第20話 足音のない夏
噂は、蝉より少し遅れて囲いの内に届いた。
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都の夏は、その年も暑かった。蝉の声が、朝から屋根を圧していた。
大足は、文机の前に座っていた。讃岐への文を、書かねばならなかった。甥が消えて、ふた月になる。兄者への報せを、これ以上延ばすわけにはいかない。
「真魚儀、此度」
書いて、筆が止まった。墨の玉が、紙に落ちた。此度、何なのか。出奔つかまつり候、と書けば兄者は倒れる。学問を捨て候、と書けば嘘になる。あれは学問を捨てたのではない。学問の先へ行ってしまったのだ。だが、そんな理屈が浜の一族に通じるとも思えなかった。
風を繋ぐ縄はない、と書きかけて苦笑した。あれの洒落を兄者に説く気力はなかった。
空の部屋は、あの朝のままにしてある。文机も硯も、あれが揃えて置いていったままに。家の者は片づけましょうかと言ったが、大足はそのままにさせた。理由は、自分でもよく分からなかった。ただ、あの部屋の戸を開けるたび、几帳面に整えられた文机が置き文の続きのようにそこにあった。学恩は生涯、忘れませぬ。あの几帳面さが、あれの詫び方なのだった。
夜半、大足はようやく数行を書いた。
「真魚儀、学業の道を究めんがため行く先を告げず、遊学つかまつり候。身は、達者の由」
嘘は、ひとつも書かなかった。本当のことも、ほとんど書けなかった。書き終えて、大足は甥があの夜書き損じの山を築いた気持ちを少しだけ分かった気がした。
筆を洗いながらふと思った。あれは、いまどこの空の下で寝ているのか。橋の下か、山寺の軒か。飯は、食うておるのか。知らぬ。知らぬということの重さを、文を書き終えた夜の静けさが教えた。
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卿の耳にその報せが届いたのは、暑気の盛りだった。
あちらの姫に、新しい縁組がまとまったという。相手は、堅実な家の堅実な若者らしい。卿はうむ、とだけ言って使いを帰した。それから脇息にもたれて、庭の蝉の声をしばらく聞いた。
「これで、仕舞いじゃな」
帳尻は、合った。誰も、死ななかった。誰も、恨まなかった。ただ、一人の若者がいなくなっただけだ。近ごろ、若い者の書いた文章を読んでも面白うない。あの目の光を測り損ねてから、どうも物差しのほうが狂ったままだった。
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寺の境内に蝉が鳴いていた。井戸の水だけが、昼も冷たさを保っていた。
噂を運んできたのは、出入りの商人だった。井戸端で寺男を相手に都の話をひとしきり並べた、その中にそれは混じっていた。卿の後見を蹴って、出奔した学生がいるそうな。省試に通るは間違いなしと言われた俊才が、婚儀の返事もせず行く先も告げず消えたそうな。都では狐に化かされたか山の行者に憑かれたかと、もっぱらの噂だそうな。
老尼たちが、夕の水汲みのついでにその話をした。世間話の、ひとつとして。
「近ごろの若い方は、思い切ったことをなさる」
「親御は、讃岐とか。お気の毒に」
汀は、その輪の少し外で灯明の油を量っていた。手は、止まらなかった。止めれば、聞き入っていたと知られる。量り終えて、次の皿に移った。老尼の一人が、ふとこちらを見た。
「そういえばあの、よう参られた若い方も、近ごろとんとお見えになりませぬな」
「……ええ」
「よう、お経を聴いてゆかれる方でしたに。あのように熱心な参詣の方もめずらしい」
「ええ。熱心な方でした」
汀は、それだけを答えた。声は、揺れなかった。揺れない稽古なら、この囲いの中で誰よりも積んできた。老尼は、それ以上何も言わなかった。この寺の人々の、それがやさしさの形だった。問わないこと。気づいていて、気づかぬふりをすること。
汀は、驚いていなかった。
あの散りぎわの桜の回廊で、あの方が山の行法の名を口にしたあの声を聞いたときから。いや、もっと前、同じ色と言い当ててしまったあの午後から知っていた。あの方は、行く。位の岸でもこの囲いの前でもない、どこかへ。いつか、かならず行く。だから、驚かなかった。噂は、知っていたことが世間の言葉になって戻ってきただけだった。
驚かないことと、平気なこととは別のことだった。
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耳だけがいうことを聞かなかった。
参道に足音が立つたび、耳が勝手に聴き分けにかかる。砂利の踏み方。歩幅。重さ。商人の足だ。参詣の年寄りの足だ。どれも違った。
