第31話 山の者たち
山の上で二度目の夏が過ぎた。
嵐に作り直された山は、ひと夏かけて新しい形に落ち着いた。倒れた木々は苔をまとい、変わった沢筋は岸を固め、谷の響きは男の耳に、もう古い響きと同じ深さで馴染んでいた。遍数は幾十万の坂を積み上がり続けていた。数はあいかわらず、一遍も欠かさずについてきていた。秋口の朝には谷の底から霧が上がり、岩屋の口まで白く満たして引いていく。引いたあとの空気は冷たく澄み、誦する声がわずかに遠くまで通った。
秋が来ると、山には山の実りと一緒に互助が巡る。
*
栗の頃、炭焼きの倅が初めて岩屋まで上ってきた。
背負い籠に栗と、炭の薦包みをひとつ。栗はまだ毬のついたものも混じっていた。相撲で勝ったという身体は、岩屋の口をふさぐほど大きかった。倅は荷を下ろすと、もじもじと懐から木の札を出した。
「親父が。これに荷の宛てを書いてくれと」
炭の荷札だった。国府へ納める炭に宛て名が要るという。男は筆と墨壺を出して書いた。倅は字の生まれるさまを息を詰めて見ていた。大きな身体が、火を初めて見る子どものように動かなかった。
「あんた、字が書けるんじゃな」
「それしか能のない男でした」
「もひとつ、頼まれてくれんか」倅は言いにくそうに頭を掻いた。「里の隣村に嫁いだ姉さまがおっての。達者かどうか、それだけ聞きたいんじゃが。わしも親父も字が書けん」
男は文を書いた。倅の言葉をそのまま文の形に。仰々しい言い回しはひとつも使わなかった。栗が実った、窯は無事だ、母者の腰は良くなった、姉さまは達者か。読み上げてやると、倅は幾度もうなずいて、大切そうに懐に納めた。帰りの背は、来たときより軽そうだった。置いていった栗が、岩屋の隅で山の匂いをさせていた。
字の頼みはそれきりでは済まなかった。倅の口づてで、山向こうの炭窯からも沢下の猟師からも、ぽつりぽつりと頼みが来た。あるとき、痩せた男が女房と幼子を連れて岩屋の下まで来た。嵐で村ごと潰れて逃げてきた一家だという。書いてほしいのは、遠国へ先に逃げた兄への文だった。生きて山におる、子も生きておる、いつかそちらへ。男は書いた。書きながら思った。この一家も帳面の外へ落ちたのだ。落ちた者同士が、字を介して細く繋がる。
帳面の外の世界にも、字の仕事はあった。
こんな字を書くのは、生まれて初めてだった。栗と炭と引き換えの字。墨は、その分だけ早く減った。誰かの「達者か」を山ひとつ向こうへ運ぶための字。書き終えて筆を仕舞い、置いていかれた栗を男はひとつ手に取った。まだ山の冷えを持っていた。
*
煙の主に会ったのは、その数日あとの沢の合流だった。
水を汲みに下りると、対岸の石の上に人がいた。痩せた小さな、老いた行者だった。継ぎだらけの衣に笈をひとつ。秋の水は痩せて、渡り石が高く出ていた。男に気づくと、その顔がくしゃりと笑った。
「おお、おお。真言の」
初対面の男をそう呼んだ。
「聞いとる、聞いとる。朝な朝な、谷の上からええ声じゃ。虚空蔵の真言じゃろ。わしゃこっちで聞くたび、おお、今朝もやっとるわい、と思うての。張り合いになるでの。いや、会えてよかった。山で声だけ知っとる仲というのは、どうにも尻の据わりが悪うてならんでな」
立て板に水だった。
沙門も爺も炭焼きも、言葉を惜しむ人たちだった。山の人とはそういうものだと男は思い込んでいた。違った。山で独りの者は、人に会うと喋りが止まらないのだった。老行者は石から石へひょいと沢を渡ってくると、男の顔を下から覗き込んだ。
「若いの。ずいぶん痩せとるが、飯は食うとるか」
*
その晩、男の岩屋の前で焚き火を囲んだ。夜気はもう冷たく、火の恋しい季節になっていた。爆ぜる火の粉が、時おり高く昇って消えた。
爺も根をいくつか提げて上がってきた。火に炙った根の、土臭い匂いが夜に流れた。爺と翁は初対面のはずだったが、初対面の挨拶というものをしなかった。山の者同士は名も来歴も問わず、ただ火を分け、食いものを分けて、それで知り合いになるのだった。
「経のお人か」と爺が言い、「薬のお人か」と翁が言った。それで済んだ。
翁はよく喋った。歳は七十に近いという。山を渡り歩いて三十年。大和の山々、熊野の奥、伯耆の山、四国の辺地。行場から行場へ、季節と食いものを追って渡ってきた。
