第32話 自然智
山の知は、頁を持たない。
そのことを、男は二度目の冬に骨まで教わった。
*
冬の入りから、翁の三十年ぶんの伝授が始まった。
伝授といっても、堂も書物もない。翁と連れ立って山を歩くのである。翁は藪をかき分け、斜面を這い、沢を渡りながら、ぽつりぽつりと教えた。霜の朝は霜の話を、雪の日は雪の下の話をした。翁の吐く息が藪の先で白く残っては消えた。
「熱冷ましの根はな、北の斜面じゃ。沢の霧の、届くところ。ほれ、この葉。この葉が落ちてしもうてから掘る。葉のあるうちは、力が上に行っとるでな。落ちたら、力が根に戻る。そこを、いただくんじゃ」
「傷の葉はな、日向のもんは効かん。半日陰の、岩のそばのを揉んで使う」
「血止めの苔は、水音のするところ。乾いた苔はただの苔よ」
翁の指は、どの草の前でも迷いなく止まった。三十年が、その指先に溜まっていた。
男は聞いたそばから覚えた。名も効能も、翁の言い回しごと頭の帳面にそっくり写した。写して、翌日ひとりで掘りに行った。間違えた。
似た葉があった。似た根があった。北斜面と言われた場所には、似た草が三種も生えていた。掘り上げた根を翁に見せると、翁はひと目見て、けらけらと笑った。
「それは、ただのうまくもない芋じゃ」
男は芋を、その晩の粥に入れた。山では、間違いも食えた。
ときおり、爺も加わった。爺の薬草と翁の行者の薬は、重なるようで重ならなかった。爺の知は、売るための知だった。里で銭になる草を、傷めず絶やさずに採る知。翁の知は、生き延びるための知だった。銭にならずとも、山の中で己の身ひとつを繋ぐ知。同じ根について、二人の言うことが食い違うこともあった。
「それは、干してから煎じるもんじゃ」
「阿呆。行の途中に干す暇があるかい。生でかじって効かせるんじゃ」
「効きが、荒かろうが」
「荒うて、ええんじゃ。死ぬよりましよ」
言い合う二人の脇で、男は両方を覚えた。里の知と、山の知。丁寧な効かせ方と、荒い効かせ方。ひとつの草に、ふたつの読み方があった。
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書物は一度で覚えられた。
字は、動かないからだ。頁の上の毛詩は十年経っても、同じ場所に同じ顔で並んでいる。だが、山の知は動いた。根の顔は、土の中では毎年違う。同じ草が、日当たりで背丈も葉の色も変える。霜が早い年と遅い年で、掘りどきがずれる。翁の「北の斜面」は、方角の話ではなかった。風の当たり方と、霧の通り道と、土の湿りの話だった。それは、言葉に写した瞬間にこぼれ落ちる何かを含んでいた。
男は間違え続けた。
間違えて掘って、匂いを嗅ぎ、齧って吐き出し、翁に笑われてまた掘った。ふた月も経つころ、気づけば葉を見る前に足の裏が土の湿りを読むようになっていた。鼻が、腐葉土の下の根の匂いを嗅ぎ分けるようになっていた。頭の帳面より先に、手が伸びるようになっていた。
頭は、この知の入口までしか案内してくれなかった。
あとは手と鼻と足の裏が覚えた。宿る、というあの言葉のいちばん地味で、いちばん確かな形がそこにあった。
山そのものが一冊の経だった。
頁も順も目次も、ない。読み手の都合に合わせてくれない。季節ごとに書き換わり、年ごとに書き換わり、同じ場所を二度読んでも同じ文言は二度とない。翁が三十年読んで飽きないという法華経と同じ作りを、山はしていた。読むたびに、違う経になる。だから、覚え終わるということがない。
覚え終わらないものを、男は生まれて初めて、書物の外に見つけた。
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ある日、翁は沢の源流の奥まで男を連れて行った。
崩れた岸の、赤い土を指した。沢の水が、そこだけ薄く錆の色をしていた。
「丹生よ」
赤というより、朱に近い土だった。翁はその土をひとつまみ、手のひらに載せた。
「土の中の、朱の脈じゃ。この筋を辿って掘ると、朱の砂が出る。仏像の朱も社の鳥居の朱も、もとはこういう山の土よ。山師と山の民だけが知っとる、山の血の道での。朱の出る山は、金気の水が湧く。飲み水を選ぶときにも要る知よ」
男は朱の土を指に取った。重く冷たく、鉄の匂いの奥に何か甘いような匂いがした。指を擦り合わせると、朱は細かく皮の溝に入り込んで落ちなかった。山の血は、人の手にも染みるのだった。頭の帳面が勝手にそれを刻んだ。色。重さ。匂い。岸の向き。水の味。帳面のその頁だけ、朱で書かれたような気がした。
なぜこんな土のことまで、と思いはした。使い道の当てなど、どこにもなかった。それでも指に残る朱の重さが、この知はいつか要る、とだけ告げていた。
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二度目の冬は、最初の冬とは別のものだった。
最初の冬を、男は思い出す。干飯の袋の軽さに怯え、雪に閉ざされ、声が涸れ、死にぞこねて山を下りたあの冬。今度の冬には、貯えがあった。栗と椎の実と、干した根と塩。薪は、夏のうちに乾かした分が岩屋の奥に壁をなしていた。雪の日の水は、雨受けが雪を受けてまかなった。岩屋の口に筵を垂らすと火の熱が籠って、夜の冷えがひとつ弱くなった。
