第21話 沙門の声
山寺の門前に立ったとき、真魚は都を出てから季節を二つ数え終えていた。
夏のあいだ、南の国々を歩いた。寺と聞けば寄り、行者と聞けば訪ね、山の行法の噂を辿った。噂は多かった。あの峰の洞に百日籠った聖がいる、あの谷に不動を彫る行者がいる。辿ってみれば、どれも痩せた話だった。
ある山では、噂の聖が里の女に飯を運ばせていた。腹の出た、目の濁った男だった。真魚を見ると、喜捨はどこかと掌を出した。別の山では、行者だという痩せた男が、杖にすがって岩を登れずにいた。真魚がその肘を支えてやると、男は礼も言わず、この山はもう法力が尽きたと吐き捨てて、麓へ下りていった。
草鞋は三足履きつぶした。顔は灼け、腕は骨が浮いた。都の誰が見ても、もう大学寮の俊才とは分からぬ姿だった。それでよかった。俊才という言葉を、真魚はもう聞きたくなかった。
その寺の噂だけが、少し違っていた。
教えたのは、峠の茶屋の媼だった。片方の目が薄く濁って、白く曇っていた。囲炉裏の灰を掻きながら、媼は真魚の椀に粟の粥を足してくれた。
「あの峰にはな、経を谷へ誦す坊さまがおる。夜明け前に、声がする」媼は灰の中の芋を、火箸で器用に転がした。「気味悪がる者もおるがの。あの声の聞こえた年は、山が荒れん。だから麓の者は、あの声で寝るのよ」
夜明け前になると、谷へ声が落ちるのだという。
いつか、桜の下の宴で、旅慣れた老官人が言ったことがあった。この世の声のうちにも、ずいぶん遠くから来る声がある、と。酔客の座興に紛れたそのひとことだけが、なぜか耳の底から消えずにいた。真魚は椀を置いて峠を指した。媼は火箸で北の斜面を示した。
落葉を踏む音だけが、しばらく供をした。
*
山寺は、寺というより庵に毛の生えたようなものだった。
堂がひとつ、庫裏がひとつ。囲いの塀もなく、斜面に置き忘れられたように建っている。都の寺の伽藍とは何もかもが違う。ただ、堂の前だけは掃き清められていた。落葉の季節の山の中で、そこだけ土に箒の目がまっすぐ通っていた。
沙門は一人で住んでいた。
歳のころは真魚より十ほど上に見えた。大男でも異相でもない。中背の、痩せた男だった。真魚が門前に立ったとき、沙門は薪を割っていた。斧を振り下ろす手は止まらぬまま、顔だけをこちらへ向けた。手の甲は節くれ、親指の爪が割れて黒ずんでいた。
「……飯は、食うたか」
それが最初の言葉だった。
名も問わず、来し方も問わず、沙門は真魚に粥を食わせた。その日から、黙って寺の仕事に使った。水汲み。薪割り。堂の拭き掃除。落葉の掃き寄せ。都で身につけたものは、何ひとつ役に立たなかった。毛詩も、左伝も、雄弁も、水桶の重さを一匁も軽くしなかった。
水は谷まで下りて汲んだ。行きは空の桶がかたかたと鳴った。帰りは満ちた水が、一歩ごとに肩へ食い込んだ。初めの日は半分こぼした。三日目に、こぼさなくなった。こぼさぬ歩き方というものが、あるのだった。書物のどこにも書いていないことが、身体の側にひとつずつ溜まっていった。それでも桶を担ぐ道々、真魚の口はひとりでに動いた。覚えた詩の一句、経の一節を、癖のように転がしている。汲んだばかりの水面に、峰の朝空が映って揺れた。
沙門はほとんどしゃべらなかった。指図もしなかった。自分が黙って動くだけで、真魚がそれを見て覚えた。見て覚えることなら、誰にも負けない。ただ、目が覚えた薪割りと、手が覚えた薪割りは別のものだった。それを、豆のつぶれた掌が教えた。
夜明け前になると、沙門は一人で峰へ登った。
*
初めてその声を間近に聞いた朝のことを、真魚はいまも掌で覚えている。冷えた土の感触として、足の裏が覚えている。
まだ暗いうちに、耳が勝手に起きた。吐く息が白かった。足の下の土は霜を含んで、じんと冷たかった。声は峰のほうから来た。低く、太く、同じ短い句を繰り返している。意味は分からない。梵の言葉らしかった。
都の寺の読経とは違った。あれは幾人もの声が重なる、厚い荘厳の声だ。これはたった一人の声だった。たった一人の声が谷という谷に響いて、山のほうがそれに和していた。声が谷を震わせ、谷の響きが声を支えた。誦しているのが人なのか山なのか、聞いているうちに分からなくなった。
夜が明けて、声がやんだ。谷の底に、水音だけが残った。
真魚は、気づくと庫裏の外の土の上に裸足で立っていた。いつ出たのか覚えていない。何もかもを覚える男が、自分の足のことだけを覚えていなかった。
朝餉のとき、沙門は真魚の汚れた足の裏をちらりと見た。何も言わなかった。ただ、その日から粥が少し濃くなった。
*
十日が過ぎた朝、沙門は薪を割る手を止めた。止めたのを、真魚は初めて見た。
「何を、しに来た」
薪の束を負ったまま、真魚はその問いを正面から受けた。十日待った問いだった。いや、都を出てから季節二つぶん待った問いだった。だから、答えは用意してあった。
「私は都で学問を修めました。その果てに、文字の学びの底が見えたのです。ですから」
「待て」
沙門は斧を薪の台に立てた。
「それは、いま考えた言葉か。それとも、峠を登りながら拵えてきた言葉か」
真魚の口が止まった。
