第2話 家の灯火
その年の秋、佐伯の館に人が集まった。
刈り入れを終えた田は刈株だけを残して鈍く光り、その畦を縫って近郷の縁者がひとり、またひとりと館の門をくぐった。馬を曳いてくる者、徒歩で坂を上ってくる者。みな袴の裾に旅の埃をつけ、門前で軽く払ってから表の間へ通された。
真魚はその足音を数えていた。板敷を踏む音には、人それぞれの癖がある。ゆったりと重い足は東の郷の縁者。せかせかと刻む足は、いつも何かを急いている叔父筋の者。片方の足をわずかに引きずる音は、大伯父の道成だ。一度聞いた足音はこの少年の内に焼き付いて消えない。何人が集まったかは、数えるまでもなく耳が知っていた。
ただ、これほど多くが一度に集うのは初めてのことだった。
*
寄り合いを召したのは、家の長である父、佐伯直田公であった。
直田公は声を荒げる人ではない。真魚は父が声を張るのを一度も聞いたことがなかった。けれど直田公が一言を発すると、座のざわめきはふっと退いて館じゅうがその次の言葉を待った。
その父が上座に座を占めていた。かたわらには佐伯の総領、大伯父の道成が、片頬の古い刀傷を灯の来ぬほうへ向けて座している。年老いてもこの総領の咳ひとつに、一族の年寄りたちは耳を澄ませた。下手には、阿刀の叔父の顔もある。都で学問を修めた読書人で、先ごろ讃岐に下ってきてまだ館に留まっている、母方の人である。真魚は母とともに座の末に座らされていた。
灯はまだ早い。秋の日が蔀を上げた庇の奥まで斜めに射し込んで、座した人々の膝のあたりを淡く染めていた。誰もまだ口を開かない。表からは、刈田を渡る風の音と遠くの低い潮騒とが入れ替わりに届いていた。
直田公が咳をひとつした。それが合図だった。
「皆、よう集まってくれた」
父の声は細いのに、よく通った。
「ほかでもない。佐伯の、この先のことじゃ」
座がわずかに身を寄せた。真魚は末座から人々の背を見ていた。みなの肩が同じ方角へ、上座のほうへひとつに傾いでいた。
「皆も承知のとおり、我が家は古い。郡においては、誰に憚ることもない。だが、都ではどうじゃ。中央での佐伯の名は近ごろ、めっきり細った。官に連なる縁者も、年々に減っておる。このまま郡に根を張っておるだけでは、家はやがて地に埋もれよう」
道成が、痰のからんだ低い咳をひとつ落とした。その咳が頷きの代わりであることを、座の者はみな知っていた。あちこちで同じ頷きが静かに返る。
「埋もれてよいか」と直田公は問うた。
今度ははっきりと、否の気が座に満ちた。声にはならぬ。けれど、ひとりひとりの背に力がこもるのが末座の真魚にも見て取れた。
「ならば、細った名を、もう一度中央で太らせる者が要る。この家から、官人をひとり出す」
父の目がゆっくりと座を巡り、そして末座で止まった。真魚の上で、止まった。座じゅうの顔がいっせいにそちらを向いた。何十の目がひとりの少年に集まる。真魚は背に汗が滲むのを感じた。襟の内で汗の玉がひとつ、背筋をつたって落ちた。逃げ場のない、けれど甘くもある熱が頬を上らせた。
「真魚」
父がその名を呼んだ。
「前へ」
真魚は立ち上がり、座の中ほどまで進み出て膝をついた。板敷は冷えて、膝頭にその冷たさが沁みた。母の気配が背の遠くで小さく強張るのが分かった。
「おまえの耳の業は、もう郡じゅうの知るところじゃ。旅の僧が舌を巻き、都帰りのこの者が唸った」と、直田公は阿刀の叔父のほうへ顎をしゃくる。「一度聞いたものを違えぬ、と。まことか」
「まことにございます。耳に入ったものが、残っているだけにございます」
