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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第4章 山の七年
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第34話 灯の七年

 同じ冬、都にも雪が降っていた。


 山の男が谷ふたつ向こうで行者を看取っていた、その同じころの話である。囲いの内の三年半を、ここで少し語らねばならない。


  *


 三年半のあいだに大足は老いた。


 鬢はもう白いほうが多く、書見の目は灯を二つ寄せねば細かい字を拾えなくなった。灯の油の減りだけが早くなった。それでも文机の脇には変わらぬものがひとつあった。三巻の書物の、写しである。原本は書いた男が山へ持って行った。残ったのはあの冬、大足が夜を継いで書き写した一部だけだった。写しの紙はすでに手擦れで柔らかくなり、綴じ紐は一度替えた。夜更けに開くたび、大足は灯の芯を自分の手で切った。人を起こすほどの用でもないというのが口実で、その刻限をひとりで惜しんでいるのだった。


 誰か他家の披覧を望まん。


 書の終わりにそう書いてあった。他人に見せるためのものではない、と。ところが、である。


 初めに写しを乞うたのはあの放蕩の若者だった。次が大足の旧友の学者だった。若者の朗読を偶然聞いて、あれは誰の書だと問うてきた。その学者の写しを奈良の僧が借りて写した。僧の写しをまた誰かが写した。三年半のあいだに書は静かに殖えた。殖えた先を、大足が知らされることもなかった。披覧を望まぬと書かれた書物が、書き手のいない都で読まれ続けていた。


 時折、知らぬ人が大足の家を訪ねてきた。あの書の作者はいずこに、と。学者もいた。僧もいた。あの戯曲の乞児にわが身を重ねたらしい若い官人くずれもいた。たいていは肩を落として引き上げ、なかには帰りぎわ、写しを一部乞うて戻る者もいた。訪う者はたいてい、笠を脱ぐ前にあの書の名を口にした。


 大足の答えは決まっていた。


「風のような男でしてな。……行く先は、風に訊いてくだされ」


  *


 その写本を手伝っているのがあの若者だった。


 酒はやめていない。博打は減った。何より、若者は字を習い始めたのである。


「人に読んでもらうんじゃ、癪だからよ」


 と本人は言った。あの書の続きを、蛭牙公子があの先どうなったのかを、幾度でも自分の目で読みたい。それだけのために三十を前にした男が大足の前に膝を揃えて手習いから始めた。墨の磨り方から教わった。硯を押さえる左手が、二月かかって形になった。初めの半年は筆を投げること数知れず。それでもやめなかった。いまでは写本の手伝いが務まるほどにはなった。筆の持ち方だけは、いまも時々叱られている。叱られるたびに口を尖らせ、それでも筆は置かない。手の甲の墨の痕が絶える日はなかった。


 手習いを始めたころ、大足は一度だけ訊いたことがある。いまさら字を覚えて何になる、位に就ける歳でもあるまいに、と。若者は筆を握ったまま口を尖らせた。


「銭にも位にもならんことをやっとる奴が、あの山におるんでしょうが。なら、俺が手習いしたってええでしょうが」


 大足はそれきり何も試さなかった。


 あるとき、写しながら若者がぽつりと言った。


「なあ、大足さま。この乞児のやつは、いまごろ山で何をしとるんですかね」


「経を誦しておるのだろうよ」


「飽きんのですかね、同じ文句ばっかりで」


 大足は筆を置いて少し考えた。


「飽きるというのはな、外から入れたものが切れることじゃ。あれのは内から湧いておる。湧いておるものは切れん」


 言ってから大足は、自分の言葉にひとりでうなずいた。三年半、文は一通も来ない。それでも、あの男の消息を疑ったことはなかった。見えなくとも、見ておる。それがあの朝、返事の文に書いた自分の役目だった。


  *


 いっぽう、都のはずれのあの寺の冬は静かだった。井戸の水は朝ごとに薄い氷を張り、汲むたびに柄杓の縁が桶に鳴った。


 囲いの内に、三年半という月日は目に見える形ではほとんど積もらなかった。回廊も堂も勤行も、去年のままだった。老尼がひとり亡くなり、新しい尼がひとり入った。数えられる変わり目といえば、それきりである。ただ、回廊の板の、いつも同じところだけが白く擦れていった。


 そのしずけさの真ん中で、汀は変わらずに灯を守っていた。


 夕暮れ、堂に灯を入れ、芯を整え、油を注ぎ、灯から灯へ渡ってゆく。焔の際で手を止めるあの静かな運びも変わらなかった。油の匂いも堂の闇の深さも、手が先に覚えていた。焔は夜ごと同じ順に灯り、消えていった。合わせた掌の付け根が、固くなっていた。灯を運ぶ手の、同じところだった。変わったものは髪にまじる細い銀と、写経の間に挟まれた一枚の花びらの色だけだった。


