第45話 岬を発つ
掃き納めは、これで四度目だった。
大瀧の岩屋で三度。この洞で、いま四度目。空海は御厨人窟の床を来たときよりきれいに掃き、水場を整え、焚き火の跡を消した。掃いた床に、朝の光が戸口から長く差していた。棚石は空にした。三巻と写しの写しと八巻と名の帳面。すべて行李に入った。行李は七年前より重く、そしてよく締まった。
最後に洞の奥に立ち、額縁を見た。
春の朝の空と海が、そこにあった。この額を、次にここへ籠る誰かも見るだろう。名を呼ぶかどうかは、その者の行が決める。空海は額に向かって深く一礼し、洞を出た。敷居の岩を跨ぐとき、洞の奥で潮の轟きがひとつ、低く鳴った。七年、耳を育てた音である。
*
崖を上がると、浜であの漁師が待っていた。
言葉は少なかった。海の民の別れは、山の民の別れと同じ作法だった。漁師は干し魚の包みと塩を行李に押し込んだ。それから沖を見たまま言った。
「時化の見立ては、教えたの」
「はい。うねりの間合いが伸びたら、三日のうちに荒れる」
「船の上でも、使え。船頭が青い顔をする前に、あんたの耳と骨が先に知るはずじゃ」漁師はそこで少し間を置いた。「海はの、渡してくれと頼む者は、ようけ沈める。渡らせてもらう者は、存外、渡すもんじゃ。あんたは、後のほうじゃろ」
「名の帳面は、持って参ります」
空海は言った。漁師が初めてこちらを見た。
「倅どのの名は、海の上でも毎朝、読みます。届く先は変わりませぬ。海はひとつですから」
漁師は長いこと黙っていた。それから皺の底の目を細めた。
「……そうか。倅も、一緒に、渡るんじゃの」
それだけ言って、漁師は貝を剥がしに磯へ下りていった。振り向かなかった。振り向かないのがこの人の精いっぱいであることを、空海の耳はその足音の乱れから聞き取ってしまった。磯の岩の間で、春の潮が満ちはじめていた。剥がした貝を入れる笊が、腰のあたりで小さく鳴っていた。
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辺地を北へ戻った。
七年前、南へ下った道である。行きは名のない男だった。帰りは違った。草鞋が、行きより早く減った。道々の浜は春で、行きに見た冬の色はもうどこにもなかった。行場で行き合う行者たちが、時折足を止めた。
「もし。室戸で満じられたという、空海どのでは」
名が先に旅をしていた。満行の話も明星の話も、尾ひれをつけて浜から浜へ歩いていた。尾ひれは正さなかった。書が書き手を離れて生きたように、名も名乗り手を離れて歩くのだろう。空海は問われれば頷き、乞われれば経を読み、また歩いた。行く手の岬は霞み、振り返る岬も霞んでいた。春の辺地は、行く者と帰る者の区別をつけなかった。
阿波の北で、浦の向こうに讃岐の山々が見えた。春の海は凪ぎ、行き交う船の帆が小さく光っていた。
屏風のような連なりの、あのあたりが生まれた浜である。父がいて、母がいる。寄ろうと思えば寄れた。空海は寄らなかった。故郷は道の途中に寄るところではなかった。果たして帰るところだった。
かわりに、湊から讃岐へ渡る船頭に文を託した。
父上、母上。空海と名乗っております。国の船に乗り、海を渡って唐へ学びに参ります。
母上。浜の経は、忘れておりませぬ。朝ごとに、あの節で唱えております。あの経を、いちばん深いところまで、たずねて参ります。たずね果てたら、帰って浜でお聞かせいたします。
浜の経を忘れずにいるなら、それでよい。七年前、山を下りた男に届いた母の言伝である。その返事がようやく書けた。書けた文面を、頭の帳面がそっくり写し取った。届いた日の母の顔は見えない。見えぬまま届けばよかった。文を預けた船頭の帆が、春の海峡の光の中に小さくなっていった。
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春の盛りの都は、六年ぶりだった。
大路の賑わいは変わらなかった。変わったのは歩く男のほうだった。位の岸では名を惜しまれ、山では真言の、と呼ばれ、いまは空海と名乗る男が、僧形で大路をまっすぐに歩いた。誰も振り返らなかった。それでよかった。大路の柳は芽を吹き、水路の面に触れ、都は都の春を、誰のためでもなく進めていた。
大足の家の門は、記憶より小さく見えた。
戸を叩くと見知らぬ弟子が出て、僧形の客を怪訝な顔で見た。奥からゆっくりとした足音が来た。あの足音だった。廊下を問わずに通り過ぎた、あの夜の足音。老いて間遠になって、それでも同じ足音だった。
大足は戸口で立ち止まった。