十日に一度と決まっていたわけでもないのに、身体のどこかが十日を数えていた。十日が過ぎ、また十日が過ぎ、耳はそのたびに参道の音の中から来ない足音を探した。我ながら、困った耳です。いつか、あの方にそう言って笑った。あのときは、まだ笑い話だった。人ごみの中からひとつの足音を拾える耳は、来ないと知り尽くしている足音を、それでも探すことをやめられないのだった。
蝉の声が境内に満ちていた。日ざかりの石畳は白く灼けて、打った水がすぐに乾いた。
蝉は、いい。あれだけ大きな声でいちどきに鳴いてくれれば、耳は探しものをしばらく休める。困るのは、夕暮れだった。蝉が引いて境内がもとの静けさに戻る、あの短いあいだ。参道の砂利が、よく鳴る。
あの方は、いつか言った。讃岐では浜の鳥と山の鳥がいちどきに鳴きます、と。うるさいほどに、と。この蝉の声を、あの方の耳はいまどこの空の下で聞いているのだろう。
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見張りの男が来たのは、盆に入る前だった。
久しぶりだった。刈られたばかりの夏草の匂いが参道に濃かった。男は参詣人の形をして境内をひと回りし、堂に手だけ合わせて帰っていった。汀のほうは、見なかった。見ないことが、見たということだった。
その晩、汀は庫裏の隅で老尼の一人にそれとなく聞かされた。あの学生の出奔は、都の然るべき筋でもひとしきり話に上ったらしい。寺に通っていたことを、知る者は知っている。だが女のためではなかった、ということで話は仕舞いになった。女のために出奔する男は、女のいる都に残る。山へ消える男の理由は、女ではない。誰が聞いても、そうなる。
「ようございましたな」と、老尼は静かに言った。「これでもう、どなたも詮索なさいますまい」
「……ええ」
疑いは、晴れたのだった。
あの方が消えたことで、汀の暮らしは前より安全になった。囲いは、しんとした。見張りの足も、遠のくだろう。すべてが、良いほうへ収まった。
安全になったことが、いちばん寂しかった。
自分の身の証が、あの方の不在で立つ。あの方がいないことが、自分の平穏の形をしている。そういう仕組みの中に、自分は住んでいる。汀は、灯明の芯をいつもより長く見つめた。焔がひとつ、風もないのに小さく揺れた。
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写経の紙の間に、花びらが一枚挟んである。
あの日、回廊で拾った散りぎわの一枚だった。白かった色は、夏を越えて薄い飴色に変わっていた。汀は夜、それをそっと開いて見ることがある。開くたび、思う。言えばよかったのか、と。あの日、言いかけてやめた言葉。喉まで来ていた言葉。
そして、そのたびに同じところへ戻る。
あの言葉を渡していれば、あの方はそれを背負ってしまう。言われた言葉はなかったことにできぬと、いつか自分で申し上げた。背負わせれば、あの遠くまで探しに行くような目の色は、わたくしを見るときと同じだというあの色は、きっと少しずつ翳る。その色を翳らせるくらいなら。
言わなくて、よかったのだ。
よかったのだと思うために、毎晩同じ道を歩き直すのだけれど。
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夕の勤行が果てた。
人の引いた堂に、汀は残った。灯明の列の前に、ひとり座った。堂の外では、日暮れの蝉がまだ細く鳴き残っていた。
祈りは、慣れない。この囲いの中で長く生きて、経は数えきれないほど聞いた。けれど自分のために何かを願ったことは、思い出せる限りなかった。願いは、囲いの外のものだった。願わないことが、この身の作法だった。
その夜、汀は生まれて初めてのように長く祈った。
自分のためでは、なかった。
どうか、と胸の内で言った。どうか、あの方がご自分の耳で、ご自分の答えをお聞きになれますように。あの覚え終わらないと仰った声の底から、あの方だけの答えが返ってきますように。あの方が、あの方の渇きの行き着く先に――
そして。
そして、と心がその先を言いかけた。
汀は、目を開けた。灯明の焔が、静かに並んで燃えていた。
その先は、仏にも言わなかった。
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同じ夏の終わり、南の国の山裾を笠の若者がひとり歩いている。日に灼け、埃にまみれ、都の誰が見てももうそれと分からぬ姿で。道の両側の田は青く伸びて、風が渡るたび稲の先がいちどきに傾いだ。草鞋の紐は擦り切れかけ、足の裏は土の熱を直に受けていた。
行く手の峠の向こうに、山また山が重なっていた。若者は笠の縁を上げ、その稜線を長いあいだ見ていた。どこかの谷から、名も知らぬ鳥の声が細く昇っていた。




