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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第4章 山の七年
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第27話 二度目の谷

 谷は逃げずに、待っていた。


 沢をふたつ遡り、尾根をひとつ越えたところで、男は足を止めた。屏風のような岩壁が、春の霞の上に立ち上がっていた。三年前と寸分変わらなかった。変わったのは見上げる者のほうだった。あのときは髪があった。名があった。百日で戻るつもりの行李があった。いまは剃った頭に笠、一鉢、一杖。戻る先のない男がひとり、立っている。


 岩屋はあった。


 中腹の、風の当たらぬ窪み。三年前、来たときよりきれいに掃いて出た場所は、掃いたときの形のままそこにあった。三年ぶんの埃が、その形の上に薄く積もっていた。掌で払うと、下から同じ岩が出た。落葉が積もり、獣の寝た跡があり、隅の棚石に小さな苔が生えていた。三年ぶんの月日が、それだけの形をして積もっていた。男は敷居のない入口に立って、しばらく動かなかった。


 戻ってくる。その約束を、場所のほうに残していった。


 場所は覚えていた。


  *


 二十五の春だった。初めの十日は、行をしなかった。


 暮らしを作った。前の行で死にかけた者の順番だった。あのときは行が先で、暮らしが後だった。順を入れ替えるのに、三年かかった。干飯の袋が軽くなる速さと冬の来る速さを、身体で知らなかった。志だけで冬の谷に入る者から死ぬ、と沙門は言った。あれは脅しではなかった。ただの、山の算術だった。


 男は算術のほうから始めた。岩屋の奥の乾いた棚石を、貯えの場所に定めた。三巻の書物をいちばん高い段に納めた。湿気は、書物から殺す。次に雨水の受けを組んだ。岩壁を伝う雨垂れの筋を見きわめ、割った竹を渡し、桶に導く。竹の節は、拳の背で叩いて落とした。沢まで下りる水汲みは、雨の日には要らなくなる。薪は倒木を選んで、乾いたものから積んだ。生木は今年の冬のために、いまから干す。火種は絶やさない。囲炉裏の灰を深くして、埋み火の床を作った。獣は、火と人の臭いを覚える。夜半に外で何かが動く気配がしても、火の気があれば近くへは来ない。


 食いものの見当もつけた。春の山は、思いのほか豊かだった。沢筋の芹、日当たりの斜面の蕨、たらの芽。摘んで戻る道々、目が勝手に次の在り処を覚えていった。秋には栗と椎の実が落ちる場所を、いまのうちに覚えておく。塩だけは、どうやっても山では採れない。鉢を持って里へ下りる乞食こつじきは、できるだけしない。里に顔を覚えられることは、山で生きる者には両刃の刃物だった。施しは命を繋ぐ。だが、顔は噂になる。噂はいつか、帳面を持つ者の耳に届く。


 手が動いた。三年のあいだに身体が覚えたことだった。山寺の水汲み。薪割り。こぼさぬ歩き方。壊れたなりに続くすべ。書物のどこにも書いていないことばかりが、手から手首へ、腕から背へ住みついていた。夕暮れに、組み上がった雨受けを眺めた。客のつもりは、もうなかった。


 住むのだ。


 期限はない。百万遍が満ちる日まで。満ちなければ満ちないままで、ここで果てるまで。荷を解く、という言葉の重さを、男はこの十日で初めて知った。行李の底の三巻を、棚石の上に並べた。並べると、岩屋が部屋になった。人は、荷を解いた場所のものになる。都で解けば都のものになり、位の岸で解けば位に縛られる。男は谷の上の岩屋で、一鉢と一杖と三巻の、すべての荷を解いた。


  *


 山には、山の人の世があった。


 沢下に踏み跡があった。細いが、絶えていない道だった。点々と、掘り返しの痕。薬草掘りの仕事場である。遠い尾根には朝夕、細い煙が立った。炭焼きの窯の煙だった。夜、風向きによって微かに犬の声がした。里はずれの、猟師の犬だろう。


 人には近づかなかった。近づかないことが、互いの作法であるらしかった。


 それでも、ひと月ほど経った日、薬草掘りの爺と沢で行き合った。


 腰が「く」の字に曲がった爺だった。土のいろに染みた太い指は、爪が一枚、根元から黒く欠けている。その指が掘りたての根をふたつ、無造作に突き出した。男の僧形を頭から足まで一度だけ見て、何も問わなかった。


「煮ろ。精がつく」


「かたじけない」


「上の岩屋か」


「はい」


「前にも若いのが、三年前の春から、おったがの」爺は男の顔をもう一度、見た。それからふ、と鼻で笑った。「なんじゃ、おんなじ顔か。生きとったか」


「おかげさまで」


「おかげも何も、わしゃ何もしとらんわ」爺は掘りの手を止めずに言った。「あの年は里まで、おまえの声が下りてきよった。夏から秋、朝な朝な、谷の上からの。声のやんだ時分に、雪の来るのも待たず下りていきよってな。ありゃ、生きて下りたというより死にぞこねて下りた、いう顔じゃった」


