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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第4章 山の七年
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第29話 続きの一遍

 敵は毎朝、男と一緒に目を覚ました。


 目を開ける。谷の音がする。息を整える。座に着く。一遍目を誦す。そのときにはもう、頭の隅の帳面は開いている。十一万といくら。昨日までの総数の続きに今朝の一遍が書き加えられる。狂いはない。生まれてこのかた、この帳面が数え違えたことは一度もなかった。


 声は谷へ放つと決めた。外の敵とは話がついた。


 残るはこれだった。


  *


 夏、男は数を殺す戦を始めた。谷の緑がいちばん濃くなる季節だった。朝ごとに蟬の声が谷を埋め、岩屋の口の岩は昼には手を置けぬほどの熱を持った。


 数珠は山寺を出るとき、沙門が行李に入れてくれたものだった。使う日が来るじゃろ、とだけ言って。その日が来たのだった。珠は長年の手擦れで、鈍い艶になっていた。


 初めに試したのはその数珠だった。数を取るための道具に数を預ける。一遍ごとに珠をひとつ繰り、頭からは数を追い出す。道具が数えてくれるなら頭は数えずに済むはずだった。


 三日で敗れた。


 頭は珠を数えた。繰った珠の数、回った輪の数。それどころか、指が珠を送る速さから経った時と総数を勝手に割り出した。数珠は頭の帳面の新しい頁になっただけだった。


 次に偽りを試した。


 わざと数を飛ばす。九万九千まで数えたことにする。千遍ぶん、自分を欺く。帳面が狂えば信用が落ちて、やがて読まれなくなるはずだった。


 これは三日ももたなかった。


 欺きも、そのまま記録された。まことの数の列の脇に、偽りの数の列が並んだ。十一万三千と二十。ただし偽りの帳の上では十一万四千と二十。二列の帳面ができあがった。男は誦しながら笑いそうになった。帳面を破ろうとして、帳面を増やしたのだ。忘れるという扉のない蔵は、偽の荷物まで几帳面にしまい込んだ。


 次は速さで押し流すことにした。


 数が浮かぶ隙を与えない。一遍が終わる前に次の一遍へ雪崩れ込む。息の続く限り、真言を切れ目なく繋ぐ。考える暇のない速さまで誦を駆り立てる。


 これがいちばんみじめに敗れた。


 速まるほど頭は冴えた。もともと速さは、この頭の庭だった。人が一度で覚えるものを、この頭は一度の半分で覚える。速誦の数など、鼻歌まじりに刻んだ。


 潰れたのは、駆り立てられた誦のほうだった。舌が縺れ、真言の頭と尻が食い合った。息継ぎが追いつかず、胸の底で笛のような音が鳴った。声は谷に届く前に喉でばらけ、頭だけが、その潰れた声の数を涼しく勘定していた。


 最後に男は、いちばん静かな手を試した。


 相手にしない。数が浮かんだら浮かぶに任せて、聞き流す。


 これは、負けたのが誦か、誦している者か、分からぬ敗れ方だった。


 相手にすまい、と決める。決めた瞬間に、もう相手にしている。聞き流そうとする耳は聞き流す相手を探している。数を無視している自分を、頭は脇から見ていた。見ていることを、また見ていた。合わせ鏡の奥へ、自分が際限なく退がっていった。座ったまま、息が誰の息か分からなくなり、指先が遠かった。誦している者が、どこにもいなくなった。


 夏の盛りが過ぎた。蜩の声が朝夕の谷を満たすようになった。


 数は、一度も、死ななかった。


  *


 それならと、男はあの白を待ち伏せることにした。


 三年前の、数の消えた一瞬。あのときの条件をこの頭は覚えている。忘れるという扉がないことが、こういうときだけは味方のはずだった。夏の終わり。夜明け前。眠りが浅く、飯が細り、疲れが底を打った朝。息と声の境が崩れ、谷の水音と自分の声の境が崩れたあのあわい。


 条件は揃えられる。揃えたところで、来る保証はない。それでも、ほかに手は残っていなかった。


 男は飯をわざと細らせた。眠りをわざと削った。夏の終わりを待って、夜明け前の座に疲れ切った身体を運んだ。座の岩は夜明け前がいちばん冷え、膝の下から染みてきた。息と声の境がほどけるあたりまで誦を深くした。そして頭の隅で待った。来るならいまだ。あのときと同じ条件だ。来い。


 白は来なかった。


 幾朝待ち伏せても来なかった。息と声の境は崩れるのに、数だけが崩れなかった。あたりまえだった。待ち伏せている者がいたからだ。白は、目を皿にして待つ者の前を素通りして、待つ者のいない場所にだけ来る。来るか来るかと数える頭は、来ない、来ない、とそれさえ数えていた。白を殺そうと待つ手が、白の来る場所を、自分で塞いでいた。


 そしてある朝、男は水を汲みに立ってよろめいた。


 膝が笑っていた。目の奥が絞られるように痛んだ。壊れかけている、と身体が言っていた。なぜかと、はじめは分からなかった。三年前、あの冬に行が身体を壊しかけたのとは、どこかが違った。あの冬に死にぞこねた男が、今度は自分から、死にぞこねようとしていた。


