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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第5章 渡唐
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第46話 空海と呼ぶ声

 門は、七年のあいだ、変わらずにそこに開いていた。


 朝いちばんの光の中に、山門は記憶のままの姿で立っていた。土塀も、松も、参道の砂利も。変わったものを探すほうが難しかった。山門の甍の上で、朝の光が瓦を一枚ずつ起こしていた。変わったのはくぐる男のほうである。七年前、あの別れの夜にこの門を出た男は、まだ答えを持っていなかった。いま一滴の答えと、新しい名と、海へ渡る志を持って、男は門の前に立っていた。


 空海は山門に一礼して、朝いちばんの参詣人として門をくぐった。


 砂利を踏んだ。


 殺さなかった。一歩をまっすぐに置いた。歩幅は、行の歩幅のままだった。七年前の秋の夕、この砂利の手前で殺した足音を、今日は殺さずに鳴らした。一歩。二歩。参道の砂利が、朝の静けさの中ではっきりと鳴った。松の影が参道に長く、露がまだ砂利の底に残っていた。


 回廊の奥に人影があった。


 灯の道具を抱えて堂から堂へ渡る、あの静かな運び。その手が、一歩目で止まっていた。


 あの耳は、一歩目で分かるのだった。


  *


 彼女はすぐには振り向かなかった。


 灯の道具をゆっくりと廊の隅に置いた。置いて、姿勢を整えた。置いた指を、袖の内へゆっくり戻した。整えるのに少しだけ時が要った。それから、振り向いた。


 七年が、そこに、あった。


 髪の銀は増えていた。頬の線は細くなっていた。だが、目は変わらなかった。雄弁の底の空虚を言い当て、同じ色を言い当てた、あの静かに澄んだ目。その目が僧形の男をまっすぐに見た。


「……お帰りなさいませ」


 第一声はそれだった。


 七年ぶんの何もかもを、その五文字が抱えていた。声に、責める色はなかった。帰る場所がここであることを、当たり前のことのように。空海は深く頭を下げた。下げた頭の上に、彼女の声が続けて降った。


「今日は、足音を、殺しておいでに、なりませんでした」


 空海は頭を上げた。


「あの秋の夕でございます」彼女は参道の砂利のあたりへ目をやった。「砂利の手前まで来て、止まって、戻った足音が、ございました。七年、あれは、空耳と思うことにしておりました」


「空耳では、ありませんでした」


 空海は認めた。七年、伏せてきた小さな罪を、初めて正面から。


「答えを持たずに、この門をくぐることができませんでした。あの日の私には、途中のものしかなかった」


「存じております」と彼女は言った。「だから、空耳に、しておいたのです」


  *


 回廊の端に、七年前と同じ距離を置いて二人は立った。距離の取り方を身体が覚えていた。七年で忘れなかったものの多さに、空海は内心で驚いていた。回廊の柱は、七年ぶんだけ色を深くしていた。庭の白砂が朝の日を静かに返し、面には今朝引いたばかりの箒の筋が通っていた。


 空海は報告した。約束の報告である。谷のこと。行のこと。数のこと。翁のこと。飢えの冬のこと。岬のこと。洞の額縁のこと。そして、あの朝のこと。星のことは言葉を選んだ。奇瑞の形にならないように、身体に起きたことだけを言葉少なに語った。彼女は遮らずに聞いた。聞く姿だけは、七年前と少しも変わらなかった。庭のどこかで鶯が鳴き、鳴きやみ、また鳴いた。回廊の朝は、七年前とまったく同じ速さで進んでいた。


「目に映ったのは、空と、海だけでした」


 と、空海は言った。


「世界が、ふたつに減っておりました。上半分と、下半分。ふたつは遠い一線で接して、ひとつの景色でした。その景色を見たとき、分かったのです。あなたが、言い当てておられた。十年あまり前に、あの回廊で」


「わたくしが」


「同じ色、と仰った。私を見る目と、経を聴く目は、同じ色だと。あの言葉の答えが、あの朝の景色でした。同じ色のものは、同じ景色の、上半分と、下半分だったのです。どちらが先でもない。切り離せば、どちらもあの景色ではなくなる」


 彼女は長いこと黙っていた。


 それから目を伏せて、小さく言った。


「七年かけて、そんなに遠くまで、わたくしの言葉を、持っておいでになったのですね」


  *


「いまは、何と、名乗っておいでです」


 やがて彼女が問うた。真魚さま、と呼びかけて、その名がもう俗世に置かれてきたことを思い出したような問い方だった。


「空海、と」


 彼女の唇がその名を受け取った。


「そら、と、うみ」


 一字ずつ、口の中で確かめた。それから、初めて呼んだ。


「……空海、さま」


 呼ばれた男の中で、あの朝が鳴った。潮の上に母の経が乗り、翁の節が渡り、名の群れが行き、あの人の声が灯のように点る。あの織物が一瞬、全部鳴った。浜の子どもらに呼ばれても鳴った名が、この声で鳴らないはずがなかった。名のいちばん深いところに、この人から預かったものが入っているのだから。


