第30話 颱風
風は夕暮れから、牙を持ちはじめた。
昼のうちはまだ、ただの強い風だった。生ぬるく湿り、南の匂いがした。鳥の声は朝から絶えていた。谷の水音だけが太く濁った音で鳴り続けていた。男は最後の点検をした。水。薪。火種は灰の奥深く。三巻は油紙に包んで棚石の最上段。文は懐。岩屋の口から見る空は、黄ばんだ鉛の色をしていた。
日が落ちると風の音が変わった。
*
初めは遠い唸りだった。
尾根の向こうで山全体が低く鳴った。うねりは寄せては引く波の形をしていて、一波ごとに近く強くなった。やがて岩屋の前の木々がしなり始めた。枝の鳴る音、幹の軋む音、千切れた葉が岩壁に貼りつく音。夜半に向かって、音の種類がひとつずつ増えていった。雨は、降るというより横ざまに流れていた。
男は岩屋の奥に座ってそれを聞いていた。
聞くことしかできなかった。この耳は生まれてこのかた、音を聞き分けることで世界を測ってきた。潮の満ち引き。人の声の底。谷の響きの深さ。だが、この夜の音は測れなかった。風と雨と木と岩と水が、境を失ってひとつの巨大な咆哮になった。世界が音で満ちた。隙間がなかった。耳を塞いでも、音は骨から入ってきた。
試しに誦してみた。
声は口を出た瞬間に消えた。谷は応えなかった。応えぬどころか届いてすらいなかった。あの谷が、幾万遍の声を受け取り響きを返し続けてくれた谷が、初めてこちらの声を聞かなかった。谷には谷の、今夜の相手がいた。山を挙げての咆哮の前で、人ひとりの声など雨粒ひとつぶんの重さもなかった。
男は誦をやめた。
やめて、ただの小さな生きものになった。岩の窪みにうずくまるほかに、できることは何もなかった。岩肌の冷えが、濡れた背から直に入ってきた。歯が鳴るのを、止められなかった。
*
夜半に水が来た。
初めに気づいたのは匂いだった。土の匂いが岩屋の奥からした。振り向くと、闇の中で水音がした。いつもの雨垂れの筋ではない。棚石の裏側の、乾いているはずの岩の割れ目から、水が糸を引いて落ちていた。
――大水の晩には、岩の水はいつもと違う道を通るでな。
爺の声が耳の底で鳴った。
男は闇の中を手探りで動いた。棚石の最上段から油紙の包みを下ろした。三巻を懐の文の上に重ねて抱いた。水は見る間に太くなった。岩屋の床を細い流れが這いはじめ、灰に埋けた火種が、じゅ、と短い音を立てて死んだ。
闇が完全になった。自分の手さえ見えなかった。
風はいよいよ岩屋の口へ吹き込みはじめていた。外では何かの折れる音、倒れる音、転がる音が、咆哮の合間に続けざまに鳴った。谷の水音はもう水音ではなかった。地鳴りだった。濁流が岩を運ぶ腹に響く重い音が、床から脊椎を伝って昇ってきた。
岩屋のいちばん奥の、いちばん高い岩棚に、男は身体を押し込んだ。
書物を抱き、膝を抱え、目を開けても閉じても同じ闇の中で、山が壊れていく音を聞いた。出れば死ぬ。斜面は崩れ、闇は完全で、風は人を浚う。留まっても、この岩屋が保つという証はどこにもない。岩壁そのものが時折軋んだ。長らく風の当たらなかった窪みに、今夜、風が当たっていた。
死ぬかもしれぬ、と思った。
思った瞬間、身体の底が勝手に動いた。
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口が動いていた。
気づいたときにはもう唱えていた。咆哮に呑まれて自分の耳にさえ届かない声で、唇と喉と胸が勝手に回っていた。
真言では、なかった。
母の経だった。
讃岐の浜の、あの一節。四つか五つの朝、意味も知らずに口移しに覚えたあの短い経。都の橋の上で誦し、置いていき、また取って行ったあの一節。それがいま、意志に諮られもせず、身体のいちばん底から立ち上がって回っていた。
男は闇の中で慄然とした。この一年、日に幾千遍誦し続けてきた真言は、極みの闇の中で出てこなかった。出てきたのは、二十年ほど昔に、たった数朝で身に入った母の経だった。一年の真言は出ず、数朝の経が出た。それだけのことが、恐ろしかった。
その違いが、恐怖の底で、初めて身体の言葉になった。真言は、まだ覚えたものだった。母の経は、宿ったものだった。浜の朝の潮の音と、母の背中と、握り飯の湯気と一緒に、身体に住みついたもの。極みのとき、人は覚えたものを取り落とす。宿ったものだけが、勝手に立ち上がる。
覚えるのではなく、身に、宿すのです。
