第37話 混じる声
初めの客は、潮だった。
山の上で五度目の春を迎えた、風のない朝である。誦を終えて水を汲みに立ったとき、男はそれを聞いた。低い、谺のような、寄せては返す音。夜通し休まぬ、あの音。讃岐の浜の潮騒だった。
ありえなかった。ここは阿波の山また山の奥、海まで幾つの尾根を越えるか、数えるのも億劫な山中である。男は立ち止まり、耳を澄ました。谷の水音があった。風はない。鳥の声。その全部の下で、潮が鳴っていた。
説明はいくらでもついた。
飢えの冬が耳の何かを変えた。五年の独居が耳の飢えを深くした。谷の水音の低いうねりを、耳がいちばん古い水の音に聞き違えている。どれも正しいのだろう。男はその全部を自分に言い聞かせた。言い聞かせ終えても、潮は鳴っていた。水を汲み終えて座に戻る頃、いつのまにか引いていった。
説明しても、聞こえるものは聞こえるのだった。
*
客は、それから増えていった。
潮の上に、母の経が乗った。四つの朝の、あの口移しの一節が、潮の調子に合わせて聞こえた。それはまだ分かる。自分が幾万遍も胸の内でなぞってきた声だ。耳が飢えて、蔵の奥から勝手に持ち出してくるのだろう。
大学寮の朝の鐘も来た。客はたいてい朝の澄んだ耳に来て、日が高くなる前に帰っていった。日が高くなれば、谷はまた生きた音だけに戻った。
父の声も一度だけ来た。声というより字だった。息災か、の、あの四角い字が、なぜか声になって聞こえた。読んだことしかない字が、聞いたことのある声で鳴る。耳というものの蔵の広さに、男はあらためて驚いた。蔵っているのは、聞いた音だけではなかったのだ。
驚いたのは、翁だった。
ある朝、誦を終えて八巻を読もうと開いたとき、谷ふたつ向こうから経が聞こえた。低く入って、ゆっくり持ち上げる、あの節回し。あの、渡りの声。男は経本を持ったまま、長いこと動けなかった。それから耳を疑い、疑うのをやめた。
考えられることは、ふたつあった。二年のあいだ朝ごとにあの谷で鳴った声を、谷の岩々が覚えていて、何かの加減で返している。あるいは自分が二年、翁の節で読み続けたから、自分の声の記憶が翁の声ともう区別がつかなくなっている。
どちらでも同じことだった。あの声はこの山に、まだあった。それだけがたしかだった。男は聞こえてくる節に、自分の声を重ねて読んだ。谷ふたつ向こうとこちらと、ふたつの声で読む朝がまた戻った。片方はたぶん、この世の声ではなかった。それがどうした、と思った。その朝の谷の応えは、常より長く尾を引いた。
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あの人の声も来た。
あなたの目は、わたくしを見るときと、あの経を聴くとき、同じ色をなさいます。
回廊の声が、谷の声の底で鳴った。五年前とすこしも変わらない、低く澄んだ声で。男は振り払わなかった。とうに決めてあることだった。誦を続けながら、聞いた。
声はそれ以上、進まなかった。
あの夜の声は、来なかった。来る前に、身体のどこかが扉を閉めるのか。それは男自身にも分からなかった。ただ、谷の声の底で時折、何かの輪郭が昇りかけて沈んだ。昇りかけるたび、誦が一瞬揺れた。揺れて、また戻った。谷の水音だけが、変わらずに底を流れていた。
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もてなし方を、男はもう知っていた。
数との付き合いが教えていた。敵として扱えば戦になる。戦になれば、戦っている自分が座に居座る。追い出そうとした声は、追い出そうとするほど大きくなる。それは、数を殺そうとして五たび敗れた四年前に、男が身体で覚えたことだった。
だから、客は来させた。
潮は潮のままに鳴らせておいた。母の経が来れば、胸の内で共に唱えた。翁の節が来れば、聞いて頷いて、自分の読みを重ねた。都の鐘は、鳴り終わるまで待った。あの人の声だけは、少し居ずまいを正して聞いた。
そうして遇していると、客たちは暴れなかった。来て、鳴って、帰っていった。岩屋の隅の水滴が、聞き慣れた間隔で落ちた。岩屋の暮らしは、静かなままにぎやかになった。
ある朝、客が全員来た。
