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明星、口に堕つ ― 空海、消えた七年  作者: KAMUI
1章 讃岐の麒麟児
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第1話 書けぬ一行

明けの明星が、口の中へ落ちてきた。


潮の鳴る音が、ふいに遠のいた。あれほど身を浸していた波のこだまが、世のいっさいの音が、私の内側からきれいに退いて、あとには白い静けさだけが残った。ほらの口の方角で、ひとつの光が燃えていた。海面すれすれの闇に、針の先ほどの、けれど焼けつくほどに鋭い光が。それがまっすぐに、私の喉の奥へ流れ込んでくる


だが、その話はまだ書けない。


筆を擱いた。墨が、紙の上に小さな黒い珠をこしらえている。私はそれを、しばらく眺めていた。


今日も、その一行は書けぬ。


であれば、ずっと手前の話を書こう。海でも、明星でも、あの人でもない。まだ何も失っていなかったころの、讃岐の、ひとりの少年の話を。



宝亀五年、讃岐国多度郡に、佐伯直田公さえきのあたいたぎみの三男が生まれた。母は、都にも学者を出す阿刀あとの家の出である。幼い名を、真魚まおという。


多度の郡は、瀬戸の海に向いて開けている。背には屛風びょうぶを立てたように山が連なり、麓には水田が広がって、潮の匂いと、刈り入れどきの新穂の匂いとが、季節ごとに入れ替わって漂った。佐伯の家は、その地に古く根を張った豪族で、庭には租の俵が積まれ、米倉が幾棟も軒を並べていた。人の出入りの絶えぬ、にぎやかな家であった。


その家に生まれた真魚は、世界をまず音から受け取る子であった。


朝まだき、家の者がみな寝静まっているうちに、母はひとり仏間で経を読む。寄せては返す浜の潮騒しおさい、その底の低い谺に、母のする声が重なる。真魚はいつも、その声で目を覚ました。そうして薄目をあけたまま、膝の上で指を小さく動かしている。経のふしを、指の腹で畳の縁になぞっているのだった。眠っていてさえ、その指だけは母の声を追っていた。一度耳に入った声は、この子の内に焼き付いて、二度と消えなかった。


四つか五つのころのことだ。真魚は母の膝に上って、その経をそっくり口ずさんだ。初めから終いまで、一句も落とさずに。


驚いたのは、真魚ではなかった。母のほうだった。


「真魚。おまえ、いつ覚えた」


「いま、覚えました」


「いま、とは。母が読むのを、毎朝聞いていたのかえ」


「聞いていました。耳に入ったものが、残っているだけです」


真魚には、何が母をそれほど驚かせたのか、よく分からなかった。母が朝ごとに誦するのを、ただ耳が拾う。聞こえたものが内に残り、残ったものを口が返す。息を吸って吐くのと変わらぬ、当たり前のなりわいであった。


母は真魚を抱きしめて、しばらく何も言わなかった。その腕の力が、嬉しさだったのか、別の何かだったのか抱かれている真魚には、読めなかった。ただ、母の胸の鼓動が、いつもの経の節よりずっと速いことだけは、耳が拾っていた。



長じるにつれ、真魚の耳のごうは、館じゅうの知るところとなった。


郡の役人が公文くもんの言いまわしを口にすれば、傍らの真魚が、半日のうちにそっくり返してみせる。旅の僧が一巻の経を講じれば、宿をつころには、少年がその一巻を初めから終いまで誦してみせた。客たちは目を丸くして、口々に「神童」と言った。


ただ、客がひとつだけ落ち着かなく思うことがあった。真魚の目である。人が話すあいだ、この子はまばたきもせず、相手の口もとをじっと見ている。底のほうで光るそのまなこに見据えられると、大人はなぜか居住まいを正した。声をひとつも取りこぼすまいとする、その静けさが、子どもらしくなかったのだ。


あるとき、母方の叔父にあたる阿刀あとの家の者が、わざわざ書物を負うて讃岐まで下ってきた。都で学問を修めた読書人である。その人は真魚を一目見るなり、奇妙なほど真剣な顔になった。


