第1話 書けぬ一行
明けの明星が、口の中へ落ちてきた。
潮の鳴る音が、ふいに遠のいた。あれほど身を浸していた波の谺が、世のいっさいの音が、私の内側からきれいに退いて、あとには白い静けさだけが残った。洞の口の方角で、ひとつの光が燃えていた。海面すれすれの闇に、針の先ほどの、けれど焼けつくほどに鋭い光が。それがまっすぐに、私の喉の奥へ流れ込んでくる
だが、その話はまだ書けない。
筆を擱いた。墨が、紙の上に小さな黒い珠をこしらえている。私はそれを、しばらく眺めていた。
今日も、その一行は書けぬ。
であれば、ずっと手前の話を書こう。海でも、明星でも、あの人でもない。まだ何も失っていなかったころの、讃岐の、ひとりの少年の話を。
*
宝亀五年、讃岐国多度郡に、佐伯直田公の三男が生まれた。母は、都にも学者を出す阿刀の家の出である。幼い名を、真魚という。
多度の郡は、瀬戸の海に向いて開けている。背には屛風を立てたように山が連なり、麓には水田が広がって、潮の匂いと、刈り入れどきの新穂の匂いとが、季節ごとに入れ替わって漂った。佐伯の家は、その地に古く根を張った豪族で、庭には租の俵が積まれ、米倉が幾棟も軒を並べていた。人の出入りの絶えぬ、にぎやかな家であった。
その家に生まれた真魚は、世界をまず音から受け取る子であった。
朝まだき、家の者がみな寝静まっているうちに、母はひとり仏間で経を読む。寄せては返す浜の潮騒、その底の低い谺に、母の誦する声が重なる。真魚はいつも、その声で目を覚ました。そうして薄目をあけたまま、膝の上で指を小さく動かしている。経の節を、指の腹で畳の縁になぞっているのだった。眠っていてさえ、その指だけは母の声を追っていた。一度耳に入った声は、この子の内に焼き付いて、二度と消えなかった。
四つか五つのころのことだ。真魚は母の膝に上って、その経をそっくり口ずさんだ。初めから終いまで、一句も落とさずに。
驚いたのは、真魚ではなかった。母のほうだった。
「真魚。おまえ、いつ覚えた」
「いま、覚えました」
「いま、とは。母が読むのを、毎朝聞いていたのかえ」
「聞いていました。耳に入ったものが、残っているだけです」
真魚には、何が母をそれほど驚かせたのか、よく分からなかった。母が朝ごとに誦するのを、ただ耳が拾う。聞こえたものが内に残り、残ったものを口が返す。息を吸って吐くのと変わらぬ、当たり前のなりわいであった。
母は真魚を抱きしめて、しばらく何も言わなかった。その腕の力が、嬉しさだったのか、別の何かだったのか抱かれている真魚には、読めなかった。ただ、母の胸の鼓動が、いつもの経の節よりずっと速いことだけは、耳が拾っていた。
*
長じるにつれ、真魚の耳の業は、館じゅうの知るところとなった。
郡の役人が公文の言いまわしを口にすれば、傍らの真魚が、半日のうちにそっくり返してみせる。旅の僧が一巻の経を講じれば、宿を発つころには、少年がその一巻を初めから終いまで誦してみせた。客たちは目を丸くして、口々に「神童」と言った。
ただ、客がひとつだけ落ち着かなく思うことがあった。真魚の目である。人が話すあいだ、この子はまばたきもせず、相手の口もとをじっと見ている。底のほうで光るその眼に見据えられると、大人はなぜか居住まいを正した。声をひとつも取りこぼすまいとする、その静けさが、子どもらしくなかったのだ。
あるとき、母方の叔父にあたる阿刀の家の者が、わざわざ書物を負うて讃岐まで下ってきた。都で学問を修めた読書人である。その人は真魚を一目見るなり、奇妙なほど真剣な顔になった。
叔父は携えてきた帙を解いた。黄ばんで、端を虫の食った写本である。墨と古い紙の匂いが、ふっと仏間に立った。
「真魚。これを、聞いておれ」
少年はまだ字を多くは知らぬ。叔父は『論語』の一巻を、半ばまで声に出して読み、それから巻を閉じた。
「では、いまのところを言うてみよ」