そして、雪の谷の誦を男は覚えた。
雪は、音を吸う。降り積もった朝の谷は、響きが短い。そのかわり、近い。声が遠くまで転がっていかないぶん、すぐそばで密に返る。谷が耳元で応えてくれるようなものだった。夏の谷は、広く深く応える。雪の谷は、近く静かに応える。同じ谷の、別の顔だった。経が季節で書き換わるなら、谷もまた季節で書き換わる楽器だった。男は、どちらの顔にも同じ声を置いた。
谷ふたつ向こうの声が、雪の深い日には途切れた。
聞こえない朝が続くと、男は雪を漕いで様子を見に行った。翁の岩屋は火の気があり、翁は経を口の中で読んでいた。雪の日は、声を節約するのだという。互いに達者かとも問わなかった。火に当たり、湯を飲み、また雪を漕いで戻った。それだけの往来が、冬のあいだに幾度かあった。帰り道の雪には、行きの自分の足跡だけが残っていた。谷ふたつの距離は、雪の日には命綱の長さだった。
息が白く凍る日には、誦がそのまま目に見えた。
一遍ごとに白い息が谷へ流れて消えた。声が形を持って出て行くのが見えた。見えることが、妙に誦を丁寧にさせた。息の白さが薄れるころ、谷に春が近づいていた。
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春先の、ある朝だった。
男はいつものように暗いうちに目を覚まし、いつものように座に着いた。鳥が、鳴き替わった。冬の鳥から春の鳥へ鳴き手が替わる、その最初の朝の声で、男は誦し始める刻を知った。知って、気づいた。いつから自分は、鳥で刻を計るようになったのか。
誦しながら、風が変わった。谷を上ってくる朝の風の湿りの変わり目で、息継ぎの深さが変わった。誰も変えていなかった。息が勝手に、風に合わせた。声の高さもそうだった。雪解けで水嵩の増した谷の太くなった響きに、声のほうが合わせて少し低くなっていた。
刻限は鳥に教わり、息は風に合わせられ、声は谷に調えられていた。
では誦しているのは、誰か。
自分が山で誦している。ずっと、そう思ってきた。だが、この朝の行の形は、どこからどこまでが自分の決めたものか。刻も息も声も、山のほうから来ている。自分はその真ん中で、口を貸しているだけではないのか。
山が、この身体を使って、誦している。
そう言ってみたくなる朝が、あるのだった。神が降りたとか、仏が乗り移ったとか、そういう話ではない。ただ、行の形が二年かけて、山に彫られたのだ。水が岩を彫るように、山がこの身体に誦の形を彫った。彫られた形の上を、今朝の誦が流れている。それだけのことだった。
それだけのことの朝は、しかし数が軽かった。
消えは、しない。帳面は今朝も開いている。だが、数がいつもより遠くで鳴っていた。誦と数とが、喧嘩をしていなかった。数は、鳥の声や風の湿りや谷の響きと同じ列に並んでいた。山の音のひとつになっていた。
数のほうが、先に飽きるわい。翁の言葉が、ふと近くなった。
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その話を焚き火でしてみると、翁は膝を叩いた。
「おお、それそれ。わしにも、あるわ。経に読まされとる日が、な。ええ日じゃ、そういう日は。昔の山の行者はな、山で覚えるそういう智慧を、自然智と呼んだそうな。人が教える智慧の外の、山が教える智慧よ。おまえさん、書物の智慧は腹いっぱい持っとるんじゃろ。ちょうど、ええ。山の智慧と書物の智慧と、両方持った行者はそうはおらんでな」
翁はそう言って、笑った。
笑った拍子に、咳が出た。ひとつでは止まらなかった。翁は胸を叩いて、咳を笑いに紛らせた。
「春先の咳は、長引くでな」
男は、笑わなかった。耳が、その咳の音を聞いてしまっていた。乾いた咳ではなかった。胸の底に水気の混じった、深い音だった。頭の帳面が、その音を刻んだ。刻んで、いつかの熱冷ましの根の在り処を勝手に繰り始めていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第32話「自然智」。山そのものが経典である、という話です。
書物を一度で呑んできた男が、山の知だけは、一度では覚えられません。根の顔は土の中では毎年違う。知が、場所と季節に埋め込まれている。頭の帳面より先に、手と鼻と足の裏が覚える。「宿る」の、いちばん地味で確かな形です。頁も順も目次もなく、読むたびに書き換わる経。覚え終わらないものを、彼は初めて、書物の外に見つけました。
丹生(朱の脈)の場面。使い道の当てもない山の土のことが、なぜか指に残る。そういう知の刻まれ方を書きました。
そして春先の朝。刻限は鳥に教わり、息は風に合わせられ、声は谷に調えられている。誦しているのは、誰か。山が、この身体を使って誦している朝が、ある。神秘ではありません。行の形が、二年かけて、山に彫られただけです。でも、そういう朝は、数が、軽い。消えはしないけれど、数が、山の音のひとつになっている。「数のほうが、先に飽きるわい」が、少し、近くなりました。
最後の、翁の咳。乾いた咳ではありませんでした。彼の耳は、聞いてしまいました。次話「行者の死」。どうか、心の支度を




