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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第4章 山の七年
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第42話 明星来影

 その朝の来ることを、男は前の晩から知っていた。


 理屈ではなかった。暁の星は幾日もかけて、額縁の中を海のほうへ下りてきていた。明日の暁、星は海の一線のすぐ上に懸かる。そこより下はもう海である。星が海に触れる朝は明日を措いてない。七年、谷と海に教わり続けた身体がそう告げていた。谷の応えの満ちる朝を、谷が先に知っていたのと同じだった。


 男はその夜、眠らなかった。


 洞を掃いた。水を汲み替えた。棚石の書物の埃を払った。灯明の小さな火が、掃き清めた床の上で揺れずに立っていた。焚き火の灰を掻き均し、灯明の油を注ぎ足した。手はひとりでに動いて、順を迷わなかった。何かを迎える晩の身仕舞いだった。誰に教わったのでもない。剃刀を研いだ沙門の手つきが、蔵の中から手に下りてきていた。


 断とうとしたのではない。眠りのほうがその夜は要らなかった。夜気は冴えて、洞の口の外で冬の海が低く鳴っていた。潮の香がいつもより濃く、岩の肌は氷のように冷えていた。


  *


 夜通しの座に、客が全員来た。


 潮が来た。讃岐の浜の寄せては返すあの音。その上に母の経が乗った。四つの朝の口移しの一節。翁の節が渡ってきた。低く入ってゆっくり持ち上げる、あの運び。都の鐘が遠くで打った。幾十の名が来た。海で死んだ者たち、預かった重さのひとつひとつ。あの人の声が来た。同じ色をなさいます。回廊の灯のように点った。


 そしていちばん深いところに、あの誰にも聞こえない糸があった。


 七年隠して、この冬初めて行李に入れた、あの言葉の重さ。糸は鳴らなかった。鳴らないままで、織物のいちばん深い目を走っていた。


 男はその全部の真ん中で誦していた。


 真言はもう、口が回すのではなかった。息が回し、息を海の轟きが押し、轟きを夜の岬が抱え、岬を夜が抱えていた。世界の全部がひとつの織物になって鳴っていた。自分の声は一本の糸だった。一本の糸であることの静けさと広さは、もう驚きではなかった。七年かけて、それが常の住まいになった。


 夜が深まり、極まり、そして緩みはじめた。凍てた岩の冷えが座の下から昇り、それさえ織物の一本の糸だった。


  *


 空の下端が藍から群青に変わった。海鳥はまだ啼かず、轟きだけが夜の名残を運んでいた。潮の香が、夜の濃さから朝の手前の軽さへ変わりはじめていた。


 額縁の中に、星が懸かった。


 ひときわ明るい暁の星である。いつもの朝より低かった。海の一線のすぐ上。凍てた大気の底で、星は瞬かずまっすぐに灯っていた。そして海面に、光の道が引かれた。星の光がうねりの背に反り、砕け、繋がって一本の細い道になり、沖から洞の口へまっすぐに届いていた。


 光の道のこちらの端に、男が座っていた。背後に七年の洞の闇があり、前に群青の海があった。


 男は誦した。


 七年ぶんのすべての声で誦した。谷響きを、惜しまなかった。大瀧の谷が七年かけて育てた声のなにひとつ、出し惜しまなかった。名乗りの一遍も、礼の一遍も、雪の谷の近い応えも、夏の谷の深い応えも、颱風に呑まれた夜の声も。囁きに痩せた声も、割れて癒えて低くなった声も、翁に返した節も、幾十の名を乗せた朝の声も。七年の声の全部がこの一誦の中にあった。声は洞に満ち、轟きと混ざり、光の道の上を沖へ出ていった。


 そのとき、数が終わった。


 消えたのではなかった。消えるのなら七年、幾度も消えた。白の一瞬。白い頁。薄れる墨。あれは消えることだった。この朝のは違った。誦するものと、誦されるものと、誦の場所とがひとつになった。数えるものと数えられるものがひとつになれば、数は双方のあいだに立つその仕事を失う。帳面は要らなくなった。破られもせず閉じられもせず、役目を終えて静かに退いた。


 数のほうが先に飽きた。


 翁の言った通りになった。あの焚き火の夜から五年かかって、言われた通りになった。焚き火の向こうのあのけらけらという笑い声が、織物のどこかで鳴った気がした。


  *


 星が海の一線に触れた。


 触れて、光の道がいちだんと際立った。夜と朝の境のいちばん深い群青の中で、星とその道だけが灯っていた。男は誦しながらその星を見ていた。誦は口を開く。真言の母音の開く一瞬、口は光の道の突き当たりで開いていた。


