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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第4章 山の七年
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第36話 飢えの冬

 その冬は、初雪から違っていた。


 兆しは秋からあった。夏の長雨で、山の実りが乏しかった。栗は小さく、椎は少なく、干せる根も例年の半分ほどしか掘れなかった。拾い集めた栗を筵にひろげると、去年の半分の広さにしかならなかった。貯えの薄さを男は知っていた。知った上で、いつもの冬支度に上乗せをして備えた。それでも足りなかった。山がくれる年と、くれない年がある。その年は、くれない年だった。


 雪が早すぎた。


 初雪が根雪になり、根雪の上に大雪が重なった。沢は音を失って凍り、踏み跡どころか地面そのものが消えた。遠い尾根の窯の煙は降り続く雪雲に呑まれて、もう幾日も見えていない。合図は来ない。来ても見えない。山の互助は、雪の深さまでは届かなかった。岩屋の口から見えるものは、白い谷と白い空と、その曖昧な境だけになった。


 男は岩屋の中で独りになった。助けの手の届く距離の、外にいた。


  *


 初めにしたのは勘定だった。


 干飯が袋に三分の一。栗と椎の実が笊にふた盛り。干した根と塩が少し。それを春までの日数で割る。頭の帳面が音を立てて働いた。一日二食ならひと月半。一食なら三月。春の雪解けまでは、どう短く見ても三月半。囲炉裏の火が、はぜてひとつ鳴った。


 数える頭は、こういうときのためにあるのだった。


 男はその皮肉に口の端だけで笑った。いつもは持て余す正確さが、この冬ばかりはありがたかった。数が分かれば手が打てる。男はその日から一食にした。焚く火は小さくし、無駄な動きを削り、それでも誦だけは日々の柱に残した。命を細く細く燃やす冬が始まった。


  *


 飢えは、身体から順に削っていった。


 初めのひと月は腹が鳴った。次のひと月は鳴らなくなった。腹より先に、寒さが変わった。着るものの下に、皮の下にあったはずの何かが薄れて、寒さが骨にじかに届くようになった。立ち上がると目の裏が白く翳んだ。薪を割ろうとして手が滑り、斧の刃が雪に埋まった。爪の色が変わった。水を汲みに立つだけで、息が上がるようになった。


 誦は続けた。


 声は日ごとに細くなった。谷に届く日と届かない日ができた。届かない日は口の中で回した。囁き誦は行を痩せさせると、あの夏に知った。いまは違った。痩せた身体の痩せた声が、それでも回り続けることだけが行だった。太さではなかった。続いていることがすべてだった。岩屋の外では、雪が音もなく積もり続けていた。


 そしてあるとき、男は気づいた。


 日が分からなくなっていた。


 帳面を繰った。雪籠りから幾日目か。数えているはずだった。数えていた。だが、どこかで一日抜けていた。あるいは重なっていた。もう一度、指を折って数え直した。やはり、合わなかった。確かめようにも、確かめる相手がいない。雪の白と岩屋の闇の繰り返しの中で、生まれてこのかた一度も狂わなかった帳面が初めて数え間違えた。


 眠りと目覚めの境が、曖昧になった。火の中に、見知った顔が見える日があった。誰の顔かは、見きわめる前に消えた。雪の落ちる音が遠くの足音に聞こえる夜があった。耳を澄ますと、ただの雪だった。


 男は長いこと、その狂いを見つめていた。


 立ち上がるとき、目の前が一度暗くなった。手をついて、やり過ごした。恐ろしくはなかった。むしろ、静かな驚きだった。狂わないはずのものが狂う。帳面の字が薄れていく。墨の尽きた筆で書くように。数は消えはしない。ただ、書く力が弱っていく。


  *


 いちばん深い底はたぶん、雪籠りのふた月目のある朝だった。


 たぶん、というのは、その朝が何日目だったかもう誰にも分からないからである。


 男は座に着いていた。着いたことも覚えていない。誦していた。誦しているとも思っていなかった。息と声の境が崩れていた。空腹はとうに感覚ではなくなり、寒さと身体の境も崩れていた。谷は雪の下で鳴らず、世界は静かで白かった。岩屋の口の明かりだけが、朝であることを教えていた。


 白が、来た。


 帳面が白くなった。ふいに、だった。あの夏のように待ち伏せてはいなかった。待ち伏せる力さえなかった。だから、来た。声だけがあった。誰の声ともつかない、細い、それでも回り続けている声。その白の中で、何かが聞こえた気がした。遠く、たしかな、ひとつの音だった。


