第18話 言いかけて
桜の散る速さで、期限が来た。
花見の宴から数日ののち、真魚は巨勢の卿の邸に呼ばれた。二人きりの対面だった。庭の桜はもう葉のほうが多く、散り残りが石の上に色を留めていた。卿は宴の歌のことを責めなかった。責めないことが、事の重さをかえって告げていた。
「よい歌であった」と卿は言った。「よい歌、であったがな。あの席で詠むべき歌ではなかった。それはおまえがいちばん分かっておろう」
「は」
「わしは、おまえの才に賭けた。讃岐から出てきた、あの目の光に。いまも賭けは降りておらぬ」卿は庭に目をやった。散りはじめた桜が、風のたびに白く流れた。「じゃがな、真魚。賭けというものは、いつまでも張りっぱなしにはできぬのじゃ。あちらの家にも、姫の年頃にも、待てる限りというものがある」
卿は向き直った。
「省試が済めば、返事を聞く。受けるなら、わしがあちらの門を叩こう。断るなら、わしはおまえの後ろ盾を降りる。恨みはせぬ。ただ、それだけのことじゃ」
脅しの声ではなかった。長く人を見てきた者の、静かな帳尻の声だった。それだけに動かなかった。期限は置かれた。桜の下のやわらかな手は、もうなかった。
*
省試の日は晴れた。試場の庭の白洲が、朝の日を硬く照り返していた。
試場に居並ぶ学生たちの、墨の匂いと緊張の汗の匂い。配られた問題を真魚は一読した。毛詩から二問、左伝から一問、論語から一問。どの問いも底が見えた。どの答えも、書く前から胸の内で組み上がっていた。
筆は一度も迷わなかった。
書きながら、真魚は奇妙な静けさの中にいた。十年、この日のために覚えてきた。潮の音を数えた耳で書物を呑み、都へ出て、寮に入り、夜半の灯で書見を重ねた。その十年がいま、紙の上に流れ出てゆく。完璧に。何の引っかかりもなく。
引っかかりのないことが、こんなにも寂しいとは。
試が果てると、曹司は歓喜と嘆きに割れた。手応えを言い合う者、頭を抱える者、泣き笑いで肩を叩き合う者。真魚のまわりには人だかりができた。おまえは通った、間違いない、通十じゃ、上上じゃ。口々に言われて、真魚は笑ってみせた。笑いながら、胸の底に耳を澄ませていた。
位の岸への大きな扉が、いま開いたのだ。十年かけて、この手でこじ開けた扉だった。
その向こうから何の音も聞こえなかった。曹司の外では、夕暮れを告げる鐘の音が長く尾を引いていた。
その晩、家に戻ると大足がめずらしく酒を出した。
「手応えは」
「悪くは、ありませぬ」
「おまえが悪くないと言うくらいなら、人にとっては申し分なしじゃ」大足は盃に口をつけて、ふ、と笑った。「讃岐の佐伯の家から、大学寮の試に通る者が出る。兄者に早う知らせてやりたいものよ。おまえを都へ出すと決めた日、兄者は一晩じゅう寝なんだそうじゃ」
父の顔が浮かんだ。浜で見送った日の母の顔も。潮の鳴る国で、この知らせを待っている人たちがいる。その人たちの十年もまた、今日の紙の上に流れ出たのだった。
真魚は注がれた酒を静かな顔で干した。味はしなかった。
*
寺の桜は境内の隅に一本だけあった。
もう散りぎわだった。風のたびに花びらが回廊まで流れてきて、板の上にまばらに白く積もった。灯明の油の匂いが、暮れかけた夕気の中に薄く漂っていた。汀はいつもの場所にいた。
「桜は」と汀は隅の一本に目をやって言った。「今年は、早うございました。咲くのも、散るのも」
「ええ。待ってはくれぬものですね、花は」
「待ってくれぬから、花なのでございましょう」
それから汀は真魚に向き直った。
「試は、いかがでした」
「手応えだけなら、通ったかと」
「おめでとうございます」
汀は頭を下げた。作法どおりの美しい礼だった。作法どおりであることがこの人の場合、距離の取り方であることを、真魚はもう知っていた。
「それから」と真魚は言った。言わずにおくこともできた。だが、この人にだけは言わずにいられなかった。「聞いた話が、あります。山の行法の話です」
汀の手が数珠の上で止まった。
「虚空蔵、求聞持法。山に籠って、百日。同じ真言を百万遍、誦するのだそうです。谷の響きだけを友にして」
言ってしまってから気づいた。その名を口にするとき、自分の声が変わっていたことに。宴の噂話を語る声ではなかった。覚えた事柄を諳んじる声でもなかった。もっと手前から出る声だった。
汀は長いこと黙っていた。