 彼女は、それを知らない。


 知らないままに、しかし何かを聴き取ったらしかった。同じ色を言い当てた人である。名を呼んだあと、彼女は少しだけ黙った。黙って、呼んだばかりの名の余韻に耳を澄ませるような間があった。それから目を上げて言った。


「よい、お名前」


 その声がわずかに揺れた。


「わたくしは、海を見たことがありませぬ。空は、この囲いの上にあるものしか知りませぬ。わたくしの見たことのないものが、ふたつとも、あなたの、お名前に、なりました」


  *


 海へ渡ることを告げた。


 大日の教え。書物の外にある芯。面と向かって、手から手へ。国の船。そして、二十年の律。


「二十年」


 彼女はその数を低い声で繰り返した。声は揺れなかった。揺らさずに言うために要ったものが、空海の耳には聞こえてしまった。回廊の外で、松の影が少しずつ短くなっていた。


「もう一度だけ」


 と、空海は言った。七年前に言えなかった言葉、三度の不在で言わなかった言葉を、初めて正面から。


「もう一度だけ、待っていただきたい。いま持って参った答えは、一滴の答えです。海の向こうに、この一滴の、来た海がある。それを汲んで、帰ります。あなたに持って参る答えは、この世でいちばん深いものでなければ、ならないからです。身勝手は、承知しております。七年を、二十年にしてくれと申しているのですから」


 彼女はまっすぐに聞いていた。


 聞き終えて、ひとつ息をした。それから言った。


「今度は、待つとは、申しますまい」


 空海は目を上げた。


「待つ、と申せば、あなたの帰り道に、わたくしが立ってしまいます。あなたの道は、帰り道まで、あなたのものでなければ」彼女はそこで初めて笑った。七年ぶりの、ためらいのない笑みだった。「ですから、待ちませぬ。そのかわり――聞いております。どこの海の上でも。あの谷の声が、七年、囲いの内まで届いておりましたもの。あなたの声は、遠いほど、よく通る方ですから」


  *


 別れの刻が来た。


 昼の回廊に灯はなかった。焔ひとつぶんの距離の、焔のない別れだった。春の風が回廊を渡り、彼女の袖の端をわずかに揺らして過ぎた。風のあとに、堂の香の匂いがかすかに残った。空海は行李を負い直した。彼女はふと、その行李に目をやった。


「お持たせするものが、ございませぬ」


「いただいて、ばかりです」


「いいえ」彼女は首を振った。それから、あの夜の焔を思い出すような目で行李を見た。「渡すものは、ございませぬ。持たせるものも。全部、持っておいでの方ですから」


 全部持って行く。


 橋の上で決め、七年かけて行李に締めたあの作法を、この人は知らないままに言い当てた。同じ色を言い当てた人は、七年経っても同じ色の人だった。空海は何も言えなかった。言えば、行李のいちばん深いところにあるものの話になってしまう。言わないことが、この二人の変わらない文法だった。


 空海は深く一礼した。


 彼女も礼を返した。手も言葉も涙も、この別れにはなかった。二十年の海と、聞いていると言った耳と、持って行くと決めた男の荷の重さがあった。回廊の板が、春の朝の日を受けて鈍く光っていた。この板の目まで、身体は覚えて行くのだろう。


  *


 門を出た。


 十歩歩いて、空海は一度だけ振り返った。


 回廊に人影はもうなかった。灯の道具も片づいていた。ただ、堂の奥に灯がひとつ点っていた。


 昼である。灯の刻限ではない。それでも灯は点っていた。夕を待たずに点された、たったひとつの灯が、春の朝の堂の奥で、小さくまっすぐに燃えていた。


 空海は門前で、その灯に深く頭を下げた。それから向き直り、歩き出した。参道の砂利が、来たときと同じ音で鳴った。露はもう乾いて、音は朝より少しだけ軽かった。


 西へ。


 背中で、灯が燃え続けていた。振り返らなくても分かった。あの灯は消えない。夕になり、夜になり、二十年が経っても、あの人は灯を置き続ける。声の届かない場所に灯を置き、灯の見えない場所で声を置く。門前の老いた松が、朝の風の中でひとしきり鳴った。

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