誇るでもなく恥じるでもない。ただの事実としてそれを言う少年に、座がどよめいた。
「恐れぬか」と父は静かに問うた。都という遠い場所を、その一語に籠めていた。
「覚えたことは、恐れようがございませぬ」
真魚は父の目を見て答えた。公の場で子が父の問いを軽くいなしたことに、座がまたどよめく。道成が咳をひとつ落とした。父だけが、ふっと目を細めた。笑ったのかもしれない。
「では、申し渡す」
直田公は座を見渡してから、ひとことずつ区切るように言った。
「真魚を、都へ上らせる。大学寮へ入れ、学を修めさせ、官の道を歩ませる。佐伯の名を、この子の身ひとつに懸けて、中央へ返す」
言い終えると、座が張りつめた。誰もが息を詰めて、その一言の重さをめいめいの胸で受け止めていた。
やがて道成が、節くれだった指を畳に立てた。その指が、かすかに震えていた。衰えた佐伯の名を、この末子ひとりに賭ける。総領のその一存が、座に重い承認を落とす。それを受けて、縁者たちが上座へ向かって次々に頭を垂れた。
と、道成が痰を切って、しわがれた声をひとつ落とした。
「都の水は、冷たいぞ」
祝いの座に似合わぬその一言に、束の間、座のどよめきが淀んだ。総領を張ってきた老人だけが知る、中央という場所の冷たさであった。
大人たちが自分のために頭を下げている。家の長が自分の名を口にして、家の明日を託すと言った。これが誇らしくないはずがなかった。胸の奥が熱く明るく満ちた。
満ちた――はずだった。
ところが、その熱の底のほうであの名のない窪みが、ことりと鳴った。いつかの浜の夜に覚えた、あの虚しさだ。一巻をそっくり諳んじてなお何ひとつ掴めなかった、あの夜の。誇らしさに胸が満ちるそのすぐ下で、窪みだけが潮の引いたあとの砂のように、ひやりと露わになっていた。
真魚は頭を垂れたままの大人たちを見渡した。みな、明るい顔をしていた。その明るさがふいに、遠かった。
少年は何も言わなかった。ただ、額を畳へ寄せた。誰よりも深く、長く。誰もそれを、迷いとは見なかった。みな、麒麟児の健気さと覚悟と、それぞれの見たいものをその低く垂れた首筋に見た。窪みはその首筋の、もっと奥にあった。
*
寄り合いが解けたのは、灯のともるころだった。縁者たちは上機嫌で表の間に居残り、酒が出た。佐伯に麒麟が生まれた、讃岐の誉れだ、やがて都へ上り家の名を返してくれよう。そんな声が、灯火の向こうで膨らんでいた。誰かが「道成どのの言うた都の水も、この麒麟には温かろうよ」と笑い、座がどっと沸いた。
真魚はその座を抜けて、館の外廊へ出た。背には酒と人いきれの温気が届き、前には秋の夜気が頬を撫でた。庭の闇のさらに向こうから潮の音が渡ってくる。表の賑わいと夜の潮騒と、その二つの音の間に、少年はひとり立っていた。どちらの音も耳に入る。入って、残る。けれど、やはり掴めはしない。
しばらくして、背に足音が近づいた。ゆったりとした、しかし都育ちの軽みのある足。聞き違えようがない。阿刀の叔父であった。
「逃げてきたか」と叔父は言った。咎める色はなかった。
「酒の座は、まだ早うございます」
「若いおまえには、な」叔父は笑って隣に並んだ。袖から墨と古い紙の匂いがかすかにした。「わしも、ああいう座はどうも肌に合わぬ。学問をやる者は、たいてい人の輪の端が好きなものよ」
二人はしばらく黙って潮の音を聞いた。夜気が二人の首筋を同じ冷たさで撫でていく。やがて叔父は、夜の方角へ目をやったままぽつりと言った。
