第26話 入山
出立の朝も、夜明け前だった。
三年前と同じ刻限。同じ静けさ。違うものが、ふたつあった。
ひとつは、置き文がないこと。言うべきことはもう、すべて三巻の書物に書いた。行李の底には、その三巻が入っていた。歩くと、巻軸の端が背に当たった。持って行け、行く先へ、と言った人の言葉のとおりに。
もうひとつ。文机の上に文が一通、置いてあったことだった。
真魚の、ではない。大足の手だった。夜のうちに置かれたものらしかった。真魚は灯を近づけて開いた。短い文だった。
――三年前の置き文に、返事をしておらなんだ。返事じゃ。風を繋ぐ縄はない、とおまえは書いた。老いた儒者が三年、考えた。考えて、答えが出た。縄は、ない。それは、認める。じゃが、真魚よ。風の行く先を、見ておる目は、ある。縄を持たず追いもせず、ただ見ておる目が、この都にひとつある。それだけは、覚えておけ。達者で、おれ。
真魚は二度、読んだ。それから丁寧に畳んで、懐のいちばん深いところに入れた。
寝所の戸は閉じたままだった。その向こうに、あの人が起きて座っている気配がした。戸は開かなかった。真魚も叩かなかった。板の向こうで、衣擦れが一度した。それきり、動かなくなった。三年前、廊下の足音が問わずに通り過ぎたように。見送らないことが、この人の見送りだった。
真魚は閉じた戸に向かって、深く頭を下げた。上げると、廊下の闇の奥に香の匂いが微かにした。灯明の、あの匂いだった。その匂いは、門を出るまで背中についてきた。
*
門を出ると、白みかけた闇のなかに人影が立っていた。
鷹雄だった。夜遊びの帰りではないらしい。この刻限に起きて、待っていたのだった。袖の内で、いつもの賽が鳴らなかった。代わりに、握った拳の骨が鳴った。気まずそうに、そっぽを向いたまま言った。
「あんたの書いたやつ。あの、続き。俺はまだ、最後まで聞いておらん」
「叔父上にお願いしてあります。写しが成りますゆえ」
「そうじゃなくて」鷹雄は舌打ちした。それから初めて、まっすぐに真魚を見た。目の険が、その朝だけは薄かった。「……死ぬなよ。あんたが山で死んだら、あの乞児の言うたことは全部、嘘になる」
真魚は、その言葉を受け取った。
蛭牙公子が、仮名乞児に餞をくれた。
「生きて、参ります」
*
あの橋の上で、真魚は一度だけ足を止めた。
三年前の朝、ここで川音の上に、あの一節を置いていった。この都で覚えたもののうち、いちばん深いものを。川音は、三年前より高かった。欄干の木肌が、夜のあいだの露で冷たかった。いつか取りに戻る日があるのかどうか、分からぬままに。川は三年前と同じ速さで流れていた。水嵩だけが、春のぶんだけ増えていた。岸の柳が、芽吹いたばかりの枝を水面に垂らしていた。
今日は、置いていかない。
真魚は欄干に手を置いて、低くあの一節を誦した。川音の上に、自分の声が細く乗った。三年ぶんだけ低くなった声だった。谷で割れて、割れたなりに続くすべを覚えた声だった。誦し終えて、思った。取りに戻ったのだ。置いていったものを、今日、取って行く。あの読経も。あの夕暮れも。焔ひとつぶんの距離も。言われなかった言葉も。何ひとつ置いては行かない。全部、持って行く。
捨てるために山へ入るのだと、人は言うだろう。
言わせておけばいい。真魚は欄干から手を離した。橋板を踏む足の下で、春の水が朝の光を運んでいた。
*
春の山寺に、沙門はいた。
薪を割っていた。三年前と同じ姿だった。真魚が門前に立つと顔を上げ、一度だけこちらを見た。
「戻ったか」
「はい」
「顔つきが、また変わったの」
斧を置いて、沙門は真魚をしばらく見た。何があったかは、問わなかった。
真魚はその場に膝をついた。
「お願いがございます。剃刀を、お借りしたい」
沙門の目が、わずかに深くなった。
「私度ぞ」
「存じております」
「国はおまえを僧とは認めぬ。法の上では、浮浪じゃ。都にも故郷にも、大手を振っては帰れぬ。……それでも、か」
「それでも、です」
「なぜ、いま剃る。髪など、俗体のままでも行はできようが」
真魚は少し、間を置いた。
「戻り道を、断ちます」
「道を、か」
「この足が歩いた道は、みな、この耳が覚えております。覚えたものは、消えませぬ。消えぬなら、せめて、戻れぬ体にする。髪は、その最初のしるしです」