 散りぎわの桜の、あの春の花びらである。手のひらに載せてしばらく見てから、彼女はそれを写しかけの経の間に挟んだ。三年半がその色を少しずつ抜いていった。紅の名残りはもうほとんどない。薄く乾いて、それでも形だけは花びらのままだった。写しの紙には、花の形の淡い痕だけが移っていた。墨の字の間で、そこだけ紙が春の名残りの色をしていた。


 彼女は時折、経を開いてそれを見た。見るだけで触れなかった。触れれば崩れる。崩さずに保つには、開いて、見て、閉じる。それだけの付き合い方しかないのだった。経の紙は、その一枚だけがわずかに膨らんでいた。指で押さえずに繰るのが、いつのまにか癖になっていた。開くとき、いつもそこから開いた。


  *


 夕の勤行が始まると、彼女の手はいまも止まる。


 灯の芯を整えかけた指が読経の立ち上がる一瞬、ふ、と宙で止まって、それから何ごともなかったように続きへ戻る。誰も気づかないほどの短い止まり方である。いつか彼女が男の目に言い当てた、あの色と同じ形のものが、その指先にあった。


 耳だけが囲いの内で歳を取らなかった。


 参詣人の砂利の音を、彼女の耳はいまも聞き分けてしまう。重い足、急ぐ足、老いた足、幼い足。日に幾十と門をくぐる足音の中に、耳は勝手にひとつの音を探した。探すな、と言い聞かせることはもうやめていた。言い聞かせても耳は聞くからである。探すに任せて、見つからないことに耳が慣れるのを待つ。三年半かけて耳は慣れなかった。


 見張りの男は年に一度、来るか来ないかになっていた。


 立ち姿に昔の張りはなかった。土塀の陰に半日立って、形ばかりに境内を眺めて帰ってゆく。囲いの女が外と繋がる恐れなど、もう誰も本気では数えていないのだった。確かめる者も確かめられる者も同じだけ歳を取った。


 この冬、久しぶりに現れた見張りの男は、雪の門前で長いこと咳をしていた。老尼が見かねて白湯を持たせた。男は恐縮して両手で受け、雪の深さの話をふたことみこと交わして帰っていった。監視と監視されるものの間に白湯が一椀行き来する。そういう歳月になっていた。空になった椀が戻るとき、湯気はもう立っていなかった。男の下がっていった雪道に、足跡が浅く残った。


 疑われるものは、もう何もなかった。囲いの外に、自分へ繋がる糸は一本も見えていない。


  *


 雪の夜、堂の灯を回り終えた汀に老いた尼が声をかけた。


「ようも、まあ、飽きませぬな」


 嫌味ではなかった。感心だった。十年ちかく一夜も欠かさず、同じ刻限に同じ手順で灯を守る人への素直な感心だった。汀は最後の灯の芯を整え終えてから答えた。


「飽きるということが……あるものと、あらぬものが、ございますようで」


「ほう。灯は、飽きぬものの側で」


「はい」


「珍しいことも。灯のつとめなど、寺でいちばん飽きられるつとめですに」


「毎夕、同じに見えて」と汀は灯の連なりへ目をやった。「風の向きで、焔の癖が毎夕違いますので。同じ夕は一度もございませんでした」


 それ以上は言わなかった。


 ここにおります、とあの夜言った。


 言ったからには、ここにおる。灯を守るとはその言葉の実行だった。どこかの山の上であの人が朝ごとに声を置いているように、彼女は夕ごとに灯を置いた。届かないことは、初めから分かっている。それでも、置き続けた。


 祈りの言葉も三年半で短くなった。


 初めのころは道中の無事を、山の寒さを、あれこれと案じて祈った。いまは違う。祈りは削られて一言になった。


 ――どうか、あの渇きに、答えが、ありますように。


 自分のことは、ひとことも入っていなかった。


  *


 雪は音もなく夜通し降った。軒の先には氷柱が育ち、渡り廊下の板は踏むたびに冷たく鳴った。灯明の油は凍りかけて芯の立ちが悪く、彼女は器を袂で包み、掌の熱でゆるめてから注いだ。堂の屋根から時折、雪の滑り落ちる音がして、それきりまた静かになった。


 山の上の岩屋の雪と都の寺の回廊の雪が、同じ夜空から降っていた。灯を消して戻る渡り廊下で、汀は一度だけ立ち止まり、雪の降る闇に耳を澄ませた。何も聞こえなかった。何も聞こえないことを確かめるように聴いてから、彼女は部屋へ戻った。灯を回り終えた指先に、焔の熱がまだかすかに残っていた。

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