第35話 選び直す
四度目の春、雪解けの山に思いがけない客が来た。
谷の水は日ごとに嵩を増し、岩屋の前の雪も檜の根方に残るばかりになった頃である。知らせを運んできたのは爺だった。息を切らせて岩屋まで上ってくると、いつになく低い声で言った。
「里の堂に僧が来とる。南都から、じゃと」
「南都から」
「目代の手の者ではない。それは確かめた。じゃがの、おまえさんを訪ねてきた僧じゃ。名指しではない。名は知らんようじゃった。あの山におる書の主に会いたいと、そう言うとる」
書の主。
男は薪割りの手を止めた。斧の刃に、割りかけの木の繊維が白く立っていた。帳面の外に隠れて四年。山の者にすら来歴を語らず、真言の、とだけ呼ばれて生きてきた男を、都の言葉が山の裾まで追ってきた。逃げてきた縄ではなかった。自分の書いた言葉が自分を探しに来たのだった。
*
里の堂で若い僧が待っていた。堂の軒からは雪解けの雫がひっきりなしに落ちて、土間の際に小さな穴を穿っていた。
旅塵にまみれてはいたが、身ぎれいな目の澄んだ学僧だった。写経で節くれた指をしていた。男の姿を見ると立ち上がり、深く礼をした。私度の山伏に南都の僧が頭を下げたのである。
「お会いできました」
僧は笈から、布に包んだものを大切そうに出した。三巻の書物だった。見覚えのある書物で、見覚えのない筆跡だった。紙は上等で、巻の軸も新しかった。手に持つと、自分の書いたものより重かった。
「あなたの書の、写しの写しにございます。都でこれを読みました。三教の優劣をあのような生きた人の姿で説いた書を、私は他に知りませぬ。亀毛先生の説くところで背筋を正し、虚亡隠士に肝を冷やしました。仮名乞児の段に至って、恥ずかしながら泣きました。作者を探して阿刀大足さまを訪ね、風に訊けと言われ、風の噂をここまで辿って参りました」
男は写しの写しを手に取った。
自分の言葉が知らぬ人の手で丁寧に写されていた。誤字がひとつあった。写した者の癖が撥ねに出ていた。読み込まれたらしく、紙の角が丸くなっていた。書は、書き手を離れて、生きていた。
「御用の向きは」
と男は訊いた。僧は居住まいを正した。
「山を、下りられませぬか」
*
僧の申し出はこうだった。
南都の師僧に推挙する。しかるべき寺で学び、得度し、戒壇で受戒して、度牒を得て正規の僧となる道が開ける。あなたほどの学識と文才が山で朽ちるのは法の損失である。僧は、そこまで一息に言った。言い終えて、膝の上で指を組み直した。
「度牒があれば、あなたはもう罪人ではない。堂々と経を講じ、書を著し、人を導ける。南都の経蔵も開かれます。山では読めぬ経が幾千巻とある。あなたが書で最上と定めた、その仏の教えの深みへ。書物の淵が、あなたを待っています」
男はすぐには答えられなかった。堂の外で、鵯が短く鳴いた。
「……三日、いただけますか」
*
誘いは、あらゆる場所を突いてきた。
岩屋に戻った男はその夜、火の脇でひとつずつそれを数えた。火は小さく、風は梢の高いところだけを渡っていった。谷底では雪解けの水音が夜通し鳴っていた。
罪人でなくなる。煙を隠し、踏み跡を消し、目代の帳面に怯える日々が終わる。風向きを気にせず声を放てる。
経蔵が開かれる。幾千巻。読んでいない経が幾千巻。書物の飢えは四年の山暮らしでも消えてはいなかった。あの書物の奥に、まだ見ぬ深い経があるかもしれない。この渇きの名をもっと正しく呼ぶ言葉が。
大足に会える。老いた、と風の便りにも聞かぬまま四年が経った。あの廊下の足音に、生きているうちにもう一度。
男は懐からあの文を出した。四年の山暮らしで紙は柔らかくなり、折り目は毛羽立っていた。灯がなくとも、文面は頭の中にある。風の行く先を見ておる、あの目に、自分から会いに行ける。それは、どれほどのことだろう。
そして――
男は火から目を上げた。闇の奥に、都の方角があった。稜線が、そこだけ黒く盛り上がって見えた。
あの寺に参れる。僧として。堂々と。山門をくぐり、回廊を歩き、堂に灯の入る刻限に砂利を踏める。今度は足音を殺さずに。
男は、思い描いた。夕暮れの回廊。灯を持つ人影。足音に振り向く。もう四年になる。四年ぶんの銀があの人の髪にもまじっているだろう。それでも、あの耳はきっと一歩目で分かる。
会える身分に、戻れるのだ。
