第43話 空と海
満行の翌る朝も、水はいつものように汲まねばならなかった。
岩の割れ目の滴りはいつもの細さで垂れていた。火はいつもの手間で熾きた。磯の貝はいつもの潮どきに採れた。あの朝を境に世界は根本から変わり、そして何ひとつ変わらなかった。変わらないことが、うれしかった。あの朝が日々の外にある奇瑞なら、日々はあの朝の外に置き去りにされる。だが、あの朝は日々の中にあった。水汲みの中に、火の世話の中に、貝の殻の光る内側にまで、あの朝の続きがあった。春へ向かう海は、日ごとに色をやわらげていった。
誦も続いた。
満ちたのになぜ誦すのかと、昔の自分なら問うただろう。いまは問いのほうが消えていた。やめられたのなら、こんな山の中でまだ誦してはおらんよ。あの雪の晩の沙門の答え。あの答えの意味がいま、全部分かった。満ちるとはやめることではなかった。器が満ちて初めて、誦は汲むことをやめて湛えることになった。朝の座はもう、何かへ向かう道ではなかった。着くたびにあの朝へ帰る場所だった。岬の朝は日ごとに明るくなり、座る岩の冷たさも少しずつゆるんでいった。
*
変わったのは、世界の読め方だった。
山が経であることは翁に教わった。海が経であることはこの岬が教えた。あの朝からはその先が読めた。すべてが経だった。漁師の手の甲の皺に、時化と凪の三十年が書かれていた。浜の子どもの駆け方に、潮の満ち引きが書かれていた。風の湿りに翌日の空が、名の重さに遺された者の顔が書かれていた。世界そのものが、あの額縁の中身の続きだった。どの頁も読み終わらなかった。
名の経も続いていた。預かった名は返さない。回向に満行の卒業はなかった。朝ごとに幾十の名が海へ出ていった。変わったことがひとつだけあった。名を読む声の届く先が、見えるようになった気がした。海がまるごと墓なら、この経は毎朝、墓のすべてに届いている。届いていると初めて言い切れた。経を終えると、海は何ごともなかったように光っていた。
覚え終わらないもの。
少年の日にたったひとつの声の底に探した、覚え終わらないもの。世界のほうが初めから、覚え終わらないものだけでできていた。磯へ下りると、昨日と同じ岩に、昨日はなかった小さな貝がついていた。
*
名が来たのは、満行からふた月ほどのちの春の、何でもない昼だった。
浜で漁師の網の繕いを手伝っていた。破れ目に糸を渡す手仕事は、山の暮らしで覚えた指によく馴染んだ。春の日が網の目に細かく落ちていた。ふたりしばらく、黙って手を動かした。それから漁師が手を止めずに、何気なく言った。
「そういえばの。あんた、名はなんと言いなさる」
七年ぶりの問いだった。網の目を渡る指が、一瞬だけ止まった。それきり潮騒だけが鳴った。
山の者は問わなかった。真言の、と呼び、坊さま、と呼び、それで済んだ。浜の者も同じだった。坊さま、と呼ばれれば、男は手を止めて振り向いた。だがこの老いた漁師は、倅の名を預けた男の名をふと知りたくなったらしかった。それだけの、何でもない問いだった。
男は答えようとした。
名のないことを詫びようとした。捨てた名の話でもなく、来ていない名の話でもなく、ただ名のない者です、と。口を開いた。開いた口の中で――
あのふたつの言葉が、結ばれた。
「……空海、と」
言ってから、男は自分の口の出したものに驚いた。
考えて出したのではなかった。あの朝別々に受け取ったふたつの言葉、上半分の名と下半分の名が、問われた口の中でひとつに結ばれて出た。名乗ったのではなかった。名のほうが、口を通っていった。
星は口に入り、名は口から出た。
同じ道を通ったのだった。
*
「くうかい」
漁師は繕いの手を止めて、その名を口の中で転がした。それから海のほうへ顎をしゃくった。
「ふん。あんたらしい名じゃ。空と海なら、この浜じゃ毎日見とるものでの。ええ名じゃ。大きゅうて、そこらにある」
大きくてそこらにある。
男はその評を深く受け取った。位の岸の人々なら大仰な名と笑うかもしれない。学僧なら経典の出どころを問うかもしれない。この漁師は、毎日見ているものの名だと言った。それがいちばん正しかった。あの朝の景色は特別の朝にだけあるのではない。毎日そこにある。誰の額縁にも毎朝懸かっている。大きくてそこらにあるものの名を、この身の名にする。浜には春の光が満ち、繕い終えた網が乾いていた。