真魚は言った。一字も落とさず、一句も乱さず、叔父が読んだとおりの抑揚で。読み癖の、わずかな詰まりまで、そのままに。
途中で、叔父の指が巻の上で止まった。息をするのも忘れたように、ただ少年の口もとを見ていた。やがて、巻を膝に置いたまま、長いこと黙ってから、独り言のように呟いた。
「これは家の宝じゃ。いや国の」
褒められたものと思って、真魚は無邪気に訊いた。
「叔父上。私は、賢いのですか」
叔父は、すぐには答えなかった。少年を見るその目に、嬉しさよりも重いものが、ふと過った。それが何であるかは、真魚には読めぬ。ただ、叔父の眼の色だけが、なぜか胸に残った。
「賢いとも。ただな、真魚。その賢さは、もう、おまえ一人のものではない。今日からは、皆のものじゃ」
言葉の重さは、まだ真魚には分からなかった。
大人たちは、この子を麒麟児と呼んだ。讃岐に麒麟が生まれた、佐伯の一族の、いや、この地の誇りだ、と。
褒められれば、真魚も誇らしい。母の目もとがやわらぐのが、叔父が膝を打つのが、何より誇らしかった。
だがそのころすでに、この子の胸の底には、小さな窪みのようなものがあった。決して埋まらぬ、本人にもまだ名づけられぬ窪みが。
*
ある夏のことだ。
叔父が、真魚のために一巻の難しい書を残していった。郡の誰も読み解けぬというその書を、真魚は三日で諳んじた。意味の半ばは分からぬまま、音と字面だけが、すっかり内に焼き付いた。
叔父が次に下ってきたとき、真魚はそれを誦してみせた。叔父はたいそう喜んで、また褒めた。
その夜、真魚はひとり、浜に出た。
月のない晩だった。星だけが、おびただしく水平線まで垂れている。潮が、寄せては返していた。少年は流木の小枝を一本拾うと、波の退いたばかりの濡れた砂に、昼の書の一字を書きつけた。一字、また一字。一巻のはじめから、覚えたとおりに。月もないのに、砂を抉った字だけが、白く浮いて見えた。
書き終えぬうちに、潮が寄せた。波が音もなく文字を舐め、退いたあとには、ただ平らな砂が残った。一字も、残らなかった。
真魚は、もう一度書いた。また波が来て、さらっていった。
三度書いて、三度消されて、少年は枝を置いた。
覚えたものは、書けば書くほど、波がさらっていく。耳には残る。けれど、掴めはしない。書物もそうだった。一字残らず内に容れたのに、何ひとつ手に入った気がしない。
覚えてしまったものは、もう、自分のものではない真魚は、そんなふうにしか思えなかった。覚えられるものは、覚えた途端に、波のように手をすり抜けていく。
ならば、と少年は思った。覚えられぬほど深いものは、どこにあるのだろう。一度や二度では掴めず、生涯をかけて手を伸ばしてなお、届かぬほどのそういうものは、この世のどこかに、あるのだろうか。
夜気が冷えていた。濡れた砂は尻の下でひやりと湿り、塩の粒が乾いて唇の端に小さくこびりつく。昼から何も口にしていない腹が、底のほうで軽く痺れている。それでも、この少年を本当に飢えさせていたのは、腹ではなかった。
潮が、また寄せて、返した。砂の上には、もう何も書かれていない。
答えは、なかった。ただ波の音だけが、いつまでも寄せては返していた。
*
佐伯の一族が、この少年に何を見ていたか。それは、真魚自身にもうっすらと察せられた。
一族は、真魚を都へ送ろうとしていた。
三男であれば、家督は継げぬ。田畑も館も、いずれ兄たちのものになる。それでも一族が都へ託そうとしたのは、兄たちを措いて、この末子であった。継ぐべきものを持たぬ子に、一族は家の名そのものを賭けようとしていた。
地方の豪族にとって、中央の朝廷は遠い灯である。その灯に手を届かせるには、子弟の誰かを都へ上らせ、学問を修めさせ、官の道を歩ませねばならない。佐伯の家は古く誇りも高かったが、近ごろは中央での勢いに、目に見えて陰りがさしていた。だからこそ、麒麟児が要った。家の名を、もう一度、都の空へ掲げてくれる者が。
