第41話 覆い隠す
冬が岬に来た。
七度目の冬である。北風が岬の背を越え、うねりは高く、額縁の中の下半分は鉛の色になった。洞の口には、砕けた波の音が絶えず立ちこめた。男の中の時化も続いていた。誦は戻らない。座に着いては立つ。押し戻すのか、それとも開け放つのか。問いは宙に吊られたままだった。
押し戻せば七年前と同じである。巧みな手があの言葉を蔵の奥へ仕舞い、行は戻るだろう。伏せてきた七年があと何年か続くだけだ。だが、開け放てばどうなる。あの言葉を正面から見つめれば。七年の行の正体が、ただの長い逃げ場だったと知ることになりはしないか。それを知ってなお、座に着けるのか。
どちらの道も選べなかった。
選べないまま、朝だけは来た。そして朝が来れば、名の経だけは読んだ。読み終えると、また答えのない一日が始まった。
冬の洞は寒かった。焚き火の煙は風向きで洞の中にこもった。洞の口から見える海は、日ごとに色を重くしていった。磯のものは、冬の海が採らせない日が続いた。干しておいた海藻と蓄えの木の実で、命を細く繋いだ。水汲みの手だけは、どの朝も欠かさなかった。飢えの冬を越えた身体は、この程度の冬には動じなかった。動じないことがかえって時間を長くした。身体が保つぶんだけ、答えの出ない問いと長く向き合わされた。
*
答えは、その名の経がくれた。
冬のある朝である。男は洞の口に立ち、鉛色の海に向かって経を読んでいた。預かった名はもう幾十にもなっていた。時化で死んだ者。流された子。戻らなかった舟の乗り手。名をひとつずつ経の声に乗せて、海へ出してゆく。老いた漁師の倅の名。その隣の浜の母親の名。名にはそれぞれ重さがあった。預かったときの、遺された者の顔の重さが名に乗っていた。息は白く、声とともに海の上へ流れていった。
読みながら、ふと思った。
この経は、名の重さのぶん深くなった。
七年前、回向というものを知らなかった。あの朝の、自分の声の低さだけを覚えていた。翁を送った朝、初めて誰かのための誦を知った。ここへ来て幾十の名を預かった。名の頁だけは、白くならなかった。名はどれも重い。重い名を抱えて読む経が浅くなったことは一度もない。逆だった。重ければ重いほど、声は深いところから出た。
他人の死者の重さは、抱えて誦せるのだ。現に七年、そうしてきたのだ。
男は経を読み終えて、長いこと動けなかった。凍てた風が、読み終えたばかりの喉を撫でていった。それなのに、自分のいちばん大切な重さだけを蔵に押し込み、錠を下ろし、外に置いて誦してきた。自分の重さだけは行の妨げになると、決めつけて。
誰が、決めたのか。
自分のあの巧みな手が決めたのだった。
*
あの言葉も預かりものだった。
そのことに思い至ったとき、男の中で七年ぶりに、何かが外れた。
あの夜、あの人は生涯でただ一度、囲いの外へ言葉を投げた。投げられた言葉を自分は受け取った。答えなかった。答えないまま受け取って、発った。あれは――預かったのだ。返す宛てのない預かりもの。返せる日が来るのか来ないのか、それすら分からない預かりもの。
漁師の倅の名と、どこが違う。
遺された者が行者に名を預ける。行者は名を経に乗せる。名は重い。重さごと乗せる。それが回向だった。あの言葉も同じではないか。あの人が預けた。自分が預かった。預かりものは蔵に隠すものではない。抱えて、誦すものだ。
それだけのことだった。分かるのに、七年かかった。
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その夜、男は蔵の棚の前に初めて、自分から立った。
目を閉じ、闇の中であの夜の記憶の前に静かに座った。押し戻す手をほどいた。ほどいて、膝の上に置いた。あの言葉を取り出しはしなかった。声にも、思いの上にも乗せなかった。あれはあの人のものだ。それは変わらない。男は闇の中で、そこにある、と認めた。
ある。
七年、あった。これからもある。蔵のいちばん奥の棚に、あの夜の灯の色のまま、あの声の高さのままある。なくならない。忘れられない。それがこの頭に生まれた者の預かり方だった。
認めるまでに、長い息が幾つも要った。
息を吐くたび、手がまた伸びかけた。七年の癖である。伸びかけるたびほどいた。押さえに行く手を力ずくで止めずに、ただほどいて膝に戻した。幾たびめかに手は伸びるのをやめた。癖が抜けたわけではないのだろう。癖のほうが今夜は引く、と決めたような静かなやめ方だった。
