第22話 一遍目
最初の一遍は、誰にも聞かれずに谷へ落ちた。
そこへ至るまでに、ひと冬があった。
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冬のあいだ、真魚は山寺で身体を作った。
夜明け前に起き、水を汲み、薪を割り、雪を掻いた。沙門は行の作法を少しずつ教えた。座の組み方。息の通し方。手に結ぶ印。そして、真言。
虚空蔵菩薩の真言は、短い梵語の句だった。真魚は一度聞いて覚えた。音の高低も、句の切れ目も、沙門の吐く息の量まで、そっくり写し取った。誦してみせると、沙門はしばらく黙っていた。割れた爪の指で、膝を一度なでた。
「……覚えたか」
「はい」
「気の毒にな」
沙門はそう言って笑った。意味は教えなかった。「分からぬままで、よい。谷で、分かる」いつもの言い方だった。
雪の晩、囲炉裏の火を挟んで、沙門はひとつだけ行の話をした。
「一日一万遍。口で言うだけなら、たやすい。起きておるあいだじゅう、同じ句だけを言うて、百日暮らす。人の頭というものはな、若いの、それに耐えるようにはできておらん。耐えられるのは、頭をやめた者だけじゃ」
「頭を、やめる」
「おまえには、いちばん遠い場所よ」
火が爆ぜた。真魚はしばらく黙ってから問うた。
「……あなたさまは、おやめになれたのですか。頭を」
沙門は火を見たまま、割れた爪の指を火にかざした。
「やめられたのなら、こんな山の中で、まだ誦してはおらんよ」
真魚はその答えを幾晩も考えた。百万遍を終えた人が、まだ誦している。行は、終わるものではないのか。答えは出なかった。出ない問いを抱えて春を待つことが、その冬のいちばんの行だった。
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春、真魚は大瀧の嶽に入った。
発つ朝、沙門は干飯の袋と塩の包みを行李に押し込んだ。袋の重みが行の長さを語っていた。それから言った。
「戻ってきて、よい。中断は、負けではない。死ぬるのが、負けじゃ。谷は、逃げぬ。逃げぬものを、慌てて掴みにゆくな」
大瀧の嶽は、深い山だった。
阿波の国の山また山の奥である。教えられたとおりに沢を遡り、尾根をふたつ越えると、岩壁が屏風のように立ち上がった。その中腹に、風の当たらぬ岩屋があった。沙門が若いころ籠った場所だという。岩屋の前は切れ落ちた谷で、底から水の音が絶え間なく昇ってきた。見上げると、切り立つ岩の上に、春の空が細く切り取られていた。
真魚は岩屋を掃き、水場を確かめ、座を整えた。三日かけて支度を終えた。四日目の夜明け、東が白む前に座に着き、印を結び、息を整えて、最初の一遍を誦した。
自分の声が谷へ落ちて消えた。
二遍目を誦した。三遍目を誦した。谷の水音が、遍と遍のあいだを埋めた。
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行は、身体から壊れ始めた。
十日目に、声が割れた。喉の奥が腫れ、飲み込むたびに火を呑むようだった。二十日目には唇が裂けて、誦すたびに割れ目がひらいた。血の味が真言の音に混じった。膝と腰は七日目から石になっていた。夜、横になっても組んだ足の形のまま身体が解けなかった。岩屋の冷えが、夜ごと骨に沁みた。
飯は朝と夕、干飯をひと握りずつ。木の芽と、沢の水。眠りは一刻半。沢の水は、日を追うごとに冷たさを増した。幾日かは、その水で腹を下した。それも、山の課す一遍だと思うことにした。
人の声のない世界には、音があふれていた。夜明けの鳥が、刻限ごとに鳴き替わる。昼は、風が尾根を渡る。夕は、猿の声が谷から谷へ渡ってゆく。夜は、闇そのものが鳴った。梟、獣の足、名の知れぬ羽音、岩の冷える音。初めは怖かった。やがて一つひとつ聞き分けられるようになり、いつしか、それらはみな誦声の地になった。
人のいない世界は、遠い声も呼び込んだ。疲れの深い日ほど耳は遠いものを鳴らした。潮の音。母の経。大学寮の朝の鐘。そして、あの寺の読経。低く、うねる、あの声。
あなたの目は、わたくしを見るときと、あの経を聴くとき、同じ色をなさいます。
あの人の声が、谷の響きのなかを過った。真魚は振り払わなかった。誦しながら思った。あの人を見ていた目と、この谷を見ている目が、同じ渇きの、同じ向きなのかもしれない。そう思おうとしたときだけ、裂けた唇が、少しだけ痛まなかった。
それでも、続いた。冬に作った身体は、思ったより保った。声は割れたなりに、割れた声の誦し方を覚えた。裂けた唇は、傷のひらかぬよう浅く動かすすべを、いつのまにか身につけた。