沙門は長いこと黙っていた。それから立ち上がった。
「水を汲んでこい。谷の水をな」
谷の水は、春でも切るように冷たかった。桶を提げて坂を戻るあいだに、指の感覚が薄れていった。雪解けの水である。
汲んで戻ると、沙門は堂の前を掃き清めていた。それから剃刀を砥石に当てた。しゅ、しゅ、と規則正しい音が、春の境内にしばらく続いた。研ぎ上げた刃を水にくぐらせ、朝の光に一度すかした。急がなかった。
堂の前の日だまりに、沙門は真魚を座らせた。濡れた髪に、剃刀が当てられた。
じ、と微かな音がして、最初のひと房が落ちた。
真魚は目を開けたまま、それを見ていた。黒い髪が、膝の前の地面に落ちていく。ひと房、また、ひと房。生まれてから二十余年、伸びては切り、切っては伸びた髪だった。母が梳いた髪だった。それを落とすのだ、と一度だけ思った。都では烏帽子の下に納めていた。あの回廊の灯にも、この髪は照らされた。
位が落ちていく、と思った。名が。縁が。
佐伯の家の願いも、巨勢の卿の賭けも、婿がねと呼ばれた男も、数えようとしたが、指が追いつかなかった。数える先から、次の房が落ちていく。剃刀の音だけが静かに続いた。沙門は何も言わなかった。経も唱えなかった。ただ丁寧に剃った。日だまりの端で、鶯がひとしきり鳴いてやんだ。
やがて、音がやんだ。
頭に、春の風がじかに触れた。生まれて初めての肌寒さだった。
沙門が水桶を前に置いた。
水鏡のなかに、見知らぬ僧形の男がいた。頬のこけた、目の静かな若い沙門。いや、見知らぬ、ではなかった。知っていた。紙の上で会っていた。仮の名の乞食僧。仮名乞児。書いた男が、書かれた男になった。
落ちなかったものが、ひとつだけあった。
耳だった。髪をすべて失った頭の両側で、耳だけが、何もかもを覚えたままだった。潮の音も。母の経も。谷の白も。そして、あの夜、返さなかった言葉も。剃刀は髪を落とす。記憶は落とさない。それでよかった。
「名は、どうする」
と沙門が言った。
「真魚は俗名じゃ。剃った上は、捨てることになる。新しい名を、つけるか」
真魚だった男は、水鏡を見たまま、首を横に振った。
「いえ。いただく資格が、まだありませぬ」
「ほう」
「仮名乞児と、書物には書きました。仮の名の乞児と。まことの名はまだ、この世のどこにもないものです。あの谷の百万遍の先で、もし行き着けたなら、そのとき」
沙門は初めて、声を立てて少し笑った。
「よう言うた。名は、急ぐな。行の先で、向こうから来る。来た名が、まことの名じゃ。それまでは、無名の沙門でおれ。山には、名のない者がいちばんよう馴染む」
*
一鉢、一杖。
翌る朝、名のない沙門が山寺を発った。行き先は、南。阿波の国、大瀧の嶽。あの岩屋、あの谷、あの数の消える白のほうへ。往く道なら、覚えていてよかった。断ったのは、戻り道のほうだった。
沙門は門前まで出てきた。餞の言葉はなかった。かわりに干飯の袋を、行李に押し込んだ。それから、ひとつだけ言った。
「谷は、逃げぬ。じゃが、今度はおまえも逃げるな」
春の風が吹いていた。山裾の道の両側で、若い草が朝の光に濡れていた。道の先では、朝の靄がゆっくりと山肌を離れていくところだった。靄の切れ間に、南へ続く峰々が薄青く重なって見えた。
三年前、都を出た朝、風は背を押した。いまは、山から吹き下ろす風が正面から来た。構わなかった。繋がれぬ風が、繋がれぬ風のほうへ向かって行くのは、むしろ正しかった。
男は、笠の紐を締め直した。笠の内で、剃りたての頭が春の冷えに触れていた。
そして、山へ、入った。
*
ここまでが、世の人の知る、私の若い日である。
佐伯真魚という男の若い日は、書物にも書いた。隠すほどのことは、何もない。
ここから先が、違う。
山に入った名のない沙門が、ふたたび人の世に名を現すまで。あの、七年。
その七年を、私は誰にも語ったことがない。弟子にも。帝にも。あの、生涯でただ一人、道を並べて歩いた男にも。誰に問われても、山におった、とだけ答えてきた。四十年、そうしてきた。山におった。嘘ではない。ただ、それだけでもなかった。
この手は、いま筆を持って震えておる。山におった、と答えるたびに、この耳の奥で、鳴りやまなんだ音がある。その音のことだけは、まだ誰にも言うておらぬ。
それを、いま初めて、語り始める。