 星が疾った。


 見かけのことだったのだろう。暁の大気が揺らいだのか。極まった行の目が光を束ねたのか。七年の涙腺が初めて緩んだのか。どれでもあった。どれでもよかった。光の道が一瞬、束になって走り――


 星が、口に、堕ちた。


  *


 光が喉を通った。


 熱くも冷たくもなかった。ただまっすぐだった。まっすぐに喉を通り、胸へ下りて、あの窪みに落ちた。


 潮が七年どころか生まれてこのかた彫り続けてきた、あの窪みである。覚え尽くしたあとの虚しさが鳴った窪み。飢えの音が鳴った窪み。方角を得て、名を得て、白を知り、あの言葉の重さを預かった胸の底のあの場所。光はそこに落ちて、満ちた。


 窪みは器だったのだ。


 生まれてから三十年、あの窪みはこれを受けるために彫られ続けていた。潮が彫り、書物が彫り、谷が彫り、飢えが彫った。覚え終わる虚しさも死者たちの名も、この窪みを深くした。いちばん深いところを刻んだのは、あの言葉だった。彫られただけの深さで、光は満ちた。無駄に彫られた窪みは、ひとつもなかった。


 光は器から溢れて、全身に行き渡った。


 骨に、指の先に、七年の傷痕に行き渡った。灼けた喉を過ぎ、この忘れるという扉のない難儀な頭の、蔵の隅々にまで。蔵のすべての棚がいちどきに照らされた。照らされて、分かった。蔵に眠っていたのは荷ではなかった。全部が油だった。火を待つ油だった。潮の音の数も、書物の頁も、谷の遍数も、死者の名も、あの言葉も。覚えてきたもののすべてが、この朝のこの光の燃えしろだった。


 世界が鳴っていた。


 鳴りながら静まり返っていた。轟きと静寂が同じものの表と裏だった。


  *


 どれほどの間そうしていたのか、分からない。


 光の満ち引きがおさまり、頬に朝の明るさが薄く触れた。男は目を開けた。


 目に映ったのは、空と海だけだった。


  *


 朝になっていた。


 星はもう光の中に溶けていた。風は凪ぎ、海は冬の朝の銀色に細かく光っていた。沖まで光の鱗が敷きつめられていた。額縁の中で、上半分は明けきった冬の青。下半分は朝日を待つ銀の海。ふたつのものが遠い一線で静かに接していた。七年前から、いや初めてこの洞に立った日から、名を呼ばずに取っておいたあのふたつのもの。


 受け取り切れる朝が来たのだった。胸の器はまだ光の余熱を持っていた。


 男は声に出した。


「……空」


 上半分の名である。


「……海」


 下半分の名である。


 たったふたつの言葉が、洞の中で鳴った。世界のすべてを言葉にできると思っていたあの雄弁の少年が、三十年かけてふたつの言葉に戻ってきた。それで足りた。この朝の世界は、あますところなく言えた。


 そして額の中のふたつを見ながら、男はあの問いの答えがそこにあることに気づいた。


 渇きが先か、あの言葉が先か。


 空が先か海が先かと問うのと同じだった。空と海はどちらが先でもなかった。一線で接してひとつの景色だった。切り離せばどちらもこの景色ではなくなる。恋と、道と。同じ色。あの人は十年あまり前にもう言い当てていた。同じ色のものは、同じ景色の上半分と下半分だった。ひとつの渇きだった。


  *


 後の世の人は、あの朝のことを奇瑞と呼ぶだろう。


 明星が来影した、と。虚空蔵菩薩が応じたのだ、と。そうかもしれない。私はそれを否まない。だが、あの朝あの洞にいた者の身に起きたこととして言えるのはこれだけである。七年の行があの朝、極まった。極まった身体の開いた口に、暁の星の光が届いた。三十年彫られ続けた器がそれを受けた。


 それだけのことである。


 そしてその朝より大きなことを、私はこの生涯で知らない。


  *


 行は満ちた。


 数においてではなかった。百万遍を数え終えた朝ではなかった。数はその仕事を終えて退いた。満ちたのは器においてだった。彫られただけの深さに、受けるだけのものが満ちた。


 男は洞を出た。岩の段を下りる足の裏に、七年踏み慣れた冷たさがあった。冷たさまでもが今朝は明るかった。


 岬の突端に立った。朝日が海から昇りはじめていた。濤の白が岩を打ち、しぶきが朝日を受けて散った。七年前、初めてこの岬に立った日、ここには囲いも応えもないと思った。違った。いまは分かる。空が囲いだった。海が応えだった。世界より大きい囲いと世界と同じ深さの応えの中に、初めから立っていた。


 風が吹いていた。


 あの朝、都を出た背を押した風と、山を下りて向かい合った風のその続きの風だった。繋がれぬ風だった。その風の中に、男は聞いた。名が近づいてくる音がした。

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