夜明けの座だった。潮の上に母の経が乗り、その上に翁の法華が渡り、都の鐘が遠くで打ち、あの人の声が回廊の灯のように点り、谷の水音がすべてを支え、その真ん中で自分の真言が回っていた。世界の全部が鳴っていた。どの音も他の音を消さなかった。折り重なって、ひとつの大きな織物になっていた。自分の声は、その織物の中の一本の糸だった。一本の糸であることが、これほど静かで、これほど広いとは。
錯覚かもしれなかった。それにしては、隅々まで正確に過ぎた。
その朝の誦が終わると、客たちは潮の引くように順に鳴りやんだ。あとには、いつもの谷の水音だけが残った。岩屋の口には、春の朝の光がもう差し込みはじめていた。男はしばらく座を立てなかった。いま聞いたものをどう呼べばいいのか、持っている言葉のどれも届かなかった。届かないことが、うれしかった。探しに来たものの裾に、触れた気がした。
*
だが、恐れも同じ春に来た。
昼、岩屋の下から、足音と呼ぶ声がした。男は火の脇に座ったまま動かなかった。よくできた客だ、と思って聞いていた。足音は本物そっくりに砂利を鳴らし、声は本物そっくりに、坊さま、坊さま、と呼んだ。感心して聞いているうちに、倅が岩屋の口から顔を出した。
「おるなら、返事してくれんか」
本物だった。筍を届けに来たのだった。籠の筍は掘りたてで、まだ土の匂いをまとっていた。
倅は筍の入った籠を下ろしながら、無遠慮に男の顔を覗き込んだ。
「坊さま。近ごろ、目が遠いぞ」
「遠い、とは」
「山の猟師が、ひとり、そういう目になった。山の奥ばっかり見とる目よ。たまには里の方も見とけ」
男は詫びた。詫びながら、背中が冷えた。幻を本物と間違えることは恐くない。本物を幻と間違えはじめたとき、人はどちら側にいるのか。
幻の中で、自分の輪郭を保つ杭は何か。家の者なら家がある。里の者なら田と名がある。呼ばれる名が、人をこちら側に留める。岩屋の壁に手をついた。岩は、いつもの冷たさで返してきた。だが、男には名がなかった。捨てた名は遠く、来る名はまだ来ない。名のない男は、輪郭を保つ杭をひとつ持っていないのだった。
*
爺に、その話をした。
隠すことではなかった。山で長く生きる者の、先達の知恵が要った。爺は筵に薬草を広げながら、こともなげに聞いていた。日なたの筵から、乾いた薬草の匂いが立っていた。
「山に長うおる者はな、ときどき、ああなる」
男は口をつぐんで、先を待った。
「山に、溶ける。人の声より、山の声のほうが近うなる。里に下りても、目が遠いままでの。……そのまま、還らんかった行者を、わしはふたり知っとる」
爺は薬草の束をひとつ結わえた。結わえる手つきは、話の中身に不釣り合いなほど穏やかだった。
「じゃが、おまえさんは、まだこっち側じゃ」
「……なぜ、分かります」
「わしの顔を見分けとる」爺は初めて顔を上げた。「倅を幻と間違えた、いうがの。間違えたと気づいたろうが。気づいて詫びたろうが。溶けた者はな、間違えたことにも気づかん。詫びもせん。気づいて、冷やりとする。その冷やりが、こっち側のしるしよ」
男はその言葉を胸に刻んだ。そして、自分をこちら側に繋いでいる杭をあらためて数えた。懐の文は、折り目のところが薄くなっていた。棚石の、三巻と八巻と写しの写し。山の者たちの顔。そして、答えを持って、来ます、というあの約束。
名のない男を、名の代わりに約束が繋いでいた。
*
春の終わり、爺がまた上ってきた。薬草の用ではなかった。手ぶらで上ってくる爺を、男は初めて見た。
「妙な風向きでの」
爺は座らずに、岩屋の口に立ったままだった。手に持つものが何もなかった。
爺の草鞋は片方の緒が切れて、蔓で縛ってあった。爺は里の話をした。国司がまた替わるという。それだけなら、いつもの帳面騒ぎで済む。だが、今度は少し違った。
「南都の僧さまがこの山の私度を訪ねた、いう話が、国府で妙な尾ひれをつけて回っとるそうな。山に、都の偉い僧が頭を下げに来るほどの何者かがおる。そういう話に、なっとる」
書の主の噂が、山を追ってきた。今度は都の言葉ではなく、国府の耳として。
「偉い僧が頭を下げる山伏、いうんはの」と爺はゆっくり言った。「里の者にはありがたい話じゃが、帳面を持つ衆には放っておけん話での」
爺はそれだけ言って、いつものように下りていった。男は暮れていく谷を長いこと見ていた。夕の光が、尾根から順に色を失っていった。暮れきった谷底から、夜の涼気がゆっくりと上ってきた。山に入って五たびの春、この谷と生きてきた。谷は逃げない。だが、その谷から離れなければならない日のことを、男はその夕、初めて考えた。




