第25話 ここにおります
三年ぶりに、真魚は参道の砂利を鳴らして歩いた。
殺してきた足音だった。三年前の春、答えを持たずに引き返した夕暮れも。ひと月前、灯の運びを遠くに見て退がった日も。あの耳に拾われぬことだけを考えて、砂利を殺して歩いた。今日は違った。一歩ずつ確かめるように鳴らした。拾ってほしかった。世界でいちばん、この足音を知っている耳に。夕暮れの参道に人影はなかった。冬枯れの松の影だけが、砂利の上に長く伸びていた。
堂に灯の入る刻限だった。冬の終わりの夕空に、香染寺の屋根が黒く沈んでいた。冷えた夕気に香の名残がかすかに混じっていた。回廊の奥で灯がひとつ、またひとつ点っていく。あの人の、夕のつとめ。
その灯の運びが、ふいに止まった。
真魚は山門の内で足を止めた。夜気が、参道の砂利の上に薄く冷えていた。踏むたび、音が三年前より大きく聞こえた。灯は動かない。回廊の柱のあいだで小さな焔がじっとこちらを向いていた。それから、灯が近づいてきた。急がず、乱れず、けれどまっすぐに回廊を渡ってくる。
三年ぶんの距離を、その灯が渡り終えた。
「足音が、いたしましたので」
あの声だった。少しも変わらない。灯に照らされた顔が静かに笑った。
「我ながら、困った耳です。三年も経ちますのに、まだ覚えておりました」
*
回廊の端の、いつもの場所に二人は座った。軒の外は、もう夜の色に変わっていた。
いつもの場所と呼んでいたことが、もう遠い昔だった。汀は、灯明を二人のあいだに置いた。置くとき、油の面が一度だけ揺れた。焔ひとつぶんの距離。それも変わらなかった。変わったのは男の風体だけだった。日に灼けた顔。削げた頬。擦り切れた袖。汀は何も言わず、長いことそれを見た。
「ずいぶん、遠くまで行っていらしたのですね」
「はい」
「お帰りなさいませ、とは申しませぬ。あなたは、帰っていらしたのではないのでしょう」
真魚は目を伏せた。この人は、三年経ってもこの人だった。言うべきことを、先に言い当てられてしまう。幾度も思い出した声が、いま、耳のすぐそばで鳴っていた。言い当てられて、喉の奥が詰まった。
「話して、くださいますか」と汀は言った。「三年ぶんの、季節の話を」
真魚は話した。南の国々の夏。山寺の沙門。谷へ落ちる夜明けの声。冬の薪割り。春の大瀧の嶽。割れた声と、裂けた唇。数えずにいられない頭と、一瞬だけ白くなったあの朝。そして都で書き上げた、三巻の書物。
汀は遮らず、最後まで聞いた。灯の油を途中で一度だけ注ぎ足した。注ぎ足された油の香が、ふたりのあいだに細く立った。
「その、数の消えた一瞬は」と、聞き終えてから汀は言った。「どのような、音がいたしました」
音か、と真魚は思った。景色でも、心持ちでもなく、音を。
「谷と自分の、境が消えました。誰の声ともつかぬ声だけが、ありました」
「まあ」
汀は目を細めた。それからひとりごとのように言った。
「わたくしの知らない場所で、あなたの声は、そんなところまで行っていたのですね」
*
言わねばならぬことを、言う刻限が来た。
真魚は居住まいを正した。
「三年前、この門の前まで来て、入らずに戻りました。答えを持たずに、あなたの前に立ってはならぬと思ったからです。今日は、答えを持って参りました」
袖の下で、指が膝を握っていた。握った指を、ゆっくりひらいた。
灯の焔が微かに揺れた。
「山へ、参ります。春になったら。今度は、戻りませぬ。髪を、下ろします。国の許しは、得られませぬ。私度の身は、法の外の身。位に戻る道は絶えます。佐伯の名も、都の縁も。そして」
声が、そこで一度途切れた。言葉の達者な男の最後の言葉が、いちばん重かった。
「参詣人として、この門をくぐることも、もうできませぬ」
汀は動かなかった。
灯を挟んで静けさが長く続いた。堂のほうから、夕の勤行が低く聞こえていた。あの声だ。すべての始まりの、あの覚え終わらない声。それがいま、二人の沈黙の地になっていた。
「百万遍の、続きを」と、やがて汀が言った。「なさりに、行くのですね」
「はい」
「あの、数の消える白いところへ。あなたの、いちばん静かなところへ」
「はい」
汀はうつむいた。灯の丸い明かりのなかで、その手が数珠を強く握った。骨が白く浮くほどに。真魚はそれを見た。見てしまった。この人が、こんなふうに何かを握りしめるところを、見たことがなかった。