その一点が、他のすべてを合わせたより重かった。
*
答えを出したのは男ではなかった。
朝の行が出した。
三日目の夜明け、男はいつものように座に着いた。東の稜線が白み、谷底の闇が薄れていく刻限である。真言を谷へ放った。谷が応えた。誦し終えて八巻を開き、数葉を翁の節で読んだ。低く入って、ゆっくり持ち上げる。谷ふたつ向こうの、日当たりの下の人へ。届く証のない声を今朝も置いた。白い息がひとつ、夜明けの中へ消えた。
置き終えた静けさの中に、答えがあった。
答えを持って、来ます。あの秋の夕、寺の門前でそう誓った。あの誓いの「答え」とは、度牒のことではなかった。位でも身分でもない。この渇きの、答えのことだった。
いま戻ればどうなるか。
答えを持たずに、身分だけを持ってあの回廊に立つことになる。あの人は笑って迎えるだろう。おかえりなさいませ、と言うだろう。そして二人はまた、あの日々に戻る。十日に一度の参詣人の日々に。焔ひとつぶんの距離の、美しくて終わりのないあの宙吊りに。あの人をまた待つ人にする。何を待つのかも言えないままに待たせ続ける。
あの人がいま囲いの内で何を守っているのか、男は知らない。知らないままに、しかし確信していることがひとつあった。あの人は途中の男を見送ったのではない。答えを聞きに行く男を見送ったのだ。行っておしまいなさい、の「行く」は山までではない。答えまでである。途中で戻れば、あの見送りを中途で折る。
位の岸の作法で、谷の用は果たせない。
度牒は、位の岸の切符だった。ありがたく、まっとうな。だが、この谷の答えは、そこにはなかった。
*
男は山を下り、里の堂で僧に頭を下げた。
「ありがたいお話でした。……お受けできませぬ」
僧は長いこと黙っていた。怒りの沈黙ではなかった。遠くまで来た足の疲れをいま初めて感じているような、それでも理解しようとする沈黙だった。
「理由を伺っても」
「行が、途中にございます」
「行なら南都でも」僧は身を乗り出した。「経蔵には、あなたの行の、その虚空蔵求聞持法の次第の書もある。学と行と、両つながら深める道が」
「その道の尊さは分かります」男は静かに言った。「ですが、私の行の答えは書物の中にはないのです。それだけは四年かけて分かりました。この山の谷が、まだ私を放しませぬ」
「放しませぬ、とは」僧は食い下がった。学僧らしい誠実な食い下がり方だった。「行はあなたがなさっているのでしょう。谷が何を」
「四年前なら私もそう申したでしょう」男は少し笑った。「いまは、こう申すほかない。この行は私と谷とでしております。片方の都合ではやめられませぬ」
僧は目を瞬いた。
「では、何のために行を。何を求めて」
男は少し目を伏せた。それから答えた。
「まだ、言葉になっておりませぬ。言葉になった日には、必ず都に届きましょう。あの書があなたのもとへ届いたのと同じ道を通って」
僧はその答えをしばらく噛んでいた。やがて、ふ、と息をついて笑った。
「あの書の作者の、答えです」
*
僧は発つ朝、写しの写しを置いていった。よく晴れた、風のない朝だった。軒の雫はもう止んで、日は堂の奥まで差しこんでいた。
「原本はあなたの行李の中と伺いました。ですが、これは都で生まれた、もうひとつのあの書です。都があなたをどう読んだか、その証に。お納めください」
男は受け取った。棚石の原本の三巻の隣に、写しの写しが並んだ。同じ言葉で違う筆跡の二組の書物。翁の八巻と合わせて、棚石はいつのまにか小さな経蔵になっていた。
僧を里はずれまで送った帰り、爺と行き合った。山道には春の草が伸びはじめていた。谷風はまだ冷たかったが、日差しにはもう春の重みが乗っていた。爺は男の顔をひと目見て、それで察したらしかった。
「戻らんのか」
「はい」
「ふん」爺はそれだけ言って鍬を担ぎ直した。数歩行って、振り向かずに付け足した。「山の者がひとり、減らんで済んだわい」
会える道を二度断った。
どちらも、答えを持たずには会えぬという同じ理由だった。理由が変わらないことが四年の重さだった。ただ、一度目に断ったときは胸が裂けた。二度目のいまは、谷風の冷たさだけが頬にあって、胸は静かだった。
男は堂を出て、山道を登った。日差しに春の重みは乗っていたが、稜線の風にはまだ冬の芯が残っていた。