 それだけ言って、爺は沢を下りていった。男は手の中の根を見た。掘りたての根は、まだ土の湿りを残して重かった。三年前の、声の割れた、雪の中を下りていった若者を、この山の人は覚えていたのだった。


  *


 夕暮れが、谷を下から染めていった。岩壁の上の空だけが、まだ昼の名残の色を残していた。


 男は岩屋の前の座に腰を下ろした。三年前に枯草を谷へ返した場所である。新しい枯草を、同じ厚さに敷き直した。座の下の土は、まだ春の冷えを残していた。


 行は、明日から始める。そう決めていた。今日までの十日は、暮らしの十日。明日からは、行の日々。その境目の夕暮れに、ひとつだけすることがあった。


 膝の座りが変わっていた。三年前は、組んだ足が七日で石になった。いまは、石になった膝の力の逃がし方を、身体が知っている。壊れた場所は、壊れたなりに、いつのまにか造り直されていた。行に向く身体は、生まれつきのものではないらしかった。


 男は息を整えた。谷に向かって、一遍だけ誦した。


 虚空蔵菩薩の真言。短い、梵語の句。三年ぶりにこの谷に置く声だった。声は、あの冬とは違っていた。割れて、癒えて、低くなった声。谷はその声を、一度、低く受け返した。岩壁の高いところで、山鳥が一羽、飛び立った。


 帰ってきた、という挨拶だった。


 行の一遍には数えない。数える行も、数えずにいられない頭との続きの勝負も、明日からだ。今日のこの一遍だけは、数の外に置く。谷への名乗りである。名のない者の名乗りだから、声だけでいい。


 響きが消えると、谷の底から夕靄が湧き上がってきた。三年前、下山の日に見たのと同じ靄だった。あのときは背を向けて見た。いまは、正面から見ている。


 男は岩屋に入り、火を埋けた。火の匂いが、岩屋を少しずつ家にしていった。


  *


 夜、火の脇で、男は懐から文を出した。


 灯がない。読めないと分かっていて、指が先に、字の在り処へ行った。なぞれば、文面は頭の中にそっくりある。風の行く先を、見ておる目は、ある。あの四角い生真面目な字だった。この覚えてしまう頭が、明日からは谷で敵になる。今夜だけは、それを忘れて、指に読ませた。


 見ておる目が、都にひとつ。それだけは、確かだった。


 あの人のことは、数に入れなかった。ただ、聞いております、と言った声が、いちど、山の夜の底をかすめて、消えた。


 男は火に枝を一本、足した。山の夜は、長い。都の夜はいつも、何かの音がした。車の音、犬の声、遠い管弦。山の夜の音は種類が違った。梟。風。岩の冷える音。その全部の下に、谷の水音が絶えずあった。


  *


 その春の終わり、薬草掘りの爺が岩屋まで上ってきた。曲がった腰に、根の詰まった籠を負っていた。


 根と塩の包みを置きに来たのだった。塩は、山ではいちばんの馳走である。爺は置いた根の一本を取り上げ、黒く欠けた爪の先で皮を薄く削って、断面を鼻に近づけた。薬か毒か、指と鼻のほうが頭より先に見分ける手つきだった。


「この谷は、夏が来ると人が変わったように荒れるでな。日和坂の下まで水の出た年もある。用心せえ」


 それだけ言って、帰りかけた。それから、思い出したように振り向いた。


「そういえば、里で妙な話を聞いたぞ」


「妙な話」


「国司さまが替わるそうな。秋には新しいのが来なさる」爺は鍬を担ぎ直した。「替わりばなの国司さまは、帳面をきれいにしたがるというでな。……人の帳面もな」


 人の帳面、というひとことが、耳に残った。


 戸籍も、計帳も、国のどの帳面にももう、この男の現在の姿は載っていない。都の学生の欄から消え、僧の名簿には初めから、ない。帳面の外の者を、新しい帳面はどう扱うか。


「爺どのは、なぜそれを私に」


「別に」爺はこちらを見なかった。「山の者は、山の者の話をするだけよ。……煙と経の声は、里からよう見えるでな」


 爺は下りていった。鍬の音が沢に遠ざかって、やがて水音だけになった。


 男は谷を見下ろした。夕靄の底に、沢の道が細く白く続いていた。あの道は里へ、里の先の国府へと通じている。その帳面が、秋には新しくなる。


 谷は、逃げない。


 だが、追われる者は谷にいても追われるのだった。

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