第33話 行者の死
谷ふたつ向こうの声が痩せはじめたのを、男の耳は誰より先に知ってしまった。
夏のあいだ、咳は鳴りをひそめていた。治ったわい、と翁は笑い、焚き火を囲めばあいかわらず喋りが止まらなかった。だが、三度目の秋が深まるにつれ、朝の経の声が変わっていった。細くなった。息継ぎが増えた。八巻のうち、朝に読む長さが少しずつ短くなった。
耳の良さが、残酷だった。
その衰えを、男の耳は容赦なく測ってしまった。帳面は声の痩せまで几帳面に刻んだ。刻むなと言っても、この頭は聞かなかった。
霜の降りた朝、とうとう谷ふたつ向こうの声が来なかった。沢の音だけが、いつもの刻限に流れていた。
男は誦を半ばで切り上げて、谷を渡った。
*
翁は、岩屋の奥で臥せっていた。
継ぎだらけの衣の上にあるだけの筵を重ねて、小さくなっていた。男の足音に薄く目を開けて、笑った。
「おお。真言の。すまんの、今朝は休みじゃ」
その日から、通いの看病が始まった。
男は朝の誦を終えると谷を渡り、火を熾し、粥を炊き、根を煎じた。煎じるのは熱冷ましの根だった。北の斜面の沢の霧の届くところ。葉が落ちてから掘る、あの根。翁自身に教わった根だった。翁は椀を両手で受けて、うまそうにすすった。
「わしの教えた根じゃの」
「はい」
「ようできとる。掘りどきも、煎じ方も。効かんのも、わしがいちばんよう知っとるわい」
笑って、また咳をした。男は何も言えなかった。岩屋の空気が、薬の匂いに変わっていた。煮出した根の、青くさい匂いだった。翁は自分の身体の中で何が起きているかを、三十年の山の知で誰より正しく読んでいた。時折、片手の指を自分の手首に当てて、しばらくそのままでいた。慌てなかった。渡りの行者は身体がもとでよ、と言った人が、その身体の仕舞いどきを静かに待っていた。
いちばんこたえたのは翁の口数が減っていったことだった。あれほど堰を切ったように喋った人が、二言三言で目を閉じるようになった。落ち窪んだ目の下に、影が濃く溜まっていた。だから男は、かわりに自分が喋った。讃岐の浜の話。都の話。谷の響きの話。覚えてしまう頭が、こういうときだけは頼もしかった。翁は目を閉じたまま、時折ふ、ふ、と笑った。
爺が里から卵を運んだ。炭焼きが上等の炭を置いていった。倅は岩屋の前の薪を黙って割れるだけ割った。山の者たちは見舞いの言葉というものを言わなかった。物と手間だけが行き来した。割りたての薪は切り口が白く、乾いた木の匂いを岩屋の口まで運んだ。岩屋の前の薪の山は、冬をふたつ越せるほどに育っていった。
*
雪の来る前の、風のない午後だった。
翁はめずらしく長く目を覚ましていて、ぽつりぽつりと語った。焚き火が、痩せた頬に赤みを貸していた。
「ええ渡りじゃった」
三十年の帳尻を、そう締めた。
「大和の山も熊野も伯耆も、ようしてくれた。どこの山でも、水と寝る場所と経を読む場所だけはあった。人にも、山の者にも里の者にも、存外ようしてもろうた。渡りの者は、何も持たんでな。持たん者には、みな少しずつくれるんじゃ」
それから少し黙って、言った。
「爺さまに、聞いたろ。女房と、子のこと」
「はい」
「経だけが残った、いうてな。あれはの、真言の、ちいと違うんじゃ」翁は、天井の岩を見ていた。「あの年、わしも死ぬつもりじゃった。みな逝って、わし一人生き残ってしもうて。ほいでの、家の焼け残りに経が一部、あった。読んだんじゃ。ほかにすることがなかったでな。読んで、読んで、読みよるうちに、気がついたら春になっとった。経だけが残ったんじゃ、ない。経が、わしを、残したんよ」
男は動けなかった。
「なんで残されたかは、三十年分からんままよ。分からんまま読んで渡って、ここまで来た。ま、ええ渡りじゃった」
翁は薄く笑った。歯が、二本欠けていた。
*
夜、翁は男を枕元に呼んだ。
「頼みが、ある」
「何なりと」
「経をな……聞きながら、逝きたいもんじゃ。自分ではもう、読めんでな。おまえ、読んでくれんか。そこの、笈の八巻を」
男は笈から経本を出した。三十年、翁と渡ってきた八巻だった。巻の腹には、囲炉裏の煙の匂いが染みていた。表紙は手ずれで柔らかくなり、継ぎは幾度も直され、紙の端はめくる指の形に丸く減っていた。
男は灯を寄せ、第一の巻を開いた。