名は浜から浜へ、静かに広まった。
数日もすると、浜の子どもらが空海さま、と呼んだ。魚を分けてくれる女たちが空海さま、と呼んだ。呼ばれるたび、男の中であの朝が小さく鳴った。七年、名なしで生きた。呼ばれる名は輪郭の杭だと、あの春知った。いま分かったのはその先だった。名を呼ばれるたび、人はその名の中身を呼ばれるのだった。空海さま、と子どもが呼ぶ。呼ばれた男の中で、空と海があの一線で接し直す。呼ばれるたびあの朝へ帰らせてもらえる。浜の風にも、その名はよく馴染んだ。
名は、急ぐな。行の先で、向こうから来る。来た名が、まことの名じゃ。
沙門の言葉のとおりになった。剃刀の朝から六年とひと冬。名はたしかに、向こうから来た。星の通った道を逆にたどって。
*
その夜、男は、いや空海は、初めての名であの朝の景色を思った。春の夜の海鳴りは、冬よりやわらかかった。
この名を名乗るたび、自分はあの景色を名乗ることになる。空と海と、ふたつが一線で接したあの額の中身を。そしてあの景色の中には、ひとつの渇きのふたつの顔が入っているのだった。どちらが先でもない、同じ色をしたふたつのものが。
この名は行の名だった。答えの名だった。
そして誰にも言わないが、あの言葉ごと抱いて行く名だった。
名乗るたびに、あの朝を名乗る。あの朝の景色には、あの人の言い当てた「同じ色」が解かれて入っている。この名を呼ばれるたび、自分の中で何が呼ばれるのか。それはこの名を付けたものだけが知っていればよかった。
*
満ちた器は、しかし終わりではなかった。
器が満ちて初めて見えたものがあった。この光はどこから来たのか。虚空蔵の真言は一の沙門から来た。沙門は南都の伝えから受けた。伝えは海の向こうから来た。自分が七年抱いてきたのは、大きな教えのほんの一滴。そう思えてならなかった。一滴でこれほどのものが満ちた。ならば、この一滴の来た海がどこかにある。あの朝受けたものの全体を説き尽くした教えの本流が、この世のどこかに。
一滴を受けて、海のあることを知った。岬から見る海の広さが、その日から違って見えた。
渇きは消えていなかった。深くなっていた。ただ、昔の渇きは行き先を知らなかった。いまは宛てがあった。答えが出て、より深い問いが始まっていた。
*
数日ののち、空海は文を書いた。
七年ぶりの筆だった。里へ下りる漁師に託して、浜から浜へ、湊から湊へ、阿波の山裾の里まで届けてもらう文である。宛て先は薬草掘りの爺。文面は短かった。
答えが、出ました。
空と海、という答えでした。名にして持って歩くことにいたします。
里の皆さまに、あの声は果てまで行って、果てより先を見つけたとお伝えください。谷の岩屋の雨受けは、まだ保っておりましょうか。
空海。もっとも山では、真言の、のままで結構です。
書き終えて、初めての署名をしばらく見た。筆で書くとその名は、口で言うよりさらにあの朝に似ていた。上の字が空、下の字が海。ふたつの字の接するところに見えない一線があった。墨の乾くあいだ、洞の口を潮騒が満たしていた。
*
文を託した浜の帰り、空海は岬の突端に立った。
春の海が光っていた。沖には春霞がかかり、水平線はやわらかかった。足もとの岩の間で、引きかけた潮が小さな渦を巻いては解けていた。磯の匂いに、山から下りてきた木々の芽の匂いがかすかに混じっていた。答えは出た。名も来た。約束の受取人たちの顔が順に浮かんだ。爺には文を出した。南都の僧には、言葉になった日には都に届くと言った。大足には、書き記してお目にかけると置き文に書いた。そして、最後のひとりが残っていた。
答えを持って、来ます。
あの門前の誓いが、いちばん深いところにあった。答えは出た。ならば持って行かねばならない。都へ。あの門へ。あの秋の夕から七年ごしの答えを持って。灯を守る人の夕暮れは、いまもあの回廊にあるだろうか。ここにおります、と言った人である。
その道筋を思い始めた男の耳に、浜のほうから噂が届いた。
湊帰りの者たちが、網小屋の前で話していた。唐へ渡る船がまた仕立てられるそうな。国の使いの大船が四つ。西の湊から、海を越えるそうな。網小屋の軒下には春の夕日が長く差し込み、話す男たちの影を砂の上に並べていた。




