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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第3章 三つの岐路
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第19話 風を繋がん

 巨勢こせの卿の文は、吉日の知らせだった。


 省試の首尾は聞き及んだ、めでたいことだ、ついては月の半ばの佳き日にあちらの家と席を設ける。返事は、その席で聞く。やわらかな言い回しの底に、もう一寸も動かぬものがあった。期限は、日付になった。日付というものは動かない。決めた者も、それきり退けなくなる。真魚のほうだけが、まだ流れの中で足場を探していた。


 その晩、真魚は灯を引き寄せて筆をとった。


 詫び状を書くつもりだった。


  *


 書けなかった。


 省試の日には一度も迷わなかった筆が、白い紙の上で動かなかった。


 「学問なかばの身にて、この上の御恩に浴すること、心苦しく」


 書いて、捨てた。嘘ではない。だが、これではまるで遠慮の話になる。遠慮ならば、押し返されて終わる。


 「佐伯の家の願いに、この身は応えられませぬ」


 書いて、捨てた。これも嘘ではない。だが、これでは応えられない詫びの話になる。詫びならば、赦されて話が続いてしまう。


 「私には、行かねばならぬところがあります」


 書いていちばん長く見つめた。それから、捨てた。行かねばならぬところとは、どこか。山か。山とは、どこか。谷とは、何か。あの声の底にあるものとは、何か。問われて答えられる言葉を、真魚は持っていなかった。


 夜半を過ぎて、書き損じが文机の脇に積もった。灯の芯が短くなるたび火影が壁の上で大きく揺れた。


 廊下を足音が通った。大足だった。厠へでも立ったのだろう。足音は真魚の部屋の前で一度、緩んだ。灯の色が、障子越しに見えているはずだった。こんな刻限まで、何を書いているのか。問おうと思えば問える間だった。足音は、問わずに通り過ぎた。


 真魚は筆を持ったまま、その足音を最後まで聞いた。


 この家であの足音にどれだけのものをもらったか。それを言葉にすることも、今夜はできそうになかった。


 言葉の達者な男だった。生まれてこのかた言葉に詰まったことがほとんどなかった。人を説くにも、場を繕うにも、言葉はいつも呼ぶ先から並んでいた。その言葉が、今夜に限って一枚も使いものにならない。


 筆を置いて、真魚は気づいた。


 言葉が見つからないのではなかった。逆だった。言葉はいくらでもあった。遠慮の言葉、詫びの言葉、志の言葉。どれも紙の上では立派に立つ。そしてどれも紙に置いたとたん言い訳の形になった。本当のものだけが、そこに乗らなかった。


 覚えられぬもの。囲いの外にも内にも属さぬもの。覚え終わらぬ声の、底にあるもの。それを指す言葉は、まだこの世のどこにもないのだ。誰も、まだ作っていない。作られていない言葉を、書けるはずがなかった。


 書けないことが、そのまま行く理由だった。


 その言葉を、探しに行くのだ。


  *


 夜明け前、真魚はたった数行だけを残した。


 ――叔父上。学恩は生涯、忘れませぬ。


 行き先は、申せませぬ。理由は、まだこの世の言葉になっておりませぬ。いつかそれを言葉にできる日が来たならば、必ず書き記してお目にかけまする。


 吹き始めた風を繋いでおける縄は、ないものと、お諦めくださいますよう。


 最後の一行を書いたとき、初めて筆が省試の日のように動いた。風。そうだ、と真魚は思った。これは、志などというまっすぐなものではない。風だ。どこから吹いてきたのかも知れず、どこへ吹いていくのかも知れず、ただもう吹き始めてしまったもの。


 文を文机の上に置いた。硯と筆を揃えて並べた。長年の習いで部屋を整えてから、真魚は笠とわずかな行李を手に戸を出た。


 門を出るとき、一度だけ振り返った。灯の落ちた家は、眠りの底にあった。あの廊下の、あの足音に向かって真魚は深く頭を下げた。声には出さなかった。出せば、それも言い訳の形になる気がした。


 東の空は、まだ暗かった。軒の下の闇に、春の名残の花の匂いがかすかに沈んでいた。


  *


 朝、大足は甥の部屋の静けさですべてを悟った。


 戸を開けると、部屋は綺麗に片づいていた。朝の光が、開いた戸口から畳の上へ白く伸びていた。文机の上に、文が一通。大足は、立ったままそれを読んだ。読み終えて、もう一度読んだ。それから、ゆっくりと腰を下ろした。