認めて目を開けると、洞の闇はいつもの闇だった。
轟きはいつもの轟きだった。何も変わっていなかった。変わったのはひとつだけだった。蔵の錠が外されていた。扉は閉じたままである。だがもう、押さえつけてはいない。閉じているのと押さえつけているのとは違う。その違いに、七年ごしで手が届いた。夜明けまで、男はそのまま座っていた。
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翌る朝、男は座に着いた。
幾十日ぶりの、自分のための座だった。夜明け前の洞は冷え、吐く息だけが白かった。息を整え、真言を放った。声は轟きに混ざり、織物に入った。いつもの合流だった。ただ、織物の手ざわりが違った。
糸が、一本、増えていた。
誰にも聞こえない糸だった。声にも音にもなっていない。あの言葉の重さだけが糸になって、織物の目の中を走っていた。潮の糸、母の経の糸、翁の節の糸、幾十の名の糸、あの人の「同じ色」の糸。そのいちばん深いところに、七年隠されてきた一本が初めて加わった。織物の目はその一本ぶん、細かく深くなった。
誦は、崩壊の前より深かった。
乱れる前へ戻ったのとは違った。乱れをくぐって、別の場所へ出たのだった。声のない夜を越えた声は、越えたぶんだけ底が変わっていた。
渇きが先か、あの言葉が先か。
あの問いの刃物はまだそこにあった。だがもう、切れなかった。男は問いを解かなかった。解く代わりに翁の文法を当てた。どちらでも同じことだった。渇きが先でも言葉が先でも、この七年はこの七年だった。谷も翁も、飢えの冬も名の経も、どちらが先かでそのどれひとつ変わりはしない。問いはそれでも時折浮かんだ。浮かべば客として遇した。来る問いは来させた。答えないまま、もてなした。
*
冬の浜で、漁師と行き合った。風は冷たく、浜には人影がほとんどなかった。
漁師は男の顔を一目見て言った。
「時化、過ぎたかの」
「過ぎました」
「ふん」漁師はいつものように貝を剥がしはじめた。「……過ぎた顔じゃ。過ぎる前よりええ顔になっとる。時化はの、海の底を掻き回すでな。……底のものが、上がってくるんじゃ。それで海は、時化のあとがいちばん肥える」
底のものが上がってくる。
海の言葉は、いつも行の言葉だった。貝を分けてもらい、洞へ戻る道々、男はその言葉を胸の中で繰り返した。
*
全部、持って行く。
七年前の春の朝、都の橋の上でそう決めた。あの読経も、あの夕暮れも、焔ひとつぶんの距離も、言われなかった言葉も、何ひとつ置いては行かないと。あのときは知らなかった。「全部」の中にまだ入っていないものが、ひとつあったことを。いちばん重いもの。あの夜、預かったもの。それだけは行李に入れず、蔵に隠して七年歩いてきた。
それがいま入った。
いちばん重いものが、いちばん最後に行李に入った。行李はそれで初めて、締まった。
*
冬が深まった。
夜明け前の座、昼の座、夕の座。名の経。水汲み。火の番。行の骨組みが身体に戻った。焚き火の薪は乾いた音で爆ぜ、風のない朝は煙が真っ直ぐに立った。洞の唸りは、冬の深さのぶんだけ低くなっていた。戻ってみると、乱れていた日々もまた行のうちだった。座に着けなかった朝も、声のない夜も、あれを抜きにしてはいまの誦はなかった。底のものが上がってきた。上がってきたものごと、いまは誦している。
誦は日ごとに深くなった。数はもう幾日も聞こえていなかった。白い頁が続いているのか、帳面そのものが閉じているのか、確かめる気も起きなかった。確かめない、ということができるようになっていた。声は朝ごとに織物に入り、名を乗せ、重さを乗せ、海へ出ていった。
そして、男は気づいた。
冬の夜明け前、額縁の中の上半分に、ひときわ明るい星が懸かるようになっていた。
暁の星である。凍てた天の底で、それだけが灯のように明るかった。風の落ちた夜明け前は、波の音までも硬く澄んで聞こえた。波の音の上で、星は瞬きもせずに懸かっていた。夜明け前の座に着くと、額縁の中でその星が海の上に懸かっている。日ごとに星の懸かる位置は低くなっていった。海へ近づいていった。座に着く前に、男はしばらくその星を見た。
その星がいちばん低く海に近づく朝が、年の変わり目のそのさきに来る。
その朝のことを、四十年誰にも語らなかったあの朝のことを、次に語らねばならない。