だが、数は思うようには伸びなかった。はじめのひと月は、千も誦せば喉が焼けた。身体ができて一日一万に届くころには、その声がまた底を抜いた。肋が指に触れ、急に立てば目の前が暗んだ。百日と沙門は言ったが、たやすい百日ではなかった。
壊れなかったのは、ただひとつだけだった。
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真魚の頭は、数えていた。
数えようと思ったのではない。誦した遍数を、あの生まれついた力が勝手に記録する。一万と三百二。一万と三百三。間違えない。眠りから覚めても、昨日までの総数が帳面のようにそこにある。
沙門は、数珠と小石を持たせてくれた。数は指と石に預けよ、口は誦にだけ使え、と。だが真魚には、その必要がなかった。初めは便利だとさえ思った。
やがて、気づいた。
誦している口と、数えている頭が、離れている。口は真言を回し、頭は数を刻む。割れた声が句を取りこぼしても、頭はその取りこぼしごと、正確に一遍と数えた。八万四千六百十一。八万四千六百十二。間違えない。では、自分はどこにいるのか。どこにもいなかった。誦声は谷に響いているのに、その声の内側に誰もいない。山の奥の岩屋の上でさえ、自分は自分の声の外にいた。
覚えようとする口は、百万遍を数えられぬ。
沙門の言葉の底が、身体から立ち上がってきた。あれは、数え間違えるという意味ではなかった。逆だ。数えられてしまう者は、百万遍を誦しても百万回、数を刻むだけだという意味だった。頭をやめた者だけが耐えられる行に、頭をやめられぬ者が座っている。
おまえには、いちばん遠い場所よ。
気の毒にな、と沙門は笑った。その笑いの意味が、いま裂けた唇に沁みた。忘れる扉を、自分は持っていない。
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それでも、一度だけあった。
何万遍目だったか。それが分からないことこそが、その証だった。夏の終わりの、夜明け前。眠りが浅く、飯が細り、疲労が底を打った朝である。誦していた。誦しているとも思っていなかった。息と声の境が崩れていた。谷の水音と、自分の声の境も崩れていた。
数が、消えた。
帳面が、白くなった。声だけがあった。誰の声ともつかない声だった。谷が鳴っているのか、自分が鳴っているのか。あの山寺の朝、峰から落ちてきた沙門の声を庫裏の外で裸足のまま聞いた、あのときの感じが、内側から――
真魚は、それを掴もうとした。息を、その白のほうへ寄せた。
寄せた、その手ごたえのなかで、八万。いや、九万をいくつか。
数字が戻った。あの力が、白くなった帳面を、几帳面に埋め直したのだ。一遍の狂いもなく。掴もうとした指の内側で、ひらきかけた何かが、数字の音を立てて閉じた。
喉の奥で、声にならぬものが一度つかえた。気づけば、誦しながら泣いていた。
生まれて初めて、自分の才が憎かった。一度で覚えてしまい、忘れることができず、数えずにはいられない。幼いころから皆が羨み、位の岸への切符と言われた、この力。その同じ力がいま、たったひとつ欲しいものの前に壁になって立っていた。
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初冬の朝、雪が来た。
岩屋の前の谷が、ひと晩で白くなった。干飯の袋はとうに軽く、塩は底が見えていた。声は、幾日か前から、朝いちばんが出づらくなっていた。そして、その朝、誦しかけて気づいた。割れた声のさらに底が抜けて、息だけが漏れた。白い息が、雪明かりのなかに薄く散った。雪の下で、谷の水音だけは変わらず昇ってきた。
真魚は長いこと、座ったまま雪の谷を見ていた。
十万遍あまり。百万遍には遠い。頭は、最後までやまなかった。数珠を握った指は、数える形に固まったままだった。あの夏の夜明けの一瞬をのぞいて、白は二度と来なかった。
だが。谷は、確かにあった。
あの一瞬、たしかに扉の隙間から風が来た。あれが錯覚なら、錯覚ごと欲しい。あの気配は、書物のどの頁にもなかった。
死ぬるのが、負けじゃ。
沙門の声を思い出して、真魚は座を解いた。石になった膝が、音を立てた。
山を下りる。冬を越し、身体と喉を癒す。それから、もう一度。
岩屋を、来たときよりきれいに掃いた。座に敷いた枯草を谷に返した。ここへ戻ってくる。その約束を、場所のほうに残しておきたかった。
いや、と雪の尾根を下りながら思った。石になった膝を送り出すたび、頭の隅に刺さったものが疼いた。讃岐の父母の顔。大足の、あの夜の足音。断ち切ったつもりの索が、一歩ごとに、うしろへ引いた。
都へ。残してきたものに、けじめをつけに。