叔父は携えてきたちつを解いた。黄ばんで、端を虫の食った写本である。墨と古い紙の匂いが、ふっと仏間に立った。


「真魚。これを、聞いておれ」


少年はまだ字を多くは知らぬ。叔父は『論語』の一巻を、半ばまで声に出して読み、それから巻を閉じた。


「では、いまのところを言うてみよ」


真魚は言った。一字も落とさず、一句も乱さず、叔父が読んだとおりの抑揚で。読み癖の、わずかな詰まりまで、そのままに。


途中で、叔父の指が巻の上で止まった。息をするのも忘れたように、ただ少年の口もとを見ていた。やがて、巻を膝に置いたまま、長いこと黙ってから、独り言のように呟いた。


「これは家の宝じゃ。いや国の」


褒められたものと思って、真魚は無邪気に訊いた。


「叔父上。私は、賢いのですか」


叔父は、すぐには答えなかった。少年を見るその目に、嬉しさよりも重いものが、ふとよぎった。それが何であるかは、真魚には読めぬ。ただ、叔父の眼の色だけが、なぜか胸に残った。


「賢いとも。ただな、真魚。その賢さは、もう、おまえ一人のものではない。今日からは、皆のものじゃ」


言葉の重さは、まだ真魚には分からなかった。


大人たちは、この子を麒麟児きりんじと呼んだ。讃岐に麒麟が生まれた、佐伯の一族の、いや、この地の誇りだ、と。


褒められれば、真魚も誇らしい。母の目もとがやわらぐのが、叔父が膝を打つのが、何より誇らしかった。


だがそのころすでに、この子の胸の底には、小さなくぼみのようなものがあった。決して埋まらぬ、本人にもまだ名づけられぬ窪みが。



ある夏のことだ。


叔父が、真魚のために一巻の難しい書を残していった。郡の誰も読み解けぬというその書を、真魚は三日でそらんじた。意味の半ばは分からぬまま、音と字面だけが、すっかり内に焼き付いた。


叔父が次に下ってきたとき、真魚はそれを誦してみせた。叔父はたいそう喜んで、また褒めた。


その夜、真魚はひとり、浜に出た。


月のない晩だった。星だけが、おびただしく水平線まで垂れている。潮が、寄せては返していた。少年は流木の小枝を一本拾うと、波の退いたばかりの濡れた砂に、昼の書の一字を書きつけた。一字、また一字。一巻のはじめから、覚えたとおりに。月もないのに、砂をえぐった字だけが、白く浮いて見えた。


書き終えぬうちに、潮が寄せた。波が音もなく文字をめ、退いたあとには、ただ平らな砂が残った。一字も、残らなかった。


真魚は、もう一度書いた。また波が来て、さらっていった。


三度書いて、三度消されて、少年は枝を置いた。


覚えたものは、書けば書くほど、波がさらっていく。耳には残る。けれど、つかめはしない。書物もそうだった。一字残らず内にれたのに、何ひとつ手に入った気がしない。


覚えてしまったものは、もう、自分のものではない真魚は、そんなふうにしか思えなかった。覚えられるものは、覚えた途端に、波のように手をすり抜けていく。


ならば、と少年は思った。覚えられぬほど深いものは、どこにあるのだろう。一度や二度では掴めず、生涯をかけて手を伸ばしてなお、届かぬほどのそういうものは、この世のどこかに、あるのだろうか。


夜気が冷えていた。濡れた砂は尻の下でひやりと湿り、塩の粒が乾いて唇の端に小さくこびりつく。昼から何も口にしていない腹が、底のほうで軽くしびれている。それでも、この少年を本当に飢えさせていたのは、腹ではなかった。


潮が、また寄せて、返した。砂の上には、もう何も書かれていない。


答えは、なかった。ただ波の音だけが、いつまでも寄せては返していた。



佐伯の一族が、この少年に何を見ていたか。それは、真魚自身にもうっすらと察せられた。


一族は、真魚を都へ送ろうとしていた。


三男であれば、家督は継げぬ。田畑も館も、いずれ兄たちのものになる。それでも一族が都へ託そうとしたのは、兄たちをいて、この末子であった。継ぐべきものを持たぬ子に、一族は家の名そのものを賭けようとしていた。


