第38話 室戸へ
谷が、先に、知っていた。
五年目の夏の、ある朝である。いつものように誦し、いつものように谷が応えた。応えの底が違った。五年ちかく、幾十万遍を受け取り続けた谷が、その朝初めて、受け取りながら返してこなかった。返す代わりに、預かったものごとそっくり男に持たせてくるようだった。
育て終えた子を送り出す親の、手の離し方だった。
気がする、だけのことである。だが、七年谷と行をしてきた男の「気がする」は、もうただの気のせいではなかった。足の裏が土の湿りを読むように、耳は谷の応えの底を読む。谷は言っていた。ここで教えられることは教え終えた、と。
その朝から、男は考え始めていた。
考えの背を押したのは、煙だった。
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数日ののち、遠い尾根の煙が三度に途切れた。
一度。間。二度。間。三度。里に手が入った。それだけならいつものことである。だが、翌日も煙は三度に途切れ、その翌日も途切れた。三日続く合図を、男は初めて見た。煙は上がるたび、夏空に薄く滲んで消えた。夕方、爺が上ってきた。汗と、いつにない早足で。
「今度のは、本気じゃ」
新しい国司の手の者が、山裾の村々を順に洗っているという。浮浪の括りではなかった。探しているのはひとりだった。村の入口に人が立って、通る者の顔をひとつずつ見ているという。笠を取らせるのだという。
「書の主を探しとる。南都の僧が頭を下げた山伏、いうやつをの。国司さまが、都の生まれでな。あの書の噂を都で聞いとったらしい。会うてみたい、が半分。得体の知れん人望が目障り、が半分。どっちにしても、探す理由には事欠かんわの」
「山の衆に、累は」
「まだ、ない。じゃがの」爺はそこで言葉を切った。「山狩りが長引けば、炭も薬草も里に下ろせん。窯の煙も立てにくうなる。おまえさんを売る者はおらん。おらんがの、売らんで庇うた、いうことになれば、それはそれで罪での」
爺は、それだけ言って草鞋の先で小石をひとつ転がした。転がした先を、また足で戻した。
男は頷いた。夕の谷に、鳥が一声鳴いて渡った。
居ることが、山の危険になった。山に借りて生きてきた男に、山へ返せるものは、もう去ることだけだった。岩屋の壁の、火に煤けた高さを、男は目で測った。
「爺どの。行き先は、決めております」
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行き先は、谷の応えが変わった朝から胸の中にあった。
翁の言葉である。焚き火の夜、渡り三十年の行場を数え上げた中に、それはあった。四国の辺地はな、海ぞいにぐるりと行場が連なっとるんじゃ。辺地を打つ、いうての。歩いても歩いても、片側はずっと海よ。ほいでな、いちばん果てに岬がある。土佐の、室戸いう岬じゃ。海の際に突き出た、行者の行き着く果てよ。わしは風の強い日に行き合わせて、三日で逃げた。あすこはな、真言の――山より、深いぞ。
その一言を、頭の帳面は幾年も蔵っていた。谷が教え終えたのなら、次の行場は、谷より深いところだ。海の際。行者の行き着く果て。
室戸。
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別れの儀式を、男はひとつずつ済ませた。
初めに、翁の墓へ行った。谷ふたつ向こうの日当たりである。驚いたことに、骨の上の熱冷ましの根は株を殖やしていた。爺の植えた一株が三株になり、若い葉を風に揺らしていた。薬の下の人は、薬を殖やしていた。男は八巻から数葉を、翁の節で読んだ。読み終えて告げた。
「行って参ります。あなたの言われた、果ての岬へ」
風が、薬の葉を揺らした。返事はそれで足りた。日当たりの土は乾いて、あたたかかった。
次に、岩屋を掃いた。
三度目の掃き納めである。七年前は百日の客として掃いた。五年前は、戻る約束を場所に残して掃いた。今度は、約束をしなかった。この岩屋はもう自分のものではない。次の誰かのためのものだ。嵐の夜に翁の岩屋が翁を待っていたように、この岩屋もいつか、雪の夜の誰かを待つだろう。棚石を空にして、雨受けの竹だけは直して残した。水は、誰が来ても要る。直したばかりの竹を、風が軽く鳴らした。掃き終えた岩屋は、七年前の朝より広く見えた。
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山の者たちへの別れは短かった。
炭焼きの窯に寄ると、炭焼きは窯の火を見たまま言った。
「……行くか」
「はい。世話になりました」
「なっとらんわ。炭を買うてもろうただけよ」