それから顔を上げて真魚を見た。いつかの午後に同じ色と言い当てた、あの目だった。
「その名を仰るときの、あなたの目を」と汀は言った。「いま、見ておりました」
「どのような、目でしたか」
「囲いの外にも内にも属さぬものと、いつか、わたくしは申しました」汀は問いには答えずに言った。「あなたは、それの名をお聞きになったのですね」
*
風が、渡った。
散りぎわの花が二人のあいだの床に二ひら、三ひら落ちた。
「行くとは、申しておりませぬ」
真魚は言った。言い訳のような響きになるのが自分でも分かった。
「行けば、私度です。国の許しなく髪を下ろす者は、罪人の側に数えられる。位も、一族の願いも、卿への義理も、みな砕くことになる。それに」
そこで声が細くなった。
「山に入れば、この寺に参ることもできませぬ」
汀は何も言わなかった。数珠が指の間でかすかに鳴った。
沈黙が長かった。堂のほうから夕の勤行の声が低く始まった。いつもなら真魚の耳を持っていく、あの声だった。今日は持っていかれなかった。真魚の耳は目の前の人の次の言葉だけを待っていた。
「真魚さま」
汀が言った。
「はい」
「……」
言いかけて――止まった。声にならなかった声の残りが、春の夕気のなかにかすかに消えた。
唇がたしかに次の言葉の形に動きかけた。真魚の目はそれを見た。見てしまった。息を吸うかすかな音まで聞いてしまった。この耳は何もかもを覚える。だから分かった。いまこの人は何かを言おうとした。頼みごとの形をした何かを。生まれてこのかた求めず、待ちもしないと自分に言い聞かせてきた人が、生まれて初めて何かを乞いかけた。
風がまた花を運んだ。
汀は目を伏せた。伏せたまま長く息を吐いた。顔を上げたとき、そこにはいつもの静けさが戻っていた。やり直された静けさだった。
「……いえ」と汀は言った。「何も、申しますまい」
「汀どの」
「いつかの夜、あなたに申し上げました。言われなかった言葉なら、わたくしはいくらでも抱えていられます、と」
汀は散った花びらをひとつ床から拾い上げた。手のひらの上の白く小さいものをしばらく見てから言った。
「あの言葉をお返しする日が来るとは、思うておりませんでした。わたくしも、ひとつ、抱えることにいたします。いま、言わなかった言葉を。あなたが、ご自分の耳でご自分の答えをお聞きになるまで」
真魚はその言葉の中身を訊かなかった。
訊けば、答えさせてしまう。答えさせれば、この人が生涯かけて守ってきたものを自分の手で壊すことになる。見ないという務めを覚えた男は、いま訊かないという務めを覚えた。
ただ覚えていようと思った。いまこの回廊で言われなかった言葉があったことを。唇の形と息の音と、伏せられた目を。中身の分からぬままに、そのすべてをこの耳と目は生涯覚えているだろう。
*
山門を出ると、日が傾いていた。西の空の低いところに薄い茜がまだ残っていた。参道の砂利が夕日の名残に鈍く光っていた。山門の脇の土塀には、散り残りのひとひらが白く貼りついていた。
帰りの道々、真魚の前に三つの岐路が立っていた。
ひとつは卿の岸。省試が済んだ。返事の期限が来る。受ければ、位と縁と一族の願いのまっすぐな道。
ひとつはこの都にこのまま。試に通り、官途に就き、十日に一度参詣人としてあの回廊に通う道。焔ひとつぶんの距離を生涯保ち続ける道。
そしてひとつは、谷の響きのほうへ。位を捨て、名を捨て、罪人の側に数えられて、あの声の底にあるものへ身ぐるみ向かってゆく道。
どの道の先にも失うものの顔が見えた。どの道も、選べばほかの二つを殺す。真魚はまだ選ばなかった。選ばないまま歩いた。ただ歩きながら、耳の奥で鳴り続けているものがどの岸の音でもないことだけは、もう隠しようがなかった。
空の底が暮れの色に沈んでいった。大路の家々に、位の岸の灯とも人の暮らしの灯ともつかぬものが、ひとつまたひとつともりはじめる。春の宵の風が道の柳をゆるく揺らしていた。あの寺の堂にも、いまごろ灯が入っているだろう。彼女の手が芯を整え、油を注いで。その灯の届かぬ闇のほうから、谷の響きが真魚を呼んでいた。行き交う人の声が夕闇の底で遠くなっていった。
桜はもう散り終わろうとしていた。
卿への返事の日は、ついに来なかった。
その日が来るより先に、佐伯真魚という若者が都から消えたからである。