母の言葉の意味が、山の壊れる音の中で、初めて身体に落ちた。行の行く先は、たぶん、ここだ。それ以上は、闇の中では、言葉にならなかった。
男は闇の中で母の経を唱え続けた。
祈りかどうかも、もう分からなかった。身体がそうやって、夜を渡っていた。
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風が変わったのは暁前だった。
咆哮の背がふっと低くなり、うねりの間隔が開きはじめた。水の糸はまだ落ちていたが、細くなっていた。男は書物を抱いたまま、岩棚の上でいつの間にか短く眠った。
目覚めると、外が明るくなっていた。
岩屋の口の向こうが、噓のように晴れていた。
男は強張った身体をほどいて外へ出た。
空は洗い上げたように青かった。あれだけの咆哮のあとのこの静けさは、耳にかえって痛かった。鳥が一羽鳴いた。昨日の朝から絶えていた声だった。生きているものの声が世界に戻りはじめていた。足もとの水たまりが、青い空をそのまま映していた。
山の形が変わっていた。
岩屋の前の斜面は木々が撫で倒され、何本かは根ごと起きて赤い土をさらしていた。谷は濁った水を轟々と運んでいた。水は赤土の色をしていた。沢筋が変わっていた。いつも水を汲んだ淀みは砂利に埋まり、代わりに二間ほど先に新しい流れができていた。踏み跡は消えていた。昨日まで頭上にあった枝ぶりが、そっくり失せている場所もあった。折れた枝の白い折れ口が、あちこちで生々しかった。
その中で、岩屋だけが変わらずにあった。
男は振り返って自分の棲家を見た。長い年月の風雨が、風の当たらぬ形に彫り上げた窪み。昨夜初めて風の当たったその窪みは、それでも保った。保ってくれた。
住むのだと春に思った。荷を解き、山のものになるのだと。思い上がりだった。
山に借りているのだ。この窪みも、沢の水も、栗の落ちる場所も、谷の響きさえも。昨夜、山はそれを教えに来た。何を貸してやっていたかを、ついでに、数えて行った。岩屋の口の砂は、ひと晩で三寸ほど動いていた。栗の木は一本、倒れて、青いいがを斜面にぶちまけていた。
*
男はその足で山を下った。朝の光の中で、山は湯気のように靄を上げていた。濡れた落ち葉が足の下で重かった。
行くべき場所がふたつあった。倒木を跨ぎ、崩れを高巻き、変わった沢を二度渡って炭焼きの窯に着いた。草鞋が泥を吸って、片方が重かった。鼻緒の間に、小石が噛んでいた。窯は無事だった。小屋の屋根が半分飛んでいた。屋根の上に大きな若者が乗って、杉皮を並べ直していた。相撲で勝ったというあの倅らしかった。下から炭焼きが縄を投げ上げていた。窯の周りの倒木は、もう脇に片づけられていた。親子の掛け合う声が、洗われた山によく通った。
「生きとられたか」
男が声をかけると、炭焼きは振り向いて、煤だらけの顔のまま少しだけ笑った。
「山の者はしぶといでな。おまえさんこそ、あの岩屋でようもったの」
「岩屋がもってくれました」
「そうよ」炭焼きはうなずいた。「もつ場所を選んで住む。それが山の者のはじめの知恵じゃ」
若者が屋根から下りてきて、飛んだ板を父と二人で抱え上げた。板は雨を吸って重かった。
爺の小屋も無事だった。屋根の押さえ石がふたつ落ちただけだという。筵の薬草は濡れて重く、爺はそれを一枚ずつ日向へ引きずっていた。拾い集めながら、男の顔を見ていつもの調子で言った。
「……岩の水は、どうじゃった」
「仰るとおりの道を通りました」
「ふん。岩は、正直でな」
*
岩屋に戻ると、男は濡れた床を掻い出し、火を熾し直した。新しい火が立つまで、思いのほか手間がかかった。湿った薪が、白い煙ばかり吐いた。
夕暮れ、いつもの座に着いた。濁り水の匂いが、まだ谷いっぱいに残っていた。谷の響きの具合が、変わっていた。沢筋が変わり、岩が動いたのだ。
男はその変わった谷に、変わらぬ真言を置いた。
響きが返ってきた。少し違う、新しい響きだった。それでよかった。谷が模様替えをしたのなら、覚え直すだけのことだった。誦しながら、男は昨夜の、闇の底の経を思った。真言よ、と誦の内側で呼んだ。おまえも、いつか、あの深さへ。それだけを願って、あとは黙って誦した。
数日ののち、爺が栗を拾いに上ってきて、ついでのように言った。
「そういえば、嵐のあとでな。山に煙がひとつ増えとる」
男は、火にかけた手を止めた。
「谷ふたつ向こうの古い岩屋よ。……誰ぞ、新しいのが入りよったな」




