第28話 狩りの噂
狩りは、鹿や猪のものとは限らない。
そのことを男は、山に入って初めての夏に知った。谷の緑が日ごとに濃くなり、岩屋の口まで蝉の声が満ちはじめる頃である。朝の霧が晴れると、幾重もの尾根が青くつらなって見えた。谷を渡る風が、岩屋の奥の暗がりまで青い匂いを運んできた。
行の日々は、変わらず回っていた。夜明け前に起き、水を使い、座に着く。虚空蔵菩薩の真言を日に幾千遍。声は谷に落ち、谷は響きを返す。誦は座の外でも続いた。芹を摘む指の間でも、薪を割る呼吸の間でも、口の中で真言は回った。起きているあいだ、ほとんど誦しっぱなし。それが行に住むということだった。夏の谷は明けるのが早い。東の尾根が白む頃には最初の一座が終わり、汗が引く前に日が差した。眠りの浅い夜は、谷の水音が夢の中までついてきた。頭はあいかわらず、一遍も取りこぼさず数えていた。
変わったのは、行のほうではなかった。山の外の、風向きだった。
*
梅雨の晴れ間に、炭焼きの男が初めて岩屋の下まで上ってきた。爺より若く、煤に染まった無口な男だった。窯の番の合間に来たらしく、用件だけを短く言った。煤の匂いが雨上がりの緑の匂いに混じった。
「里に、お役人が入った」
「お役人」
「新しい国司さまの目代とやらじゃ。秋の前触れでの。村々を回って帳面を作り直しとる」
男は薪割りの手を止めた。
「田は逃げん」炭焼きは薪の山に目をやった。「逃げるのは、人よ」
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数日おいて、爺が詳しい話を持ってきた。梅雨の明けきらぬ夕で、岩屋の口の岩が湿って黒かった。爺は薬掘りの帰りらしく、腰の籠から土と根の匂いが立っていた。話しながら、籠の根を一本ずつ選り分けては、足もとの土に置いていった。
帳面を作り直す先々で、見なれぬ者から手が伸びた。麓の村でひとり、括られた者が出た。修行者ふうの、鉢を持った男だったという。旅の私度僧が村はずれで乞食をしているところへ、目代の手の者が来合わせた。はじめは別の寺の名を口にしたらしい。だが、その寺に問い合わされれば終いだ。名を問われ、寺を問われ、度牒を問われて、最後は答えられなかった。縄を打たれ、国府へ引かれていった。鉢は、道に落ちたままだったという。誰も拾わなかった。
「おまえと同じような形の者よ」
爺は、担いだ鍬を持ち直した。男は、すぐには次を問えなかった。
「引かれてどうなります」
「さての」爺は、日に灼けた首をゆっくり回した。「還俗させられて、本貫の戸に戻されるならまだ運がええ。戸の知れぬ身は、その場で課役に括られる。逆らえば、まあ、笞で済めばよいがの」
私度の人は、縦ひ経業有りとも、度に在らず。いつかの夜に囲炉裏の向こうで大足が引いた令の文言が、いま山裾の現実の形をしてそこに立っていた。どれほど経を諳んじていようが行を積んでいようが、帳面を持つ者の前ではそれは何の申し開きにもならない。男は、岩屋の奥の鉢が、いまどこに置いてあるかを思い出していた。
「山の衆は」と男は訊いた。「みな、どうしておられる」
「どうもこうも」爺は掘った根を一本、黒く欠けた爪で削り、鼻先で嗅いでから土を払った。「山におる者はたいてい、帳面から逃げてきた者よ。年貢に潰れて逃散した百姓。課役を嫌うた者。人を殺めて山に入った者もおらんとは言わん。おまえのような仏の道の者も、な。みな里に置いてきたものがある。だから深くは問わん。問わんかわりに、目代の動きだけは回しあう。炭焼きが窯の煙を三度に分けて上げたら里に手が入ったしるし、というふうにな」
「……売る者は、おらんのですか」
爺の手が止まった。
「おる」
短く言った。それから、暮れかけた谷のほうへ目を逃がした。
「褒美につられる者も、括られた身内を返してもらう代わりに山の者を差し出す者も、おった。昔の話ではないぞ。山はな、帳面の外の者の寄り合い所帯よ。売り買いを始めたら山が終わる。皆それを知っとるから、めったにはせん。めったには、な」
めったには。その一言の残りの部分を、男は胸に書き留めた。選り分けた根が、二人のあいだの土の上に置かれたままになっていた。
それから幾日か経った昼、遠い尾根の窯の煙が三度に途切れた。よく晴れて、風のない日だった。
男は芹摘みの手を止めてそれを見た。一度。間。二度。間。三度。里に手が入ったのだ。男はその日、火を落とした。摘んだ芹は籠のまま置いた。夕までに、葉の先が萎びた。誦を昼のうちは口の内に納め、岩屋の奥で書物を読んで過ごした。夕方、煙はいつもの一筋に戻った。過ぎたということだった。誰の声も聞こえなかった。煙だけが、しゃべった。