読み方なら、知っていた。文字を追う読み方なら。だが、開いた瞬間、耳の底から別のものが立ち上がってきた。一年あまり、谷越しに聞き続けた翁の声だった。朝ごとの、あの節回し。息継ぎの癖。句の切りどころ。低く入って、ゆっくりと持ち上げるあの独特の運び。八巻ぶんすべて、あの難儀な頭が翁の三十年の読み方ごとそっくり蔵っていた。
翁の節で、第一の巻の初めから読み始めた。
低く入って、ゆっくり持ち上げる。翁の息継ぎの場所で息を継ぐ。翁の切る場所で切る。谷ふたつ向こうから毎朝届いていた声を、いま枕元で、この喉から返した。
翁の目が、見開かれた。
それからゆっくりと、閉じられた。閉じた目尻から水の筋が、ひとつ伝った。
「……わしの、読み方じゃ」
「勝手ながら。耳が、覚えておりましたので」
「難儀な頭じゃと、言うたがの」翁は目を閉じたまま、笑った。「ええ頭じゃ。取り消すわい」
*
それから幾晩も、男は読んだ。
誦を終えた昼から日暮れまで。翁は聞きながら眠り、覚めてまた聞いた。冬の日が岩屋の口から短く差して、経本の紙の上をゆっくり渡っていった。時折、口がかすかに動いた。声にならない声で、経をなぞっているのだった。三十年、身体に染みた経は、声が涸れても唇に残っていた。
霜月の、夜明け前だった。
第五の巻の、なかばだった。翁の息が、経の調子からすっ、と外れた。男は読みながら、耳でそれを聞いた。外れて、浅くなり、間遠になり――やがて、谷の水音だけが残った。
男の声が、一度だけ揺れた。喉の奥で経がつかえ、それでも翁の節へ戻した。
男は読むのをやめなかった。
第五の巻を、終いまで読んだ。途中でやめる読み方を、翁は教えなかった。
読み終えて経本を閉じ、それから翁の顔を見た。眠っているのと同じ顔だった。喋り疲れて、焚き火の脇でうたた寝をするときの、あの顔と。
岩屋の外で、夜が明けはじめていた。いつもなら、経の始まる刻限だった。谷は、その朝から片方の声を失った。
谷ふたつ向こうの、翁の谷の上の空が白んでいくのを、男は岩屋の口から長いこと見ていた。
*
山の者たちが集まった。
爺と炭焼きと倅と、男。それだけの野辺送りだった。渡りの行者の死は、国のどの帳面にも載らない。倅が乾いた薪を組み、山の作法で火に送った。煙はまっすぐに立った。風のない、よく晴れた冬の入りの日だった。山の上は高く晴れ、鳶がひとつゆっくり輪を描いていた。薪の爆ぜる音だけが谷にしばらく続いた。爺は火の照り返しに目を細めたまま動かなかった。
火の前で、誰も経を読まなかった。読むべき男が、読めなかったからである。喉が塞がっていた。かわりに爺が、炭焼きが、倅が、順に火に薪を足した。倅は薪をくべる手をいちど止めて、また足した。経のない野辺送りは、それでも欠けては見えなかった。
帳面に載らない死だった。それでも、山の者の胸にひとりずつ載った。
骨は翁の岩屋の裏の日当たりに埋めた。決まった山を持たない渡りの者が終の山に選んだ場所として、悪くない日当たりだった。標は立てなかった。かわりに爺が、熱冷ましの根の株をひとつ、上に植えた。
「薬の下なら、あの経のお人も退屈せんじゃろ」
爺は言い終えると、鍬で土を軽く叩いた。
八巻の経本は、男が引き取った。
病の床で、翁がそう言い置いたのだった。おまえは一度読みゃ覚えるんじゃろ、なら、これはただの紙よ。そう言って笑ってから付け足した。じゃがの、紙には三十年ぶんの手の脂が染みとる。荷にならんなら、持っといてくれ。
岩屋の棚石の、三巻の隣に八巻が並んだ。
*
翌る朝から、山の声はひとつに戻った。
戻らなかった。
男は夜明けの誦を終えると、そのまま八巻の一部を数葉ずつ読むようになった。翁の節で。低く入って、ゆっくり持ち上げるあの運びで。谷は、真言に応えたあとで経にも応えた。山に、声がふたつあった。いまは、ひとつの喉からふたつの声が出る。
読みながら、男は気づいていた。
この読誦は、誰のためか。自分の行の勘定には入らず、遍数の帳面にも載らない。強いて言えば日当たりの下の人のためだった。もう聞く耳のない人に、届く証のない声を、それでも朝ごとに置く。
行の意味が、自分のためから半歩ずれて、その声は、数と喧嘩をしなかった。数の軽い朝が、少しずつ増えていった。
同じ冬、都の囲いの内で、ひとつの灯が守られていた。




