第40話 閃く夜
秋が深まり、行は夜の底へ深まっていった。
総仕上げの行は、眠りを削る。夜半に一座を加え、暁の座へそのまま続ける夜が増えた。眠りは日に一刻か二刻。断ち切るのではない。行のほうが眠りの場所を侵していくのである。七年の身体はそれに耐えた。耐えるどころか、夜の誦は昼より深かった。闇の中では額縁も見えず、世界は轟きと声だけになった。波は夜通し、同じ間合いで岩を打ち続けた。
眠りを削る行は、飢えとは別の削り方をした。飢えは身体から削った。不眠は境から削った。夢と現の境。昨日と今日の境。思い出すことと、いま聞くことの境。境の薄くなった頭の中で、客たちは自在に行き来した。それでいて誦だけは乱れなかった。七年の誦はもう境を必要としていなかった。眠りながらでも回る深さに、声は届いていた。夜半の座を終えるころ、洞の口の闇がわずかに薄むこともあった。
声は轟きに混ざり、混ざりながら回り続けた。
数は遠かった。白い頁は増えていた。帳面はもう幾日も開かれた覚えがなかった。頁を繰る指の癖だけが、時折うずいた。行は満ちる形へ近づいているはずだった。
満ちる前に底が抜けた。
*
その夜は嵐でもなかった。
ただの秋の夜だった。月はなく、うねりは常の高さで、洞の唸りも常の深さだった。不眠が幾日も続いた、行の底の夜。男は闇の中で誦していた。声と轟きの境はとうに溶けて、自分が誦しているのか洞が誦しているのか、分からない深さにいた。焚き火はとうに熾になり、闇の中で赤い点だけが残っていた。
客たちが来ていた。
潮。母の経。翁の節。都の鐘。あの人の声。同じ色をなさいます。いつもの客たちが、いつもの層で鳴っていた。轟きがすべてを混ぜていた。混ぜられた声たちは織物になって回った。その織物のいちばん底で。
扉が開いた。
押した覚えはなかった。七年、揺すられ続けた扉がその夜、音もなく緩んで、閃いた。
灯。
夜気。
あの人の顔。
唇が動く。
七年ぶりに、あの言葉が――
*
その夜、洞の闇の中で何が閃いたか。
それを、私は、書かない。
この七年を初めて語ると決めたとき、私はひとつだけ、書かないものを決めた。これがそれである。あの夜、都を発つ前のあの最後の夜に、あの人が私に何を言ったか。それだけはこの先も書かない。
書けない、のではない。
覚えている。一言一句、違えずに。声の高さも、息の震えも、言葉と言葉のあいだの間の長さも。忘れるという扉のない蔵は、あの言葉も蔵っていた。当たり前のことだった。当たり前のことが七年起きなかったのは、私が蔵のその棚の前に立たなかったからにすぎない。行が深まり、洞の轟きがすべてを混ぜ、立つまいとする力が尽きた夜に、蔵はただ、当たり前の仕事をした。
なぜ、書かないか。
あの言葉は、あの人のものだからである。私のものですらない。言われた言葉は言った人のものだ。あの人が生涯でただ一度、囲いの外へ投げたあの言葉を、あの人の許しなく世に置くことは私にはできない。許しを乞える人はもう、この世にいない。ゆえにあの言葉は私と共に消える。
それでよい、と思って四十年、生きてきた。
それでよいか、と問い続けて四十年、生きてきた、とも言える。唐の都でも、帰りの船の上でも、帝の御前でも、高い山の雪の中でも、あの言葉は蔵のいちばん奥の棚で、変わらずにそこにあった。私は生涯、幾万の言葉を書き、幾万の言葉を説いた。書かなかった言葉は、ただひとつである。この書は、その書かなかったひとつの言葉の周りを、八十四たび回る。回りながら、ついに書かずに終わる。
話を、あの秋の洞へ戻す。
*
閃きは一瞬だった。
だが一瞬で、七年が変わった。
男は誦の途中で止まった。声が出なくなった。喉ではなかった。喉は七年、どんな夜も回り続けた。止めたのはもっと深いところだった。胸の底のあの窪み、幼い日に潮の音が彫っていったあの場所が、七年ぶりに鳴り方を変えていた。
男は闇の中で座っていた。
誦は戻らなかった。かわりに問いが来た。七年、行の力で沈めてきた問いが、水底から順に浮かび上がってきた。浮かんだ問いは、轟きの中でも消えなかった。
この行は、何のためだった。
