しおさいとが、入れ替わりに届いていた。


直田公が、咳をひとつした。それが合図だった。



「皆、よう集まってくれた」


父の声は、細いのに、よく通った。


「ほかでもない。佐伯の、この先のことじゃ」


座が、わずかに身を寄せた。真魚は末座から、人々の背を見ていた。みなの肩が、同じ方角へ上座のほうへ、ひとつに傾いでいた。


「皆も承知のとおり、我が家は古い。郡においては、誰にはばかることもない。だが都ではどうじゃ」


誰も答えなかった。答えは、その場の全員が知っていた。


「中央での佐伯の名は、近ごろ、めっきり細った。つかさに連なる縁者も、年々に減っておる。このまま郡に根を張っておるだけでは、家はやがて、地に埋もれよう」


東の郷の長老が、低く頷いた。座のあちこちで、同じ頷きが返った。


「埋もれてよいか」と直田公は問うた。


今度は、はっきりと、いなの気が座に満ちた。声にはならぬ。けれど、ひとりひとりの背に力がこもるのが、末座の真魚にも見て取れた。



「ならば、家の名を、もう一度、都の空へ掲げる者がる」


父の目が、ゆっくりと座を巡り、そして末座で止まった。真魚の上で、止まった。


座じゅうの顔が、いっせいにそちらを向いた。何十の目が、ひとりの少年に集まる。真魚は、背に汗がにじむのを感じた。逃げ場のない、けれど甘くもある熱が、頬を上らせた。


「真魚」


父が、その名を呼んだ。


「前へ」


真魚は立ち上がり、座の中ほどまで進み出て、膝をついた。母の気配が、背の遠くで小さく強張こわばるのが分かった。


「おまえの耳のごうは、もう郡じゅうの知るところじゃ。旅の僧が驚き、都帰りのこの者が舌を巻いた」と、直田公は阿刀の叔父のほうへあごをしゃくる。「一度聞いたものをたがえぬ、と。まことか」


「……はい。耳に入ったものが、残っているだけにございます」


座が、どよめいた。謙遜とも取れぬ、ただの事実としてそれを言う少年に、人々はかえって声をんだ。父だけが、ふっと目を細めた。笑ったのかもしれない。



「では、申し渡す」


直田公は、座を見渡してから、ひとことずつ区切るように言った。


「真魚を、都へ上らせる。大学寮へ入れ、学を修めさせ、官の道を歩ませる。佐伯の名を、この子の身ひとつに懸けて、中央へ返す」


言い終えると、座が張りつめた。誰もが息を詰めて、その一言の重さを、めいめいの胸で受け止めていた。やがて東の郷の長老が深く頭を垂れ、それを皮切りに、座のひとりひとりが、次々に額を畳へ近づけた。


大人たちが、自分のために頭を下げている。家の長が、自分の名を口にして、家の明日を託すと言った。これが誇らしくないはずがなかった。胸の奥が、熱く、明るく、満ちた。


満ちたはずだった。


ところが、その熱の底のほうで、あの名のないくぼみが、ことりと鳴った。


いつかの浜の夜に覚えた、あのむなしさだ。一巻をそっくりそらんじて、なお何ひとつつかめなかった、あの夜の。みなが喜んでいる。自分も誇らしい。それなのに胸の底の窪みだけが、潮の引いたあとの砂のように、ひやりとあらわになっていた。


真魚は、頭を垂れたままの大人たちを見渡した。みな、明るい顔をしていた。その明るさが、ふいに、遠かった。


少年は、何も言わなかった。ただ、額を畳へ寄せた。誰よりも深く、長く。誰もそれを、迷いとは見なかった。みな、麒麟児きりんじ健気けなげさと覚悟とそれぞれの見たいものを、その低く垂れた首筋に見た。窪みは、その首筋の、もっと奥にあった。



寄り合いが解けたのは、灯のともるころだった。縁者たちは上機嫌で表の間に居残り、酒が出た。佐伯に麒麟が生まれた、讃岐の誉れだ、やがて都へ上り家の名を返してくれようそんな声が、灯火ともしびの向こうで膨らんでいた。


真魚はその座を抜けて、館の外廊そとろうへ出た。


秋の夜気が、頬をでた。庭の闇のさらに向こうから、潮の音が渡ってくる。表のにぎわいと、夜の潮騒と、その二つの音の間に、少年はひとり立っていた。どちらの音も、耳に入る。入って、残る。けれどやはり、掴めはしない。