「都は、こことは違うぞ。おまえはいま、ここではただ一人の麒麟児じゃ。郡じゅうに、おまえほど覚えのよい者はおらぬ。だから皆、おまえを宝と呼ぶ。だが、都の大学寮には、おまえのような子がいくらでもおる」
「その子らも、一度で覚えるのですか」
思わず、負けん気が口を突いて出た。叔父は夜の闇に低く笑った。
「覚える。おまえより速い者も、おろうな。諸国から選りすぐりが集まる。貴族の子弟、代々の学者の家の子。生まれたときから漢籍の声を浴びて育った者ばかりじゃ。讃岐の浜で旅の僧から経を習うのとは、わけが違う」
真魚は息を止めた。
「そういう場所では、覚えがよいだけでは足りぬ。覚えたものを、どう使うか。詩に詠み、文に綴り、人を動かす言葉に練り上げる。経を諳んじてみせるだけでは、誰も振り向かぬ」
覚えがよいだけでは足りぬ、という言葉が胸の窪みのふちをそっと撫でた。妙な心地だった。叔父の言葉は厳しいはずなのに、少年の耳にはなぜか、かすかに明るく響いた。
「叔父上。私は、都で何になるのですか」
「何になるかは、おまえが決めることではない。少なくとも、いまは。一族がおまえを官人にと願うておる。学を修め、位を得、佐伯の名を中央へ返す。それが、おまえに懸けられた願いじゃ。重かろう」
「重う、ございます」
真魚は正直に言った。叔父はその答えに束の間、目をやわらげた。
「重いと言えるだけ、おまえはまだ正直じゃ。あのとき、わしが言うたのを覚えておるか」
「覚えております」真魚は即座に答えた。「おまえの賢さは、もう佐伯のものでも阿刀のものでもない。今日からは、都のものじゃ、と。一字も違えず」
叔父は低く笑った。「そうであった。おまえは、忘れぬのだったな。だが真魚、あれは半分は褒め言葉で、半分は呪いじゃ。賢さが皆のものになるとは、皆の願いを背負うということ。背負うた荷は、おいそれと下ろせぬ。都へ上れば、その荷はもっと重くなる。郡の麒麟児は、都ではただの讃岐の田舎者。一からじゃ。それでも、上るか」
問いが夜気のなかに浮かんだ。表の座からはまだ縁者たちの笑い声が漏れていた。家の名。中央。返り咲き。その言葉の数々が灯火の向こうで甘く膨らみ、その笑いのひとつひとつが、少年の肩にいままさに積まれてゆく荷であった。真魚はその重みを、肩に確かに感じた。
「上ります」と真魚は言った。迷いのない声であった。
「即答じゃな」
「ただ、荷が重いから、上るのではありませぬ」
「ほう」
「覚えるだけでは足りぬ、と叔父上は仰せでした。私は、それが、聞きとうございました」
叔父は少年の顔を見つめた。真魚は、浜の夜に言葉にできなかったことを、初めて人に向けて口にした。
「覚えてしまうと、虚しいのです。一巻を諳んじても、何も手に入った気がいたしませぬ。覚えられるものは、覚えた途端にすり抜けてゆきます。だから……うまくは言えませぬが、覚えるだけでは足りぬ場所があるのなら」
言いさして、真魚は口をつぐんだ。うまくは言えていない。けれど、胸の窪みの形を、いまの言葉はほんの少しだけなぞった気がした。
*
叔父は長いこと黙っていた。潮が寄せて、返した。
やがて叔父はふっと息を吐いた。感嘆のようにも、ためらいのようにも聞こえた。
「真魚。おまえは……恐ろしい子じゃ」
咎める声ではない。むしろ何かを惜しむような響きがあった。
「一族はおまえを官の道で昇らせたい。位の階を、ひとつずつ。皆が望むのは、それじゃ。だが、おまえが欲しがっておるのは、どうやら階の上ではないらしい」
「私はただ、虚しくないものが欲しいのです」
