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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
1章 讃岐の麒麟児
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第1話 書けぬ一行

 明けの明星が、口の中へ落ちてきた。


 潮の鳴る音がふいに遠のいた。あれほど身を浸していた波のこだまが、世のいっさいの音が私の内側からきれいに退いて、あとには白い静けさだけが残った。ほらの口の方角で、ひとつの光が燃えていた。海面すれすれの闇に、針の先ほどの、けれど焼けつくほどに鋭い光が。それがまっすぐに私の喉の奥へ流れ込んでくる——


 だが、その話はまだ書けない。


 筆をいた。墨が紙の上に小さな黒い珠をこしらえている。私はそれをしばらく眺めていた。


 今日も、その一行は書けぬ。あの七年の、本当のことは。


 それでも、書けるところまでは書く。であれば、ずっと手前から始めよう。海も明星もあの人も、まだ影さえ見えぬころの話。何も失っていなかった、讃岐のひとりの少年の話を。


  *


 宝亀五年、讃岐国多度郡に佐伯直田公さえきのあたいたぎみの三男が生まれた。母は都にも学者を出す阿刀あとの家の出である。幼い名を真魚まおという。


 多度の郡は瀬戸の海に向いて開けている。背には屛風びょうぶを立てたように山が連なり、麓には水田が広がって、潮の匂いと刈り入れどきの新穂の匂いとが季節ごとに入れ替わって漂った。佐伯の家はその地に古く根を張った豪族で、庭にはの俵が積まれ、米倉が幾棟も軒を並べていた。人の出入りの絶えぬ、にぎやかな家であった。


 その家に生まれた真魚は、世界をまず音から受け取る子であった。


 朝まだき、家の者がみな寝静まっているうちに母はひとり仏間で経を読む。寄せては返す浜の潮騒しおさい、その底の低い谺に母のする声が重なる。真魚はいつもその声で目を覚ました。そうして薄目をあけたまま、膝の上で指を小さく動かしている。経のふしに合わせて、指の腹で畳の縁を小さくなぞっているのだった。眠っていてさえその指だけは母の声を追っていた。一度耳に入った声はこの子の内に焼き付いて、二度と消えなかった。


 四つか五つのころのことだ。真魚は母の膝に上ってその経をそっくり口ずさんだ。初めから終いまで、一句も落とさずに。


 驚いたのは、真魚ではなかった。母のほうだった。


「真魚。おまえ、いつ覚えた」


「いま、覚えました」


「いま、とは。母が読むのを、毎朝聞いていたのかえ」


「聞いていました。耳に入ったものが、残っているだけです」


 真魚には、何が母をそれほど驚かせたのかよく分からなかった。母が朝ごとに誦するのをただ耳が拾う。聞こえたものが内に残り、残ったものを口が返す。息を吸って吐くのと変わらぬ、当たり前のなりわいであった。


 母は真魚を抱きしめてしばらく何も言わなかった。腕の力は痛いほどだった。その胸の奥で鼓動がいつもの経の節よりずっと速く打っているのを、真魚は頬で聞いていた。


  *


 長じるにつれ、真魚の耳のごうは館じゅうの知るところとなった。


 郡の役人が公文くもんの言いまわしを口にすれば、傍らの真魚が半日のうちにそっくり返してみせる。それだけでも大人たちは目を丸くした。


 ある年の秋、日に灼けた遍歴の僧が一夜の宿を乞うて佐伯の家に立ち寄った。錫杖しゃくじょうに旅の埃をこびりつかせた、口の達者な男である。囲炉裏端で飯の礼だと言って経を一巻、朗々と講じてみせ、それから胸を張った。


「どうじゃ。生半な坊主でも、ここまでは唱えられまいよ」


 末座で聞いていた真魚が、僧の目を見たまま、その一巻を初めから唱えはじめた。一句も落とさず、僧の読み癖の、わずかな詰まりまでそっくりに。


 僧の箸が、止まった。


「おい。いま、どこで習うた」


「いま、聞きました」


「いま、とは」


「あなたさまが、いま唱えたのを」


 僧は眉を寄せた。まだ信じておらぬ顔である。手なぐさみのように、今度はわざと聞き慣れぬ難しい節を選び、早口に、ただ一度きり誦してみせた。


「では、この一句はどうじゃ」


 真魚は僧が言い終えるやいなや、その早口を、初めからそっくり返した。


 僧はしばらく口を開けたまま真魚を見ていた。それから急に相好を崩し、腹の底から笑い出した。笑いながら、真魚の頭に大きな手を置いた。


「たまげた。わしの負けじゃ」


「負け、とは。これは、勝ち負けなのですか」


 僧は虚を突かれ、また笑った。それから、ふと真顔になった。


「坊。その耳はな……身を助けもしよう。身を灼きもしよう。よくよく使え」


 言われた意味は、真魚には分からなかった。ただ、頭に置かれた僧の手のひらが厚く、松脂まつやにに似た匂いがしたことだけを、耳ではなく肌が覚えた。


 客たちは目を丸くして、口々に「神童」と言った。


 ただ、客がひとつだけ落ち着かなく思うことがあった。真魚の目である。人が話すあいだ、この子はまばたきもせず相手の口もとをじっと見ている。底のほうで光るそのまなこに見据えられると、大人はなぜか居住まいを正した。声をひとつも取りこぼすまいとするその静けさが、子どもらしくなかったのだ。


 あるとき、母方の叔父にあたる阿刀あとの家の者がわざわざ書物を負うて讃岐まで下ってきた。都で学問を修めた読書人で、指に墨だこのある、痩せた男である。その人は真魚を一目見るなり、奇妙なほど真剣な顔になった。