「真魚さま」
汀が、顔を上げた。
その唇が、動きかけて――今度は、止まらなかった。
*
ここから先を書く前に、言っておかねばならないことがある。
私は、この五十年、多くを書いてきた。経を書き、論を書き、碑を書き、人の生き死にの際の言葉を、数えきれぬほど書き取ってきた。筆は、私の生涯の道具であり、道そのものだった。
その私が、生涯でただ一度、筆を置く場所がここだ。
あの夜、彼女が何を言ったか。
それだけは、ここに書かない。
書けないのではない。一字も違えず、覚えている。あの声の高さも、途切れた息も、灯の爆ぜた音まで。何もかもを覚えてしまうこの呪われた耳は、あの言葉を四十年、一夜も欠かさず抱えてきた。
だが、あれは書いてはならない言葉だ。
あの人は、生まれてこのかた何ひとつ求めなかった人だった。求めないことを、囲いの中で息をするための作法にしてきた。言えば終わる、言わなければ続く。ふたりで結んだその掟を、誰より固く守ってきたのも、あの人だった。その人があの夜、生まれて初めて、掟を自分から破った。生涯にただ一度きりのその言葉を、他人の目に晒してよいはずがない。あれは、あの人のものだ。あの人と、この耳だけのものだ。
分かってもらわねばならぬことは、ふたつだけだ。
彼女が初めて、求めたこと。
そして私が、答えなかったことだ。
*
どれほどの沈黙だったか。
灯明の油が目に見えて減るほどの間、真魚は答えなかった。軒の外で、冬枯れの松が一度だけ鳴った。目を伏せもせず、まっすぐにあの人を見たまま、口を開かなかった。
答えられなかったのか。答えなかったのか。
ただ、その沈黙の底で、若い男の内側が音もなく裂けていたことだけは、記しておく。何を選んでも何かが死ぬ。それだけが分かって、選べなかった。これ以上は、あの夜の沈黙に返す。
やがて。
汀の手から力が抜けた。数珠が乾いた音をひとつ立てた。
目を伏せて長く息を吐いた。顔を上げたとき、そこにはあの静けさが戻っていた。やり直された静けさだった。真魚が知る限り、この世でいちばん強くて悲しいものだった。
「……いま、わたくしが申したことは」と、汀は言った。「言わなかったことに、いたします」
「汀どの」
「言われなかった言葉なら、いくらでも、抱えていられます。あなたも、いまの言葉を、そのように抱えてくださいまし。答えは……要りませぬ。答えのないままで、あの言葉は、わたくしとあなたのあいだに、あり続けますから」
そして汀は背筋を伸ばした。
「行っておしまいなさい」
灯の焔が、その顔を下から照らしていた。
「わたくしは、ここにおります。この囲いの中で、灯を守って、経を聞いて。あなたの声が届く日を、ここで聞いております。それを見届けることだけは、誰にも、わたくしから奪えませぬ」
*
山門まで、汀は送ってきた。
三年前はなかったことだった。夜気は、灯の焔を細くするほどに冷えていた。門の内と外の、境の敷居の上で、汀は手にしていた灯明を傾けた。袂から出した紙燭に火が移った。
「長い、夜道でございますから」
いつかの冬の夜と同じ手つきだった。真魚は両手で受けた。小さな焔が二人のあいだで揺れた。焔ひとつぶんの距離。生涯縮まらず、消えもしなかった距離。
「行って参ります」
真魚は、言った。行って参ります。それが帰る者の言葉だと、言ってから気づいた。汀が、微かに笑った。気づいた者の笑いだった。それを、二人とも正さなかった。門の外へ、はじめの一歩を置いた。三年前は、この一歩を踏まずに帰った。
真魚は背を向けて歩き出した。背の後ろで、砂利が一歩ごとに鳴った。
振り返らなかった。振り返れば、終われないことを知っていた。ただ、参道を出て道を折れる、その最後の一歩まで、背中の耳は聞いていた。砂利を踏む音は、ついに追ってこなかった。回廊へ戻る衣擦れも、聞こえなかった。あの人は山門の敷居の上に灯を持って立ち続けていた。
夜道は長かった。真魚は三年前の冬と同じように、何度も立ち止まり、背を丸め、両手で焔を囲って風から守った。夜風が出るたびに焔は身を縮め、囲った指の間で小さく息を吹き返した。月のない夜で、焔の届く先だけが道だった。
夜道の果てで、紙燭が燃え尽きた。
最後の熱が指先に残った。
夜が、明ける。山へ発つ朝が来る。