「うむ。その渇きが何なのか、正直、わしにも分からぬ。ただ、官の位や禄で埋まる類のものではない。それだけは分かる。位を得ても、おまえはまたこの浜の夜のように虚しくなるかもしれぬ。それでも、わしはおまえを都へやらねばならぬ。一族の願いがあるゆえな」
叔父はそこで言葉を切った。言ってよいことと言うべきでないことの間で、この読書人はしばらく迷っているようだった。やがて、その迷いを呑み込むように別の言い方をした。
「まあ、よい。都には、書物がここの百倍も千倍もある。すり抜けぬものに出会えるかどうかは、おまえ次第じゃ。せいぜい、探すがよい」
「探します」
真魚がそう返すと、叔父はもう何も言わず、ただ夜の潮の方へ目をやった。
*
翌朝、母が仏間で経を誦していた。いつもの、寄せては返す潮の底に母の声が低く重なる朝であった。真魚はその傍らに座った。昨夜の寄り合いのことに、母はまだ何も触れていない。
経を誦し終えて、母は灯明の芯を整えた。油の匂いがかすかに揺れた。
「都へ、上るのですね」と母は言った。問いではなかった。
「はい」
母はしばらく灯を見つめていた。その横顔を、真魚はそっと見た。我が子が遠くへ発つことを、喜んでいるのか、案じているのか。やはり読めなかった。母の表情はいつものように、ただ静かであった。
「身に、宿すのです」
母がふいに言った。
真魚ははっとした。いつかの夜に一度だけ訊いて、答えをもらえなかった、あの言葉だった。覚えるのではなく、身に宿す。意味の分からぬまま、底に沈んでいた、あの一言。
「母上。あれは、どういう意味なのですか。前にお訊きしたときは、教えてくださいませんでした」
「いまも、分からずともよいのです」と母は言った。「ただ、覚えておおき。都でたくさんのことを覚えるでしょう。覚えて、覚えて。それでも足りぬと思う日がきっと来ます。そのときに、この言葉を思い出しなさい」
覚えるのではなく、宿す。
真魚はその一言をもう一度、内に焼き付けた。意味はやはり分からない。けれど今度は、ただ沈めるのではなかった。いつか掴むべきものの形として、胸の窪みのすぐ隣にそっと置いた。
*
上京の日取りはその秋のうちに定まった。佐伯の館はにわかに慌ただしくなった。旅支度、学資の米と絹、縁者への文、都で頼るべき阿刀の縁の手づる。大人たちは、ひとりの少年を中央へ送り出すために家の力のありったけを注いだ。
その慌ただしさの真ん中で、真魚は不思議なほど静かだった。誰もが麒麟児の旅立ちを言祝いだ。讃岐の誉れが、いよいよ都へ。家の名が、ふたたび中央へ。そんな声が耳を素通りしていく。真魚が心にかけていたのは、もっと先だった。覚えて、なお足りぬ場所。そこにはすり抜けぬ何かがあるかもしれぬ。窪みを抱えたまま、自分はそこへ行くのだ。
ひとつ、忘れられぬことがあった。あの夜、叔父が言いさして呑み込んだものだ。この読書人は、渇きの正体を「わしにも分からぬ」と言った。分からぬと言いながら、その先を言うのをためらった。都には、叔父さえ口にするのをためらう何かがあるのだろうか。真魚には、それが分からない。分からないまま、その一点が胸の窪みのすぐ隣に、小さな棘のように据わっていた。
浜には相変わらず潮が寄せて、返していた。その音を、真魚は出立の朝まで毎日聞いた。耳の奥に沈んでいくその谺は、館を離れてもきっと消えはしないだろうと思った。
夜ごと、遠い潮騒の底で犬が一度だけ吠え、また静まった。そのたびに真魚は目を開けて、闇の中で息を整えた。都への長い道が、蔀の向こうの暗がりから、少しずつこちらへ近づいてくる気がした。