 いや。聞こえたのはたぶん、自分の心の臓の音だった。


 弱った耳が身体の内側の音を拾ったのだ。そのささやかな一打が、その朝はこの世でいちばんたしかな音だった。生きている音の上で声が回っていた。数はなかった。


 白は幾拍かで去った。短く、そのぶん底の見えない白だった。


 だが――


 数字が戻らなかった。


 あの夏は、九万をいくつ、と力が几帳面に埋め直した。今朝は違った。白のあった場所が白いまま残った。帳面に、数の書かれていない頁が一頁挟まった。その頁のあたりを、指がなぞる癖がついた。頭はそれを埋めなかった。埋める力が、もう、なかった。ただ、生まれて初めて、あの帳面に白い頁があった。


  *


 貯えの勘定が春に届かなくなったのは、その数日後だった。


 薄れた帳面でも、その勘定だけはできた。残りを最も細く延ばしても、雪解けの前に尽きる。雪を漕いで里へ下りる体力はもうない。座して待てば、尽きる日が来る。干飯の袋を持ち上げると、底のほうで音がしなかった。


 死ぬるのが、負けじゃ。


 沙門の声が耳の底で鳴った。負けるな。では、どう勝つ。貯えは尽きる。ならば、貯えの外だ。


 山に借りるのだ。


 翁の声がそれに重なった。冬の山で食えるもの。三十年ぶんを教えとく。あの秋の伝授の中にあったのだ。薬の在り処と一緒に、飢えたときの知が。松の皮はな、外の鬼皮を剥いで、内の甘皮を食う。囲炉裏で炙って、叩いて、粥に混ぜる。葛の根は雪の下でも掘れる。蔓の枯れ姿を、秋のうちに覚えておけ。


 覚えていた。


 一言も欠けずに。数の帳面は薄れても、手と足で覚えたものは薄れなかった。教わったのはたった一度、あの秋の山歩きの道々だった。翁は教えながら笑っていた。使う日が来んのが、いちばんええがの、と。使う日が来たのだった。囲炉裏の灰の中で、埋み火がかすかに赤かった。


 あの頭が、翁の言い回しごとそっくり蔵っていた。蔓の枯れ姿の場所も頭の絵図にあった。男は震える手で杖を握り、雪を掘り、松の幹に取りつき、鬼皮を剥いだ。甘皮を炙り、叩き、干し根の残りと煮た。葛の根を雪の下から掘り当てた。うまくはなかった。甘皮は筋張って、噛むそばから口の水気を奪った。葛の根は、凍った土の下から掘り出すのに半日と残りの力の半分が要った。それでも腹に入った。入ったものが、明日の掘る力になった。掘った跡の雪穴が、岩屋の周りに少しずつ増えていった。


 山の者は、山の者に、渡すんじゃ。あの言葉の意味が、雪の底で、分かった。


  *


 雪が緩んだのは、それからさらにひと月ののちだった。


 沢の音が氷の下で戻った。軒の氷柱が昼のうちに緩んで、ぽたりぽたりと落ちはじめた。ある昼、谷の下から、雪を漕ぐ音と荒い息が上ってきた。倅だった。背負い籠に米とひしおと干し魚を負って、腰まで雪に埋まりながら上ってきた。息が白い塊になって、肩の上で千切れていた。


「生きとるか」


 岩屋の口に立った男を見て、倅はその場にへたり込んだ。


「……生きとった。ひでえ顔じゃが、生きとった」


「そちらは」


「みな無事よ。里は山ほどは降らんでな。親父が、あの雪じゃ上の坊さまは春には骨じゃ、と。雪の緩むのを待って待って、待ちくたびれたわ」


 倅は米を置いた。男は深く頭を下げた。倅は照れてそっぽを向いた。それから、岩屋の中の、囲炉裏の脇の炙った松皮の残りに目を留めた。


「松の皮、食うとったんか」


「翁どのに、教わりました」


「そうか」倅はそれだけ言って、しばらく黙った。「……あの爺さま、死んでも、人を食わせとるんじゃな」


 囲炉裏の松皮が、じりじりと縮んで、白い灰になった。


  *


 春の入り口、痩せ細った男はいつもの座に着いた。岩屋の前の雪は日ごとに痩せて、土の黒が斑に覗きはじめていた。


 骨の浮いた膝を組み、細いままの声で誦した。谷が、雪解けの太い水音の底から応えた。誦しながら、男は帳面を見た。数はあった。戻っていた。身体が戻るにつれ、帳面の墨も濃さを取り戻していた。だが、あの頁だけは白いまま、あった。数の帳面のまんなかに、数の書かれていない頁が一頁、挟まったまま消えなかった。


 数のほうが、先に飽きるわい。


 翁の言った通りに、なりつつあった。数はまだある。あの白い頁だけが、なんの数字も持たぬまま、そこにあった。


 ただ、あの冬からひとつ変わったことがあった。


 耳だった。飢えの底で身体の内側の音を拾った耳が、雪が解けても元に戻らなかった。聞こえないはずのものが、聞こえた。

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