「……風を、な」


 家の者が血相を変えて駆け込んできた。


「殿。追手を。街道は四つ、若君の御足でも、日のあるうちならまだ」


「よさぬか」


「なれど、卿の御家に、あちらの姫君にこの儀何と」


「わしが、詫びる」大足は文から目を上げなかった。「頭は、わしが下げる。それが、あれを預かった者の仕舞い仕事じゃ」


「お追いに、ならぬのですか」


「あれは、追うて戻る子ではない。縄で曳いて戻したところで、戻るのは身体だけよ。あれの中身は、もうとうにここにはおらなんだ」


 言ってから、大足は自分の言葉に深くうなずいた。そうだ。とうに、いなかったのだ。讃岐の浜で、潮の音を数えていたころから。書物を呑み尽くして、その先を見つめていたころから。この日が来ることを、自分はいつから知っていたのだろう。


 恐ろしい子じゃと、いつか浜で言った。


 その言葉だけが十年を経て、まだ狂っていなかった。


  *


 卿の邸へは、大足がその足で出向いた。


 畳に、手をついた。甥の不始末、詫びの言葉もございませぬ、と。卿は、脇息にもたれたまま庭を見ていた。桜はとうに散り終えて、青葉が初夏のような日を照り返していた。


「顔を、お上げなされ」


 卿の声に、怒気はなかった。庭の青葉が、風のたびに乾いた音を立てていた。


「賭けは、わしの負けじゃ。いや」卿は、少し笑った。「負けたのは、わしの物差しのほうよ。あれの目の光を、わしは位で測った。測れる光と、測れぬ光がある。それだけのことを、この歳になって教えられたわ」


「あちらの御家には……」


「わしから、話す。良い若者であった、家の器に収まらなんだだけじゃ、とな。それ以上は言わぬ。それ以下も言わぬ」卿は、庭の青葉にまぶしそうに目を細めた。「姫には、気の毒をした。じゃがな、大足どの。収まらぬ器を無理に収めて、収めた先で割れるよりはずっとよい。あの家にも、いずれ分かる」


「卿。あれは、いずれ戻りましょうや」


 問うてから、大足は自分がそれを誰よりも知りたがっていることに気づいた。卿は、しばらく青葉を見ていた。


「戻るまいよ。いや、言い直そう。戻るとすれば、あれは出て行った者としてではなく、別の何者かとして戻ってくる。わしらの知らぬ名で、な」


 大足は、もう一度頭を下げた。下げながら、この人が甥に賭けたものの大きさを初めて正しく知った気がした。


 辞するとき、卿が独り言のように言った。


「風を繋ぐ縄は、ない、か。言いおるわ」


  *


 真魚は、南へ歩いていた。


 都を出る前、ひとつだけ寄り道をした。あの小さな橋である。夕暮れに、あの一節を初めて声に出した、あの橋。寺へは、行かなかった。行けば、山門の前で足が止まる。止まった足は、たぶんもう動かない。それが分かっていたから、行かなかった。かわりに橋の上で一度だけ立ち止まり、川の音の上に低くあの一節を誦した。


 届くはずのない距離だった。届かせるつもりもなかった。ただ、置いていくのだ、と思った。この都で覚えたもののうち、いちばん深いものを、この川の音の上に。いつか、取りに戻る日があるのかどうか。それも、まだこの世の言葉になっていない問いだった。


 橋を渡ると、道は南へまっすぐに伸びていた。川面の光が、目の端で揺れて消えた。


 朝の街道には、もう人が出ていた。荷を負った商人、牛を曳く男、京へ上る旅の一行。すれ違う誰も、真魚を見なかった。笠をかぶった、行李ひとつの若者など、街道にはいくらでもいる。位の岸では名を惜しまれた男が、道の上では誰でもなかった。誰でもないことが、履き慣れぬ草鞋のように初めは奇妙で、歩くほどに足に馴染んだ。


 歩き出すと、背に風が来た。道の脇の草が朝露を光らせていた。露を含んだ道の土はやわらかく、踏むたびに草鞋の裏へ冷たさが染みた。


 春の終わりの、青い匂いのする風だった。都の朝は、背後で市の立つ賑わいを始めている。人の声、車の音、物を売る声。位の岸の、あの豊かなまっすぐな賑わい。それらが一歩ごとに遠くなった。遠くなるほど、不思議に胸の底は静かになった。惜しくないのか、と自分に問うてみた。惜しい、と正直な答えが返り、それでも足は止まらなかった。


 行く手には、山々が春の霞の底に青く重なっていた。


 あの霞の底のどこかに谷があり、谷にこもる声の、そのさらに奥に、まだ名づけられていないあの何かがある。都の栄えを思うたび心はそれに倦み、山の霞を見るたび腹の底が飢えた。この飢えに、嘘だけはなかった。


 風がまた背を押した。


 繋げる縄は、この世のどこにもない。


  *


 その報せが囲いの内に届くのは、蝉の鳴きはじめるころである。

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