「渡りの行者はな、作法があるんじゃ。先客の行場には入らん。水場は分ける。声の届く近さには庵を結ばん。あの嵐の晩に、前の山の岩屋が潰れての。流れ流れてここへ来たが、谷ふたつ空けたのはそういうわけよ。おまえさんの声の邪魔にならん近さ、いうてな」
翁の行は法華経だった。若い頃に一部八巻を身に入れて、以来読誦ひとすじだという。
「同じ言葉の繰り返しは、わしには続かなんだ。わしゃ話の筋があるほうがええ。法華経はな、話がようできとるんじゃ。長者も出るし、火事も出るし、雨も降る。三十年読んで飽きんのじゃから、たいした経よ」
男は問うた。同業の先達にいちばん訊きたかったことを。
「三十年で……遍数は、いかほどになりましたか」
翁はきょとんとした。
それから、火に枯枝を折りくべながらこともなげに言った。
「数えたことが、ないの」
*
男は、言葉を、失った。
「読み終わりゃ、また初めから読むだけでな。何遍目か、いうことに何の用があるんじゃ」
「ですが、行の満ちる数が」
「満ちる、とな」翁は歯の欠けた口で笑った。「経はな、若いの、読み終わるいうことがないんじゃ。同じ八巻をな、三十年読んどるがの。読むたびに違う経になっとる。若い日に読んだ火宅の喩えと、女房子供を亡くした年に読んだ火宅と、みんな違うんじゃ。違う経なら、数えようがなかろうが」
女房子供、という言葉が、焚き火の上をふっと通り過ぎた。翁はそれ以上そこには触れなかった。触れない速さが、その傷の深さだった。飢えの年にみな喪ったのだと、あとになって爺から聞いた。経だけが残ったのだと。
「おまえさんは」と翁は言った。「数えとるんか」
「……数えて、しまうのです」
男は話した。初めて、行の内側のことを同じ道の者に。生まれついての頭のこと。一度で刻まれ、二度と消えぬこと。
「一遍も、取りこぼせんのです。取りこぼした気がして、また初めから数え直す」
「ほう」
「五たび、殺そうとしました。この数える頭を」
「殺し損のうたか」
「はい。数えないことと、数えずにいられないことの、あいだに、深い谷があるのです」
翁は火を見ながらうんうんと聞いていた。聞き終えると、洟をすすって言った。
「難儀な頭じゃの」
慰めも指南も、なかった。才じゃと言われ続けた頭を、難儀じゃと笑った人は、初めてだった。男は喉の奥が、なぜか少し緩むのを覚えた。
「じゃがの、真言の」翁は火の粉の立つのを目で追った。「わしの見るところ、あれよ。数はの、おまえが数えとるんじゃない」
「と、言いますと」
「数のほうが、おまえをまだ離さんのよ。三十年前のわしの経もそうじゃった。読もう読もう、身に入れよう入れようと、経の首根っこを掴んどった。掴んどるうちは、経もこっちの首根っこを掴み返しよるでな。そのうち、あれよ。数のほうが先に飽きるわい」
「数が、飽きる」
「おまえより先にな」
翁はそう言ってけらけらと笑った。焚き火の向こうで、爺も声を立てずに笑っていた。爆ぜた火の粉がひとつ、高く昇って消えた。
*
翌る朝から、山に声がふたつになった。
夜明け、男が谷へ真言を放つ。少し遅れて、谷ふたつ向こうから経を読む声が細く立ち上がる。互いの声は互いの谷で響き合い、高い尾根の上、まだ明けきらぬあたりで遠く重なった。示し合わせたのではない。行者がふたり、同じ山で同じ朝に、それぞれの行を始めているだけだった。
独りの行と独りの行が、遠くで支え合う。近づかない。混ざらない。谷ふたつぶんの距離のまま、ただ聞こえている。
焔ひとつぶんの距離を、男は思い出した。
*
栗の終わる頃、翁が岩屋へ上ってきた。朝晩の霜が、もう白く降りる頃だった。
笈から木の根やら乾いた葉やらを、次々に出して並べた。岩屋の前が、さながら小さな薬市になった。掘りたての根の土の匂いが霜の朝の澄んだ気に流れた。
「冬の前に、教えとくことがある」と翁は言った。「山の薬の在り処よ。熱冷ましの根。腹下しに効く皮。傷にすり込む葉。血止めの苔。爺さまの薬草とはまた別の、行者の薬じゃ。渡りの行者は、身体がもとでよ。三十年ぶんを教えとく」
「なぜ私に」
「なぜ、とは」翁はまたきょとんとした。「山の者は、山の者に渡すんじゃ。わしもそうやって貰うてきた。それにの」
翁は並べた根をひとつ手に取って、しげしげと見た。
「わしも、いつまで居るか、分からんでな」