炭焼きは、それきり口をつぐんだ。倅は黙って、草鞋を三足差し出した。自分で編んだものらしく、編み目が武骨で固かった。長旅の者に、これほど効く餞別はない。
「姉さまへの文、書いてもろうた礼じゃ」
「三足もいただくほどの字では」
「辺地は長いんじゃと」倅はそっぽを向いた。「……草鞋がいちばん、減るんじゃと」
爺は里はずれの道まで送ってきた。薬の包みを行李に押し込んだ。中身は言わなかった。言わなくても分かった。熱冷ましの根。傷の葉。血止めの苔。翁の薬と爺の薬の両方が入っているのだろう。包みは、行李のどれよりも軽かった。
「達者での」
「爺どの。七年、あなたがおられなければ」
「よさんか。山の者は山の者の話をしただけよ」爺は遮って、それから少しだけ目を細めた。「答えが出たらの。風の便りでええ。聞かせえ。里の年寄りどもも、あの声の行く末を知りたかろうでな」
約束の受取人が、またひとり増えた。
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出立の朝、男は最後の一遍を谷に置いた。
七年前の夕暮れ、名乗りの一遍を置いた同じ座である。今日のは名乗りではなかった。礼だった。七年ぶんの礼を一遍に込めた。谷は受け取って、幾重にも返してきた。座を立つとき、組んでいた足が、すぐには伸びなかった。最後の響きの最後のひと揺れまで、男の耳は聞き取って蔵った。全部、持って行く。
響きが消えると、男は座を立った。棚石は空で、火は埋め尽くし、岩屋は掃き清められている。七年住んだ場所が一刻で、誰のものでもない場所に還っていた。男は深く一礼して、振り返らずに山を下りた。背中で、谷の水音が遠くなっていった。尾根をひとつ越えるたびに水音は薄れ、夏の蝉の声がそれに替わった。
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辺地の道は長かった。日に何度も、道が浜へ下りて、また山へ上がった。潮の匂いが強くなり、薄くなり、また強くなった。
阿波の海ぞいを南へ。生まれて初めて見る外の海だった。讃岐の海は穏やかな内海である。島々が浮かび、潮は寄せて返し、夜通し子守歌のように鳴った。この海は違った。島がない。水平線がまるく遠い。色は黒に近い青で、底の知れない深さが色そのものに出ていた。男は知らず、一歩、退いていた。
音が違った。
寄せて返す、ではなかった。轟き、だった。沖からの大きなうねりが岸の岩に当たって砕ける、地鳴りに似た低い音が、絶え間なく大地の底を震わせていた。潮の音を数えて育った耳が、その音を数えられなかった。寄せると返すの、境がなかったのである。
男は歩きながら、その音を聞き続けた。
夜、浜の岩陰で眠ると、その轟きは地面を通って、背中から身体に入ってきた。眠りの中でも鳴りやまなかった。ふた月も歩くうちに、男は気づいた。この音は耳で聞くものではない。骨で聞くものだった。
浜の砂は讃岐より黒く、粒が粗かった。踏むたびに、足の下で鈍く鳴った。
夏の日が照りつけた。汗が、乾いては噴いた。草鞋が一足減った。編み目の固い草鞋は、倅の言った通りによく保った。行場から行場へ、辺地は海ぞいに連なっていた。岩屋に泊まり、浜に泊まり、堂の軒を借りた。夜ごとの宿は変わっても、轟きだけは同じだった。
土地の行者と行き合うこともあった。互いに深くは問わなかった。どこへ、とだけ問われ、果てへ、と答えると、相手は頷いた。果て、で通じる場所が、その道の先にあるのだった。
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夏の終わり、陸が尽きた。
ずっと右手にあった山が、やがて退き、道が細い岬の背に絞られていった。左右から、あの轟きが迫ってきた。風が強くなった。木々が、風の形に傾いて生えていた。岬の草は短く、地を這って伸びていた。塩に灼かれて白くなった枯木が、点々と立っていた。道連れは、頭上を旋る海鳥の声だけになった。
そして、岬の突端の黒い岩の上に男は立った。
室戸崎である。
ここから先には道がなかった。三方が海だった。うねりが眼下の黒い岩々に、砕けては白く散った。散った飛沫が風に千切れて、崖の上まで届いた。頭上には、夏の終わりの、高い天があった。振り返れば、歩いてきた陸が細く遠かった。
山より、深いぞ。
山は囲ってくれた。谷は応えてくれた。ここには囲いも応えもない。轟きと風と、絞られた細い陸だけがある。
風の音の底で、何かが呼んでいた。
岬はまだ、男を迎えてはいなかった。行場を探さねばならない。この剥き出しの果てで、行を据える場所を。岬の岩は谷の岩より粗く、草鞋の底に噛んだ。踏むたびに、細かい音が鳴った。男は笠の紐を締め直した。