 叔父は携えてきたちつを解いた。黄ばんで端を虫の食った写本である。墨と古い紙の匂いがふっと仏間に立った。


「真魚。これを、聞いておれ」


 少年はまだ字を多くは知らぬ。叔父は『論語』の一巻を半ばまで声に出して読み、それから巻を閉じた。


「では、いまのところを言うてみよ」


 真魚は言った。一字も落とさず、一句も乱さず、叔父が読んだとおりの抑揚で。


 途中で叔父の指が巻の上で止まった。息をするのも忘れたようにただ少年の口もとを見ていた。やがて巻を膝に置いたまま長いこと黙ってから、独り言のように呟いた。


「これは、家の宝じゃ」


 ひと呼吸おいて、叔父はさらに声を落とした。喜びよりも、どこか怖れるような低さだった。


「いや。もはや、佐伯の家に留めておける器ではない」


 褒められたものと思って真魚は無邪気に訊いた。


「叔父上。私は、賢いのですか」


 叔父はすぐには答えなかった。少年を見るその目に、嬉しさよりも重いものがふとよぎった。それが何であるかは分からぬまま、叔父の眼の色がなぜか胸に残った。


「賢いとも。賢いがゆえにな、真魚。おまえの賢さは、もう佐伯のものでも阿刀のものでもない。今日からは、都のものじゃ」


 言葉の重さはまだ真魚には分からなかった。


 大人たちはこの子を麒麟児きりんじと呼んだ。讃岐に麒麟が生まれた、佐伯の一族の、いやこの地の誇りだ、と。


 褒められれば真魚も誇らしい。母の目もとがやわらぐのが、叔父が膝を打つのが、何より誇らしかった。


 だがそのころすでに、この子の胸の底には小さなくぼみのようなものがあった。決して埋まらぬ、本人にもまだ名づけられぬ窪みが。


  *


 ある夏のことだ。


 叔父が真魚のために一巻の難しい書を残していった。郡の誰も読み解けぬというその書を、真魚は三日でそらんじた。意味の半ばは分からぬまま、音と字面だけがすっかり内に焼き付いた。


 叔父が次に下ってきたとき、真魚はそれを誦してみせた。叔父はたいそう喜んでまた褒めた。


 その夜、真魚はひとり浜に出た。


 月のない晩だった。星だけがおびただしく水平線まで垂れている。潮が寄せては返していた。少年は流木の小枝を一本拾うと、波の退いたばかりの濡れた砂に昼の書の一字を書きつけた。一字、また一字。一巻のはじめから、覚えたとおりに。月もないのに、砂をえぐった字だけが白く浮いて見えた。


 書き終えぬうちに潮が寄せた。波が音もなく文字をめ、退いたあとにはただ平らな砂が残った。一字も残らなかった。


 真魚はもう一度書いた。また波が来てさらっていった。


 三度書いて、三度消されて、少年は枝を置いた。


 覚えたものは、書けば書くほど波がさらっていく。耳には残る。けれどつかめはしない。書物もそうだった。一字残らず内にれたのに、覚えてしまったものは、もう自分のものではない。真魚はそんなふうにしか思えなかった。


 ならば、と少年は思った。覚えられぬほど深いものはどこにあるのだろう。一度や二度では掴めず、生涯をかけて手を伸ばしてなお届かぬほどのもの。そういうものはこの世のどこかにあるのだろうか。


 夜気が冷えていた。濡れた砂は尻の下でひやりと湿り、塩の粒が乾いて唇の端に小さくこびりつく。昼から何も口にしていない腹が底のほうで軽くしびれている。それでも、この少年を本当に飢えさせていたのは腹ではなかった。


 砂の上には、もう何も書かれていない。


 答えはなかった。ただ波の音だけが、いつまでも寄せては返していた。


  *


 佐伯の一族がこの少年に何を見ていたか。それは真魚自身にもうっすらと察せられた。


 ある夜、館の広間に一族の主だった者が集まった。上座に据わったのは総領の道成みちなりである。真魚の大伯父にあたる白髪まじりの老人で、若いころ受けたという古い刀傷が片頬に引きつれていた。話の合間に、たんのからんだ低い咳をひとつずつ挟む。


 道成は末座の真魚を、その咳の合間にじっと見た。


「この子は三男じゃ。田も館も、いずれ兄たちのものになる」


 言いながら、節くれだった指で床板を一度、こつ、と叩いた。


「なればこそ、この子じゃ。継ぐもののない子にこそ、家の名を賭ける」


 地方の豪族にとって、都の朝廷は遠い。道成の若いころには佐伯の名も中央によく響いたというが、近ごろは目に見えて衰えていた。その遠いともしびにもう一度手を届かせるには、子弟の誰かを都へ上らせ、大学寮に学ばせ、つかさの道を歩ませねばならぬ。だからこそ麒麟児がった。家の名をもう一度、都の空へ掲げてくれる者が。


「真魚が大学寮へ上れば、佐伯の名も、もう一度都に響こうて」


 道成の声には、老いた者の、くような熱があった。都へ出ればまず母方の阿刀の家に身を寄せ、の読書人たちに就いて明経みょうぎょうを修めるのだという。


 真魚は末座から訊いた。


「私が都へ上れば、皆は嬉しいのですか」


 道成は初めて目もとをやわらげ、また咳をひとつした。


「嬉しいとも。おまえは佐伯の麒麟じゃ」


 大人たちの目は輝いていた。その輝きは真魚に向けられている。だがよく見れば、少年を通り越して、その向こうの一族の明日というものを見ていた。


 その視線が、真魚は嫌いではなかった。期待されることは、少年には甘い蜜だ。ただときおり、あの浜の夜の、砂を舐めていった波の音がふと胸の底でうずいた。

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