第39話 御厨人窟
岬は三日、男を拒んだ。
突端の岩の上は、行の座を据えるには風が強すぎた。立っているだけで体温を風が持っていく。崖の上の台地は水がなかった。湧きも沢もない。雨水を待つには岩が平らすぎた。崖の中腹の岩棚は、うねりの日に飛沫が届いた。塩をかぶる場所に書物は置けない。岬を三度めぐって、日はそのたびに海へ暮れた。夜は崖の窪みで、風をよけてまどろむだけだった。
山の目で探していたのだった。
風の当たらぬ窪み。水の便。乾いた床。七年の山暮らしが選び方を決めていて、その選び方に合う場所がこの岬にはひとつもなかった。海の行場は海の目で探さねばならないらしかった。だが海の目を、男はまだ持っていなかった。
四日目の朝、浜で漁師と行き合った。
*
老いた漁師だった。焼けた顔に深い皺。磯の岩の上で貝を剥がしていた。男の僧形を頭から足まで一度だけ見た。山の爺と同じ見方だった。
「行き場所を、探しとるんかね」
「はい。行を据える場所を」
「岬の上は、やめとき。風で心が削れる」漁師は貝を剥がす手を止めなかった。「崖の下に、穴がある。みくろど、いうての。昔から行者が籠る穴よ」
「みくろど」
「潮が満ちても水の来ん高さでの。奥は乾いとる。水は崖の岩の割れ目から細いのが垂れとる。ただしな」
漁師はそこで初めて顔を上げた。
「長続きした者は、おらん。ひと月でみな出ていきよる。波の音での。気が触れる、いうての」
*
崖下への道は岩伝いだった。
崖下への道は岩に足がかりを刻んだだけで、足を置く場所を目で選んで下りた。教えられたとおりに下りると、崖の根に洞が口を開けていた。思いのほか大きな口だった。人の背丈の三つ四つはある岩の口が、海に向かって開いている。中は広かった。奥行きがあり、床は乾いた砂と岩だった。天井は高く、奥へ行くほどすぼまっていく。岩の肌は乾いて、手を置くとほのかに冷たかった。岩の割れ目から水が糸のように垂れて、小さな窪みに溜まっていた。舐めるとわずかに岩の味のする真水だった。床の砂は昼も夜も、ほのかに潮の匂いを含んでいた。
住める、と山の目が言った。
男は洞の奥まで歩いた。暗さに目が慣れるのを待って、それから来た方を振り返った。
立ち尽くした。
洞の口が額縁になっていた。
岩の縁がぐるりと景色を切り取っていた。切り取られた景色の中に陸がなかった。浜も崖も歩いてきた道も、人の世の何もかもが額の外に切り落とされていた。額の中にあるものはふたつだけだった。上半分と下半分。上は果てなく高く、下は果てなく深く、ふたつは遠い一線で静かに接していた。一線の上を、時折、海鳥が小さく横切っていった。
世界が、ふたつに、減っていた。
男は長いこと動けなかった。ただ、額の中のふたつを、見ていた。
長く、山にいた。山の世界は、木々や沢や尾根の重なりで、いつも何かに縁取られていた。ここには、縁取るものがない。名を呼べば呼べる。だが男は、呼ばなかった。この景色には、まだ早い気がした。
額の中身は刻ごとに変わった。
朝は下半分が銀色に燃え、昼は上下が同じ青で溶け合い、夕は上半分が焼けて下半分がそれを映した。夜は額ごと闇になった。闇の中で下半分だけが鳴り続けた。月の夜は下半分に光の道がまっすぐに引かれた。光の道は、うねりのたびに崩れてはまた繋がった。同じ額の同じふたつのものが、一度として同じ顔をしなかった。
いつか、受け取り切れる朝が来るのだろう。
それまでは、名を知らぬままでいい。
*
洞の中は、音で満ちていた。
外の轟きが岩の口から入り、洞の天井と壁に反響して、低い絶え間ない唸りになる。腹の底に響く深い音だった。岩全体が、低く鳴る鐘の内側のようだった。初めの晩、男はその音の中で眠れなかった。二晩目も眠れなかった。気が触れる、と漁師が言った意味が分かった。音に隙間がないのである。山の夜は静けさの上に音が点々と乗っていた。ここは逆だった。音の海の底に自分が沈んでいる。目を閉じても開いても、轟きは同じ深さで続いた。
三晩目、男は眠ろうとするのをやめた。