渇きの答えを探しに来た。覚え終わらないもの、囲いの外にも内にも属さぬもの、あの声の底にあるもの。その名を確かめに来た。七年、そう思ってきた。だがいま、閃いたあの言葉は問うていた。おまえの渇きの底に何があった。渇きが先にあったのか。それとも、あの言葉を聞いてしまったから、おまえは渇きに名を求めたのか。
同じ色、とあの人は言った。
恋と、道と。ひとつの渇きのふたつの顔だと、あのときは思った。思って、救われた。だが、ふたつの顔のどちらが顔で、どちらが素顔なのか。それを確かめずに山へ来た。確かめずに済むことが、山へ来ることの隠れた効能ではなかったか。
問いは、七年の行を根本から裂きかねない刃物だった。
*
翌る朝から、男は座に着けなくなった。
七年で初めてのことだった。雪の朝も、飢えの底も、翁を送った朝も、座には着いた。誦が細っても座は守った。その座に身体が向かわなかった。洞の口に立ち、額縁の中の明けていく景色を見た。上半分が白み、下半分が銀色に燃え始める、あのいつもの朝の額を。海鳥の声が、明けきらぬ額の外から聞こえていた。
美しい、と思った。
その思いの先に、顔があった。
この景色を、と思ってしまったのだった。この景色を、あの人に。囲いの中で、海を見たことがないと言った人に。波の音の話を聴くだけだった人に。この額の中身をひと目。
男は目を閉じた。
ただ、ひとつだけ止まらなかったものがある。
朝の、名の経である。海で死んだ者たちの名を乗せて出るあの読誦だけは、乱れた日々の中でも一日も欠けなかった。自分のための行は止まった。人から預かったものだけが残った。名を待つ人が浜にいる。約束はこちらの乱れとは関わりがない。声のない夜を過ごした男が、それでも夜明けには名の経だけを読む。その姿を洞の額縁だけが見ていた。
七年、この思いを伏せてきた。伏せている、という自覚さえ伏せてきた。行のためだと言ってきた。答えのためだと。渇きの名のためだと。全部まことだった。その下に、もうひとつあった。閃いたあの言葉が、いちばん下の蓋を開けてしまった。
乱れは幾日も続いた。
幾日も誰も座らない座の岩は、朝の冷たさのまま昼になった。誦しかけては止まった。座に着いては立った。七年、行が骨組みだった日々から、骨組みだけが抜き取られた。手はそれでも動いた。水を汲み、火を守り、磯のものを採った。手だけが七年の日課を、変わらぬ順で繰り返した。暮らしだけが、行の抜けた身体をかろうじて立たせていた。夜は長かった。闇の中で、うねりの間合いだけを数えた。轟きの底で、閃いた夜の続きが来るのを、それとも来ないことを、どちらを待っているのかも分からずに目を開けていた。
*
その日、浜で漁師と行き合った。浜には冬の近い、乾いた風が出ていた。引き上げられた舟が、砂の上で乾いていた。
漁師は男の顔を一目見て、貝を剥がす手を止めた。
「時化の顔じゃの」
「時化」
「海の時化じゃ、ない。あんたの中の時化よ」漁師はまた手を動かし始めた。「行者どのにも、時化は来るかね」
「……来ぬと、思うておりました」
「ふん。海はの、凪いどるときがいちばん、深いところが動いとるもんでの」
それから漁師は遠い水平線に目をやった。
「時化はの、行者どの。……過ぎるまで、舟を出さんことよ。過ぎん時化は、ないでな」
男は答えられなかった。漁師はそれ以上、何も問わなかった。剥がした貝をいくつか、男の手に載せた。貝は掌の中で、まだ潮に濡れて冷たかった。
*
夜が来た。
男は洞の口に座っていた。行の座ではない。ただの岩の上に、ただの男として座っていた。額の中の下半分が、闇の底で鳴り続けていた。潮の香が、夜気にまじって濃くなっていた。火の熾が、洞の奥で小さく赤らんでは沈んだ。誦はしなかった。
七年で初めての、声のない夜だった。
闇の中で、男は自分の両手を見た。見えない闇の中で、しかしはっきりと分かった。この手がいま、何をしようとしているか。閃いたあの言葉を掴んで、もう一度、蔵の奥へ押し戻そうとしている。七年、そうしてきた手つきで。慣れた、素早い、ほとんど自分に気づかせない手つきで。
その手を、男は初めて自分の目で見た。
七年、見ないでこられたのは、手つきがあまりに巧みだったからだ。巧みさはどこで覚えたのか。都の宴の如才ない笑いか。言いかけて言わない、あの回廊の作法か。見ないという務め、訊かないという務め。務めの数だけこの手は巧みになった。
押し戻すのか。
それとも。