しばらくして、背に足音が近づいた。ゆったりとした、しかし都育ちの軽みのある足。聞き違えようがない。阿刀の叔父であった。



「逃げてきたか」と叔父は言った。とがめる色はなかった。


「酒の座は、まだ早うございます」


「童には、な」叔父は笑って、隣に並んだ。「わしも、ああいう座はどうも肌に合わぬ。学問をやる者は、たいてい、人の輪の端が好きなものよ」


二人は、しばらく黙って潮の音を聞いた。やがて叔父は、夜の方角へ目をやったまま、ぽつりと言った。


「都は、こことは違うぞ」


「華やかなのですか」


「華やかさ、か。そういうものもある」叔父は少し間を置いた。「だが、わしが言うておるのは別のことじゃ。真魚。おまえはいま、ここでは、ただ一人の麒麟児じゃ。郡じゅうに、おまえほど覚えのよい者はおらぬ。だから皆、おまえを宝と呼ぶ。だが、都の大学寮には、おまえのような子が、いくらでもおる」


真魚は、息を止めた。



「諸国から、りすぐりが集まる。貴族の子弟、代々の学者の家の子。家に書物が山とあり、生まれたときから漢籍の声を浴びて育った者ばかりじゃ。讃岐の浜で旅の僧から経を一巻習うのとは、わけが違う」


叔父の声は、脅すでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を畳んでゆくようだった。


「そういう場所では、覚えがよいだけでは足りぬ。覚えたものを、どう使うか。詩に詠み、文につづり、人を動かす言葉に練り上げるそこで初めて官の道がひらく。経を諳んじてみせるだけでは、誰も振り向かぬ」


覚えがよいだけでは足りぬ、という言葉が、胸の窪みのふちを、そっと撫でた。妙な心地だった。叔父の言葉は厳しいはずなのに、少年の耳には、なぜか、かすかに明るく響いた。


覚えるだけでは、足りない。ならば、覚えたその先に、何かがあるのか。一度では掴めぬ何かが、都には。



「叔父上。私は、都で、何になるのですか」


「何になるか、は、おまえが決めることではない。少なくとも、いまは」叔父は続けた。「一族が、おまえを官人にと願うておる。学を修め、位を得、佐伯の名を中央へ返すそれが、おまえに懸けられた願いじゃ。重かろう」


「重う、ございます」


真魚は、正直に言った。叔父はその答えに、つかの間、目をやわらげた。


「重いと言えるだけ、おまえはまだ正直じゃ。あのとき、わしが言うたのを覚えておるか。その賢さは、もう、おまえ一人のものではない、と」


「覚えております」真魚は即座に答えた。「一字もたがえず」


叔父は、低く笑った。「そうであった。おまえは、忘れぬのだったな」



「あのとき、わしの言葉を、おまえは褒め言葉と取ったろう。だが、半分はのろいじゃ。賢さが皆のものになるとは、皆の願いを背負うということ。背負うた荷は、おいそれと下ろせぬ」


真魚は、黙っていた。


「都へ上れば、その荷は、もっと重くなる。郡の麒麟児は、都ではただの讃岐の田舎者。一からじゃ。家の期待だけが、おまえの肩に積まれたまま、ついてゆく。それでも、上るか」


問いが、夜気のなかに浮かんだ。表の座からは、まだ縁者たちの笑い声が漏れていた。家の名。中央。返り咲き。その言葉の数々が、灯火の向こうで甘く膨らみ、その笑いのひとつひとつが、少年の肩に、いままさに積まれてゆく荷であった。


真魚は、その重みを、確かに感じた。そして同時に胸の底の窪みが、また、ことりと鳴るのを聞いた。



「上ります」と真魚は言った。迷いのない声であった。


「即答じゃな」


「ただ……荷が重いから、上るのではありませぬ」


「ほう」


「覚えるだけでは足りぬ、と叔父上はおおせでした。私は、それが聞きとうございました」


叔父は、少年の顔を見つめた。


「覚えてしまうと、虚しいのです」と真魚は言った。浜の夜に言葉にできなかったことを、初めて、人に向けて口にしていた。「一巻を諳んじても、何も手に入った気がいたしませぬ。覚えられるものは、覚えた途端に、すり抜けてゆきます。だから覚えるだけでは足りぬ場所があるなら。そこには、覚えてもすり抜けぬ何かが、あるのかもしれませぬ」


言ってしまってから、真魚は、自分の言葉に少し戸惑った。うまくは言えていない。けれど、胸の窪みの形を、いまの言葉は、ほんの少しだけなぞった気がした。



叔父は、長いこと黙っていた。潮が、寄せて、返した。


やがて叔父は、ふっと息を吐いた。感嘆のようにも、ためらいのようにも聞こえた。


「真魚。おまえは、恐ろしい子じゃ」


咎める声ではない。むしろ、何かを惜しむような響きがあった。


「一族は、おまえを官の道で昇らせたい。位のきざはしを、ひとつずつ。皆が望むのは、それじゃ。だが、おまえが欲しがっておるのはどうやら、階の上ではないらしい」


「私は、ただ、虚しくないものが欲しいのです」


「うむ。だが、その渇きは官の道ではえぬ。位を得ても、ろくを得ても、おまえはまたこの浜の夜のように虚しくなるかもしれぬ。それでも、わしはおまえを都へやらねばならぬ。一族の願いがあるゆえな」