地方の豪族にとって、中央の朝廷は遠いともしびである。その灯に手を届かせるには、子弟の誰かを都へ上らせ、学問を修めさせ、つかさの道を歩ませねばならない。佐伯の家は古く誇りも高かったが、近ごろは中央での勢いに、目に見えて陰りがさしていた。だからこそ、麒麟児がった。家の名を、もう一度、都の空へ掲げてくれる者が。


その役を自分が負わされていることを、真魚は知っていた。


「真魚が大学寮へ上れば、佐伯の名も、もう一度都に響こうて」


都へ出れば、まずは母方の阿刀の家に身を寄せ、の読書人たちに就いて学ぶのだという。大人たちは、少年の前でそんな話をした。話す者の目は輝いていた。その輝きは真魚に向けられている。だがよく見れば、少年を通り越して、その向こうの一族の明日というものを見ていた。


その視線が、真魚は嫌いではなかった。期待されることは、少年には甘い蜜だ。ただ、ときおり、あの浜の夜の、砂を舐めていった波の音が、ふと胸の底でうずいた。



一度だけ、真魚はそれを母に訊いたことがある。


七つか八つのころだ。母が仏前で経を誦し終えたあと、真魚はその傍らに座った。


「母上。経をすっかり覚えてしまったら、その先には、何があるのですか」


母は、灯明とうみょうの芯を整える手を止めた。油の匂いが、かすかに揺れた。


「その先、とは」


「覚えてしまえば、もう覚えるものはありませぬ。覚えてしまったものは、なんだか、もう私のものではない心地がするのです」


うまく言えてはいなかった。けれど母は、真魚の言葉の足りなさをとがめなかった。灯明がひとつ、ふっと揺れて、ろうの匂いが立った。母はしばらくその灯を見つめてから、ゆっくりと言った。


「真魚。仏の道はね、覚えるものではないのですよ」


「覚えるもの、では」


「経を諳んじるのは、入口にすぎませぬ。そこから先は、覚えるのではなく身に、宿すのです」


身に、宿す。


その言葉が、真魚の耳の業に焼き付いた。意味は、まるで分からなかった。覚えるのと、宿すのと、どう違うのか。覚えてしまった自分の内には、いったい何が、宿っていないというのか。


分からぬまま、しかしその一言だけは、潮の音のように、真魚の底に沈んでいった。


母が何を思ってその言葉を口にしたのか、真魚には読めぬ。灯明のわずかな光のなかで、母の横顔はただ静かであった。我が子の問いを喜んでいるようにも、どこか案じているようにも見えた。だが、母はそれ以上、何も言わなかった。



母が、灯を消した。


仏間が闇に沈むと、潮の音が、ふいに大きく聞こえた。背の山を越えて浜から渡ってくる、あの底の低い谺。


真魚はその音を聞きながら、ひとつのことを、ぼんやりと思っていた。


自分はいつか、覚えてもどうにもならぬものに、出会うのだろうか。一度では掴めず、二度でも掴めず、生涯をかけて手を伸ばしてなお、届かぬもの。覚えるそばから波がさらっていくのではなく、抱きしめても抱きしめても、なお余るもの。そういうものに、いつか。


少年は、それを知らない。自分の行く末も、これから越えてゆく幾つもの夜のことも、何ひとつ知らなかった。知っていたのは、ただ、虚しさの輪郭だけだ。


まだ何も失ってはいない。都へも、まだたない。一族の期待を背負ったまま、その日を待つ、ひとりの少年がいる。それだけが、この夜の確かなことであった。


だが、その日は、少年が思うよりも早く、すぐそこまで来ていた。


潮が寄せて、返した。



筆を擱く。


墨が、また紙の上に小さな黒い珠をこしらえた。あの浜の少年の話なら、私はいくらでも書ける。覚えてもどうにもならぬものに、あの子がいつか出会うことも、私は知っている。知っているからこそ、ここで止める。その先を教えてやれば、少年は走り出してしまうだろう。失うものを失う前に、知ってしまう。それは、むごい。


砂に書いた字は、波が消してくれる。だが、いくら波が来ても、消せぬものもある。


私は、まだ一度も、本当のことを書いていない。

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