鬢はもうすっかり白かった。目だけが変わらなかった。その目が僧形の男を頭から足まで二度見た。三度目に、目の光で分かったらしかった。あの秋の夜、山の風体で立った時と同じ順序だった。
大足は何も言わずに身体を開いた。入れ、ということだった。敷居をまたぐ空海の背に、老いた声がぽつりと落ちた。「……よう、生きて、戻った」空海は框の内で向き直り、深く頭を下げた。しばらく、上げられなかった。
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火の脇に座った。
弟子が茶を置いて下がった。大足は長いこと黙って火を見ていた。それから顔を上げずに言った。
「で――言葉に、なったか」
置き文の約束である。理由は、まだ、この世の言葉になっておりませぬ。いつか、それを言葉にできる日が来たならば、必ず書き記してお目にかけまする。十年前のあの夜明けの数行を、この人は一字も忘れずに待っていた。
「なりました」
「聞こう」
「ふたつの言葉に、なりました」空海は息を整えた。「空と、海」
大足は火を見たまま動かなかった。長い沈黙だった。やがてその口から、ふ、と息が漏れた。笑ったのだった。
「三巻、書いて、ふたつに、なったか」
「はい」
「学問と、逆じゃの。学問はな、ふたつのものを、ふたつのまま殖やしていく仕事じゃ。千巻が二千巻になる。おまえのは、減っていったか。減って、減って、ふたつまで行ったか」大足はそこで初めて、空海の顔をまっすぐに見た。「して、名は。名のない沙門のままか」
「空海と、申します」
「くうかい」老儒者はその名を、ゆっくり口の中で確かめた。「言葉になったものが、そのまま名になったか。兄者に、知らせてやらねばの」
「文は、出しました。讃岐へ渡る船に、託して」
それから空海は、行李から写しの写しを出して見せた。都で生まれ、山と岬を巡って、書き手と共に都へ帰ってきた三巻である。大足は他人の筆で写された甥の書を灯に寄せて、長いことめくった。めくりながら幾度かうなずいた。何にうなずいたのかは言わなかった。
「そうか」大足はうなずいた。うなずいて、それから少しだけ声を低くした。「で。今日は、報告だけで来た顔ではないの。風の匂いが、する」
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渡海のことを告げた。
国の船。唐の都。大日の教え。面と向かって手から手へ授かるしかない、書物の外の芯。二十年の留学の律。大足は遮らずに聞いた。聞き終えて、火箸で灰をならした。
「止めん。止まらんことは、十年前に思い知ったでな。風の行く先を、見ておる目は、ある。わしの役目は、それだけよ。じゃがの、空海」
大足は立ち上がり、奥から重い包みを持ってきた。
「留学は、二十年。国から出るのは僧の口過ぎばかりで、書物ひとつ、あちらでは銭じゃ。阿刀の家の蓄えと、兄者から預かっとった佐伯の分と、合わせてある。持って行け」
「叔父上、これは」
「学問の家の銭が、学問の外へ行く男の路銀になる」大足は口の端で笑った。「悪くない、使い道よ。千巻を二千巻にする銭より、ふたつまで減らした男を海の向こうへやる銭のほうが、どうやら遠くまで届きそうじゃでな」
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夜、写本の工房から若者が駆けつけてきた。
もう若者という歳ではなかった。三十の半ば、写本の工房の主である。あの書の写しと手習いの指南で、人を三人使う身代になっていた。工房の棚にはあの三巻の写しが、注文を待って積まれているという。
「乞児のやつ、ほんとうに海を渡るんか」
「渡ります」
「二十年じゃと」男は舌打ちした。それから昔と同じに、そっぽを向いて言った。「続き、書けよ。唐で見たもの、聞いたもの、全部よ。書いて、送れ。俺が、写すでな。あんたの書は、俺が写すと決まっとるんじゃ」
書き手と写し手の約束に、受取人がまたひとり増えた。
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その夜、空海は昔の部屋に床を借りた。
十年前、書き損じの山を築き、置き文を残したあの部屋である。文机も同じ場所にあった。空海は懐から大足の返事の文を出し、灯の下であらためて字を目で読んだ。風の行く先を、見ておる目は、ある。紙は山と海の歳月で柔らかく灼けていた。字は変わらずに四角く、生真面目だった。灯心が、じ、と小さく鳴いた。開け放した窓から、春の夜気が土の匂いを運んでいた。
明日。
朝いちばんに、あの門をくぐる。あの回廊の人に会う。別れの夜から数えて七年目の春である。今度は、足音を、殺さずに。