叔父は、そこで言葉を切った。言ってよいことと、言うべきでないことの間で、この読書人は迷っているようだった。やがて、その迷いを呑み込むように、別の言い方をした。


「まあ、よい。都には、書物が、ここの百倍も千倍もある。覚えてすり抜けるものも多かろうがすり抜けぬものに出会えるかどうかは、おまえ次第じゃ。せいぜい、探すがよい」



翌朝、母が仏間で経をしていた。いつもの、寄せては返す潮の底に、母の声が低く重なる朝であった。真魚は、その傍らに座った。昨夜の寄り合いのことに、母はまだ何も触れていない。


経を誦し終えて、母は灯明の芯を整えた。


「都へ、上るのですね」と母は言った。問いではなかった。


「はい」


母は、しばらく灯を見つめていた。その横顔を、真魚はそっと見た。我が子が遠くへつことを、喜んでいるのか、案じているのかやはり読めなかった。母の表情は、いつものように、ただ静かであった。


「身に、宿すのです」


母が、ふいに言った。


真魚は、はっとした。いつかの夜に母が口にした、あの言葉だった。覚えるのではなく、身に宿す意味の分からぬまま、底に沈んでいた、あの一言。


「母上。あれは、どういう意味なのですか」


「いまは、分からずともよいのです」と母は言った。「ただ、覚えておおき。都で、たくさんのことを覚えるでしょう。覚えて、覚えてそれでも足りぬと思う日がきっと来ます。そのときに、この言葉を思い出しなさい」


覚えるのではなく、宿す。


真魚は、その一言を、もう一度、内に焼き付けた。意味は、やはり分からない。けれど今度は、ただ沈めるのではなかった。いつか掴むべきものの形として、胸の窪みのすぐ隣に、そっと置いた。



上京の日取りは、その秋のうちに定まった。佐伯の館はにわかにあわただしくなった。旅支度、学資の米と絹、縁者へのふみ、都で頼るべき阿刀の縁の手づる。大人たちは、ひとりの少年を中央へ送り出すために、家の力のありったけを注いだ。


その慌ただしさの真ん中で、真魚は、不思議なほど静かだった。誰もが麒麟児の旅立ちを言祝ことほいだ。讃岐の誉れが、いよいよ都へ。家の名が、ふたたび中央へ。けれど少年自身は、家の名のことを、それほど思ってはいなかった。


見ていたのは、もっと先だった。覚えて、なお足りぬ場所。すり抜けぬ何かが、もしかするとあるかもしれぬ場所。そこへ、自分は行く。窪みを抱えたまま。


浜には、相変わらず潮が寄せて、返していた。その音を、真魚は出立しゅったつの朝まで毎日聞いた。一度聞いたものは消えぬこの少年は、讃岐の潮の音もまた、生涯、忘れることはなかった。


だがそれを、少年はまだ知らない。これから越えてゆく幾つもの夜のことも、都で何が待つのかも。何ひとつ知らぬままただ、覚えるだけでは足りぬという、かすかな予感ひとつを抱いて、旅立ちの日を待っていた。


その朝は、もう間近だった。少年がまだ見ぬ都へはじめての長い道が、いよいよ、ひらこうとしていた。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


第2話は、一族が真魚を都へ送ると決める「寄り合い」を、丸ごと一場面として描いてみました。家の長が名を呼び、縁者たちがいっせいに頭を下げる、その光景の真ん中で、しかし当の少年の胸には、誇らしさと一緒に、あの「窪み」がことりと鳴る。期待されることは甘い蜜ですが、その蜜の底には、ちゃんと重さが沈んでいるのですね。


書いていて好きだったのは、叔父の「半分は呪いじゃ」という台詞です。賢さが皆のものになるとは、皆の願いを背負うということ。出世のきざはしを昇れと願う一族と、「階の上ではないものが欲しい」少年と。このすれ違いこそが、やがて、いちばん最初の小さな種なのだと思います。


覚えるのではなく、身に宿す。母のこの言葉を、真魚はまだ掴めません。掴めないまま、窪みのすぐ隣に置いて、都へ発ちます。次話、いよいよ讃岐を出て、都への長い道へ。少年が初めて、自分の故郷の小ささと、世間の広さに出会います。

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