その役を自分が負わされていることを、真魚は知っていた。
「真魚が大学寮へ上れば、佐伯の名も、もう一度都に響こうて」
都へ出れば、まずは母方の阿刀の家に身を寄せ、彼の読書人たちに就いて学ぶのだという。大人たちは、少年の前でそんな話をした。話す者の目は輝いていた。その輝きは真魚に向けられている。だがよく見れば、少年を通り越して、その向こうの一族の明日というものを見ていた。
その視線が、真魚は嫌いではなかった。期待されることは、少年には甘い蜜だ。ただ、ときおり、あの浜の夜の、砂を舐めていった波の音が、ふと胸の底でうずいた。
*
一度だけ、真魚はそれを母に訊いたことがある。
七つか八つのころだ。母が仏前で経を誦し終えたあと、真魚はその傍らに座った。
「母上。経をすっかり覚えてしまったら、その先には、何があるのですか」
母は、灯明の芯を整える手を止めた。油の匂いが、かすかに揺れた。
「その先、とは」
「覚えてしまえば、もう覚えるものはありませぬ。覚えてしまったものは、なんだか、もう私のものではない心地がするのです」
うまく言えてはいなかった。けれど母は、真魚の言葉の足りなさを咎めなかった。灯明がひとつ、ふっと揺れて、蝋の匂いが立った。母はしばらくその灯を見つめてから、ゆっくりと言った。
「真魚。仏の道はね、覚えるものではないのですよ」
「覚えるもの、では」
「経を諳んじるのは、入口にすぎませぬ。そこから先は、覚えるのではなく身に、宿すのです」
身に、宿す。
その言葉が、真魚の耳の業に焼き付いた。意味は、まるで分からなかった。覚えるのと、宿すのと、どう違うのか。覚えてしまった自分の内には、いったい何が、宿っていないというのか。
分からぬまま、しかしその一言だけは、潮の音のように、真魚の底に沈んでいった。
母が何を思ってその言葉を口にしたのか、真魚には読めぬ。灯明のわずかな光のなかで、母の横顔はただ静かであった。我が子の問いを喜んでいるようにも、どこか案じているようにも見えた。だが、母はそれ以上、何も言わなかった。
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母が、灯を消した。
仏間が闇に沈むと、潮の音が、ふいに大きく聞こえた。背の山を越えて浜から渡ってくる、あの底の低い谺。
真魚はその音を聞きながら、ひとつのことを、ぼんやりと思っていた。
自分はいつか、覚えてもどうにもならぬものに、出会うのだろうか。一度では掴めず、二度でも掴めず、生涯をかけて手を伸ばしてなお、届かぬもの。覚えるそばから波がさらっていくのではなく、抱きしめても抱きしめても、なお余るもの。そういうものに、いつか。
少年は、それを知らない。自分の行く末も、これから越えてゆく幾つもの夜のことも、何ひとつ知らなかった。知っていたのは、ただ、虚しさの輪郭だけだ。
まだ何も失ってはいない。都へも、まだ発たない。一族の期待を背負ったまま、その日を待つ、ひとりの少年がいる。それだけが、この夜の確かなことであった。
だが、その日は、少年が思うよりも早く、すぐそこまで来ていた。
潮が寄せて、返した。
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筆を擱く。
墨が、また紙の上に小さな黒い珠をこしらえた。あの浜の少年の話なら、私はいくらでも書ける。覚えてもどうにもならぬものに、あの子がいつか出会うことも、私は知っている。知っているからこそ、ここで止める。その先を教えてやれば、少年は走り出してしまうだろう。失うものを失う前に、知ってしまう。それは、酷い。
砂に書いた字は、波が消してくれる。だが、いくら波が来ても、消せぬものもある。
私は、まだ一度も、本当のことを書いていない。