 男はその日から飯を戻した。粥を炊く湯気が、ひさしぶりに岩屋の内を白く満たした。薄い粥に、腹の底が驚くほど喜んだ。


 全敗だった。夏まるごと負け続けた。


  *


 秋口の昼、爺が上ってきた。


 瓜をふたつ置いた。行の話はしなかった。爺は行の話をしたことがない。首の汗を拭きながら、しばらく谷の音を聞いていた。


「里の祭りが済んでの」と、爺は岩に腰を下ろして言った。「今年は相撲で炭焼きの倅が勝ちよった。親父に似ん、大きな倅よ。で、賞に貰うた瓜が食い切れんそうな」


「その倅は、来年も出ますか」


「余りものじゃ。ありがたがるな」


「賑わうと、次の日は、静かでしょうな」


「賑おうた。今年は実りがよいでな。目代の帳面騒ぎも、祭りのあいだはみな忘れとった」爺は瓜の尻を手のひらで叩いた。「人はな、忘れる生きものよ。それでちょうど、ようできとる」


 忘れる生きもの。男はその言葉を、瓜の甘さと一緒に噛んだ。忘れられる側に生まれつかなかったことを、いまさら誰にぶつけようもなかった。


 二人で瓜を食った。谷の上を秋の入りの乾いた風が渡っていった。木々の葉がかさかさと鳴った。蟬の声はもう遠く、沢の音は早くも細りはじめていた。瓜はよく冷えて甘かった。歯を立てるたび、薄い皮の下から水気があふれた。負け続けた夏の底に、その甘さは妙に沁みた。爺は食い終わると、種を丁寧に紙に包んで立ち上がった。


「……顔色が、悪いの」


「夏負けです」


「ふん」爺はそれ以上問わなかった。「無理はな、するもんじゃが、し方というものがあるでな」


 それだけ言って下りていった。小さな背が、色づきはじめた木々の間に消えていった。


  *


 負けを数えてみた。


 数珠。偽り。速さ。聞き流し。待ち伏せ。五たび戦って、五たび敗れた。頭は無傷だった。帳面は今日も狂いなく開いている。十三万といくら。一度目の谷から通しての数だった。常であれば、この頭は一夏でこれの倍を苦もなく刻む。百日で百万を課す行に、負け続けた夏の伸びは、あまりに鈍かった。朝の水が、日ごとに冷たくなっていた。


 だが、負けの帳尻を眺めているうちに、男は妙なことに気づいた。


 五つの負けは、と数えかけて、やめた。どれも同じ顔をしている、とまでは分かった。数を敵と見た顔だ。敵がいる限り、戦は続く。数を無視しようとした朝でさえ、無視する自分が、座の上にもう一人、増えていた。


 思い返せば、この夏いちばん誦がほどけたのは、どの朝だったか。数珠に敗れて、それを認めた翌朝。偽りに敗れて、二列の帳面に笑いそうになったあの朝。負けを認めて、数と喧嘩をしなかった朝だけ、声が、いつもより遠くまで届いた。負けた翌朝ばかりが、という都合のよさは、疑った。疑ったところで、あのほどけかたは、嘘ではなかった。


 やめられたのなら、こんな山の中でまだ誦してはおらんよ。


 沙門のあの答えが、秋風の中で少し違って聞こえた。頭を殺せ、とも、やめろ、とも、あの人は言わなかった。ただ、まだ誦していると言った。爺も、無理はするな、とは言わなかった。し方がある、と言った。勝ち負けの話では、初めからなかったのかもしれない。


 それが何かは、まだ分からない。分からないまま、男は帳面のいちばん端に書き留めようとして、手が止まった。数の隣に置くべき一字が、初めて、浮かばなかった。すべてを刻んできた頭が、これだけは、刻む形を持たなかった。


  *


 その夕暮れ、風が変わった。


 南の空の色がおかしかった。黄ばんだ灰色の雲が、低く速く流れていた。鳥も獣も、山の高いほうへ動いていた。谷の水音が、いつもより太い。夜になっても、山のざわめきは収まらなかった。空はどこにも切れ間がなかった。


 翌る朝、爺が息を切らせて上ってきた。瓜のときとは顔つきが違った。


「――大きいのが、来るぞ」


 爺は南の空を顎で指した。


「海のほうから来よる。風の変わりようからして、じきじゃ。水を溜めろ。火種を守れ。……それでな」


 爺は帰りぎわ、岩屋の奥を覗き込むようにして言った。


「その岩屋、雨垂れの筋をよう見ておけ。大水の晩には、岩の水はいつもと違う道を通るでな」


 爺が下りていくと、男はその日のうちに動いた。水を桶に満たし、干した薪を岩屋のいちばん奥へ積み直し、三巻の書物を油紙に包んで棚石の最上段に上げ、包みの上に平らな石を載せた。大足の文は懐から出さなかった。出さない場所が、いちばん濡れない。


 支度を終えて、南の空を見た。雲の底が、暮れてもいないのに暗かった。鳥の影は、もうどこにもない。山ぜんたいが、息を詰めているようだった。あの暗さの下に、海がある。その上を、大きいのが来る。


 夜に入っても、風はまだ弱いままで、山のざわめきだけが続いていた。男は火種を深く埋けた。灰の下で、火はかすかな熱を保っていた。あとは、来るものを待つだけだった。

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