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その晩から、男は暮らしを締め直した。
火は乾いた薪だけにして、焚くのは霧の深い刻限に限った。食いものは日の高いうちに摘み、煮炊きは一度で済ませた。沢へ下りる道は、踏み跡を残さぬよう石の上を選んだ。里への乞食は、できるだけしてこなかった。灰は、風の出る前に埋めた。
残るは声だった。
煙と経の声は里からよう見える。爺は初めからそう言っていた。夜明けの誦は谷を伝い、風向きによっては里まで下りる。三年前の、あの夏の声も下りていた。里の者はありがたがったという。その同じ里を、いまは目代の手の者が歩いている。
男は試した。
まず誦の刻限を風の変わり目にずらした。次に声を落とした。喉の奥だけで回す、囁きほどの誦。口の中の真言。それでも遍数は進む。数は頭が勝手に刻んでくれる。行として成り立たぬはずはなかった。
成り立たなかった。
声を殺した真言は、谷に届かなかった。ただの口の中の呟きが、岩屋の内にこもって消えた。誦しながら、舌が乾いた。真言は歯の裏で潰れ、谷まで届く前に唾に溶けた。
三日続けて、分かった。あの行は、声と谷とでできている。一人でする行では、初めからなかったのだ。相手を失った誦は、遍数だけが積み上がって痩せていった。
追われるということは捕まる恐れのことではなかった。行の芯を削られることだった。
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雨の日、爺が蓑を着て上ってきた。谷は雨に烟り、里は見えなかった。
男は、問わなかった。訊けば、答えが重くなる気がした。
爺のほうが、蓑の水を払いながら、谷へ顎をしゃくった。
「この谷の下に里があろう。あの里の年寄りどもはな、朝の暗いうちに、谷の上の声が、ふと耳に入る日があるのよ。何を言うとるかは分からん。ありがたい経じゃということだけ、分かる」
男は黙っていた。
「あの声が聞こえる年は山が荒れん、と年寄りどもは言うとる。理屈は知らん。じゃが、婆さまが手を合わせとるものを銭で売る気には、里の者はならんもんでな」
男は言葉が出なかった。蓑の裾から落ちた雨が、足もとの岩を一点ずつ濡らしていった。
「おまえの声はな」と爺は言った。「もう、おまえひとりの声ではないのよ。まあ、目代の耳に入るのもその同じ声じゃがの。ありがたがる耳と括る耳と、風は選ばんでな」
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爺が帰ったあと、男は夕暮れの座に長いこと座っていた。雨は上がり、濡れた谷が暮れ残りの光を鈍く返していた。鳥がねぐらへ帰る声が、遠く近く、谷を渡った。
選べということだった。
声を殺して安全に痩せた行を続けるか。声を放って行を生かし、括られる日を風に任せるか。岐路には、これまでも立ってきた。だが、あのときは捨てるものを選んだ。今度は、括られる日を風に任せてでも、声を放つかどうかだった。殺した声のときの、あの喉の渇きが、まだ舌に残っていた。
男は目を閉じた。
顔は知らぬ。だが、その耳だけが、はっきりと浮かんだ。暗いうちに、谷の上の声を受け取る人たちの耳。その耳に、三年前のあの割れた声も届いていた。死にぞこないの若い声も。
それは、囲いの中で、聞いております、と言った、あの静けさに、どこか似ていた。
翌る朝、男はいつもの刻限に座に着き、息を整えて、いつもの声を谷へ放った。
真言が谷に落ち、岩壁を渡り、幾重もの響きになって戻ってきた。三日ぶりに行が生き返った。声は風に乗って、ありがたがる耳にも括る耳にも届くだろう。届いていい。隠れて生きる。火も道も顔も隠す。だが声は、隠さない。
誦し終えて、男は汗を拭いた。夏の朝日が谷の靄を金色に割って昇ってきた。里のほうの空は、まだ静かだった。炊ぎの煙が立つにはまだ早い刻限だった。あの空の下の、どの家の誰の耳に今朝の声が届いたのかは、知りようがない。知りようのないままで、よかった。
覚悟が決まってみると、行の前に立ちはだかるものは、外にはもうなかった。
残る敵は内にいた。声とともに今朝も一遍の狂いなく積み上がっていく、あの数。頭の中の帳面。目代の帳面から逃げおおせても、この帳面からはまだ一日も逃げられたことがなかった。