「拵えてきた言葉なら、聞いても仕方がない。ここには、飾る相手がおらぬ。谷は、うまい口上に感心せぬ」沙門は台に立てた斧の柄に手を置いた。「もういっぺん訊く。飾りを取って、言え。何を、しに来た」
真魚は負った薪をそっと地に下ろした。
用意した言葉が、みるみる嘘くさく思えた。都でなら、あの言い回しで卿を唸らせ、詩宴の座を沸かせた。ここでは、同じ言葉が身の丈に合わぬ借り着のようだった。
「虚空蔵求聞持法を、修したいのです」
「なぜ」
「覚えることなら、できてしまうのです」
言ってしまってから、真魚は自分の声に驚いた。用意した言葉ではなかった。飾りを剥がされた奥から、勝手にこぼれた言葉だった。
「幼いころから、一度見たものは忘れませぬ。聞いた声も、消えませぬ」
真魚は、自分の掌を見た。豆のつぶれた、汚れた掌だった。
「その力で、覚えることの先まで来てしまいました。覚え終えた書物は、手のなかで冷えていくのです。なのに、飢えだけが残る。何に飢えているのか、それすら分からぬのです」
声が、かすれた。
「記憶なら、あり余るほどあります。あり余って……その先で、飢えているのです」
言い終えて、口の中が乾いていた。都で卿を唸らせた舌が、この山では、ただ震えていた。
母にも、大足にも言えなかった。あの人の前では、言葉そのものを、探さなかった。なぜ、いま、この名も知らぬ男の前でなのか。真魚には分からなかった。
沙門は長いこと黙っていた。谷のほうで、鳥が一羽、鳴いて渡った。それから、割れた爪の指が、自分の胸のあたりを軽く叩いた。
「おまえの欲しいのは、記憶ではあるまい」
*
「経が約束するのは、文義の暗記じゃ。真言を、一百万遍」
真魚は思わず数えた。一日に一万遍を唱えたとして、百日。行者はそう区切ると聞いたことがある。
沙門は堂の縁に腰を下ろした。冷えた空気に、軽く咳をした。
「覚えるためなら、正気の沙汰ではない。書見のほうが、よほど早い。おまえも、そう思うたろう」
図星だった。
沙門は遠い昔、師からこの法を呈された、と言った。若いころのことだ、と。
「百万遍の、どのあたりだったか。数が消えるときが来る。数えておるのは口だけになって、誦しておるのは、もうわしではなくなる。谷が誦し、夜明けの闇が誦す。わしという器が、からになって、そこへ――」
沙門は、そこで言葉を切った。冷えたか、また軽く咳をして、膝の上で手を握った。
「いや。この先は、言葉にすると嘘になる。言葉にならぬから、百日かかるのじゃ。言葉で渡せるものなら、経文一巻で足りる」
真魚の背筋を、冷たいものが上っていった。
あの夜も、そうだった。縁談を断る詫び状が、どうしても書けなかった。詫びの言葉はいくらでも湧いて、そのどれもが紙に置いたとたん、言い訳の形になった。本当のものだけが、乗らなかった。その理由に、いま初めて、他人の口が名を与えた。
沙門は、真魚の顔を長く見た。笑ったのかもしれない。うつむいた横顔では、分からなかった。
*
沙門は庫裏の奥から、一巻の経を持ってきた。
古い、手ずれのした巻子だった。墨の色は褪せ、軸の端は幾人もの手の脂で黒く光っていた。虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法。師から弟子へ、手から手へ渡ってきた一巻だ、と沙門は言った。
「持って、行け」
「よろしいのですか」
「経は、読む者のもとへ行きたがる。わしのところで、この一巻はもう仕事を終えた」沙門は巻子を真魚の両手に載せた。載せたあとの手が、ふと軽くなったように見えた。それから、擦り切れた数珠をひとつ、経の上に置いた。玉のいくつかは、繰りすぎて角が丸くなっていた。「一連を繰り終えるたび、脇の小石を、ひとつ移せ。口は、誦にだけ使え。数は、指と石に持たせよ。冬のあいだ、ここで身体を作れ。山の行は、身体が先じゃ。志だけで冬の谷に入る者から、死ぬる」
「はい」
「春が来たら」沙門は顎で、山なみの向こうを示した。「海を渡った先に、阿波の国がある。大瀧の嶽という山じゃ。わしが修した山でな。谷が深い。声が育つ。谷は、逃げぬ。行ってみよ」
それから、思い出したように腰を上げた。斧を取り、また薪の台へ戻りながら言った。
「ひとつだけ、先に言うておく。あの行は、おまえの覚える力を助けにはせぬ。むしろ、あれがいちばん先に邪魔になる。覚えようとする口は、百万遍を数えられぬ」
沙門は斧を構えた。
「意味が分からぬか。分からぬままで、よい。谷で、分かる」
真魚は、両手の中の一巻を見た。
渇きの名が、そこにあった。桜の下で、嘲りの形で投げられた名だった。それが、いままっすぐな声と、割れた爪の手で、渡し直された。同じ名が、これほど違う重さで掌にある。
深く頭を下げた。上げたとき、沙門はもう薪を割っていた。斧の下りるたびに白い木肌が割れ、山の匂いが立った。
山の秋が暮れていった。谷の底から、夕靄が静かに湧いた。峰の稜線が藍に沈み、堂の前の掃き目だけが、夕明かりの底に白く残った。真魚は巻子を胸に抱え、しばらくその掃き目を見ていた。まっすぐ通った箒の目を。書物のどこにも書いていない、手が覚えた一本の線を。