やめて、聞いた。客をもてなす作法で。轟きは追い出せない。ならば来させる。腹の底に響かせるままに響かせる。そうして聞いているうちに、唸りの中に層があることが分かってきた。大きなうねりの周期。砕ける波の高い音。引く水の、砂利を転がす音。洞の奥で共鳴するいちばん低い音。幾つもの音が束になって、ひとつの唸りに聞こえていただけだった。層が聞き分けられた晩から、男は音の海の底で眠れるようになった。目覚めれば、床の砂に朝の光が浅く差し込んでいた。
誦を始めた。
最初の一遍で分かった。ここは谷とは違う。
谷は声を返してくれた。放てば応えが戻った。声と谷との往き来だった。洞は返さなかった。放った声は洞の反響と海の轟きの中に溶けて混ざって、どこからが自分の声でどこからが海の音か、分からなくなった。往き来ではなかった。合流だった。声は出た瞬間に、世界の音の一部になった。
あの、織物の朝と同じだった。
山では幾年に一度、疲れの底で訪れた朝。世界の全部が鳴り、自分の声が一本の糸になる、あの朝。ここではそれが常だった。誦すたびに声は織物に入り、織物の中で回った。
日課はおのずと定まった。暗いうちに一座、額の中身が銀に燃える刻に二座目、夕焼けが下半分に映る刻に三座目。合間に水を汲み、磯のものを採り、干し、火を守る。焚き火の薪は、浜に上がる流木で足りた。潮に洗われた流木は、白く軽く、よく燃えた。塩を含んだ木は、時折、焔の色を変えて燃えた。山の暮らしの骨組みに海の肉がついた。ひと月が過ぎた。長続きした者はおらん、と言われたひと月を男は越えた。漁師が貝を持って様子を見に来て、洞の奥の男の顔を見てひとこと言った。
「あんた、目が笑うとる。長う、もつ顔じゃ」
*
暮らしの算段は浜が教えてくれた。
漁師は山の爺と同じ手つきで海の知を分けてくれた。貝は月の満ち欠けで太る場所が変わる。岩海苔は冬が旬で、霜の朝のものがいちばん甘い。時化の前はうねりが先に来る。波頭は静かでも、うねりの間合いが伸びたら三日のうちに荒れる。洞の中の唸りでそれが分かるようになれ、と漁師は言った。山の知が場所と季節に埋まっていたように、海の知は月とうねりの間合いに埋まっていた。覚えることは、山と同じだけあった。
磯の貝、岩海苔、干せる海藻。漁師たちは時折、浜に上げた魚を分けてくれた。行者が近くに居着くことを、海の民は静かに喜んだ。そして山の民とひとつだけ違う頼みごとを持ってきた。
老いた漁師がある夕、洞の口まで来て言った。夕の海は凪いでいて、洞の口の外だけがまだ明るかった。波の音が、いつもより低いところで鳴っていた。
「頼みが、ある。朝の経にの、名を乗せてくれんか」
「名を」
「海で死んだ者の名よ。わしの倅での。……十年前の、時化で。骨も戻らなんだ」漁師は海のほうを見たまま言った。「海で死んだ者はの、墓がない。海がまるごと墓での。……あんたの経は、朝、海へ出ていくじゃろう。あれに、倅の名も乗せてやってくれんか。届くかもしれん、と思うての」
男は名を聞いた。頭の帳面がその名を深く刻んだ。忘れるという扉のない蔵が、こういうときはいちばん頼りになった。預かった名は一字も失われない。名を告げ終えた漁師は、長いこと海を見ていた。
翌る朝から、男の経は海の死者の名を乗せて出るようになった。頼みはひとつでは済まなかった。浜から浜へ話は伝わり、名は増えていった。時化で死んだ者。流された子。戻らなかった舟の乗り手たち。誰かのために置く声が、谷ではひとりのためだった。それが、幾十人になった。経は、名の重さのぶん深くなった。朝の声は、鉛色の海にも晴れた海にも、同じように出ていった。
*
男は定めた。
ここで満てる。
百万遍の残りの行程を、この洞で。数はあの白い頁以来、薄れたまま遠くで鳴っている。満てるとはもう、数の話ではないのかもしれなかった。洞の底は昼も暗く、灯明の火が横に揺れつづけた。風は、口から入って口から出ていった。それでも行には満ちる形があるはずだった。それをこの額縁の中で見届ける。洞の口の光は、その日も静かに満ちては引いた。
ただ、この洞にはひとつ、谷になかったものがあった。
すべての声を混ぜてしまう、あの轟きである。混ぜられた声の底から、時折、昇ってきてはならないものが昇りかけた。潮も母の経も翁の節も、あの人の声も、客としてもてなせる。だが、そのさらに底に――七年、扉の向こうに眠らせてきたものが、轟きに揺すられて身じろぎを始めていた。
夜の洞で、男は時折、目を開けた。
闇の中で、海だけが鳴っていた。




