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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第2章 京の出会い
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第17話 山の噂

 渇きの名は桜の下で、嘲りの形をして届いた。


 巨勢こせの卿の邸の花見の宴である。庭の桜は満開で、幔幕が張られ、上つ方の人々が花の下に居並んでいた。風が渡るたび、花の匂いに酒の香が混じった。地に落ちた花びらが、人々の沓の下で音もなく踏まれていた。真魚も末席に召されていた。召された意味は分かっていた。客のなかに、あの家の父御がいる。今日は花見の形をした見合いの場だった。幔幕の内では琴が鳴り、盃が回り、笑い声が花の下を渡っていく。その華やぎのどれもが、真魚のためというより真魚の向こうにあるものへ向けられていた。


 姫の父御は、噂に聞いていたよりずっと感じのよい人だった。国司を長く勤めた、日に焼けた実のありそうな人柄で、盃の底が、膝の上で小さく鳴った。酌を受けながら任国の百姓の暮らしぶりなどを飾らずに話した。真魚の受け答えに、いちいち目を細めた。娘の婿にと望んでくれている人の目だった。悪い人であってくれたらどれほど楽だったろう、と真魚は思った。断る理由を、相手の側にひとつも見つけられなかった。


 腹は決まっていなかった。


 決まらぬまま、真魚は如才なく振る舞った。酌を受け、歌の座興に応じ、問われれば答え、笑うべきところで笑った。言葉の達者な男の、身についた芸だった。芸をしながら、胸の底ではあの橋の上の一節が低く鳴り続けていた。


  *


 宴が半ばを過ぎたころ、座の一角で話題が妙な方へ流れた。


「そういえば、近ごろ山に入る者が多いそうですな」


 口火を切ったのは、恰幅のよい中年の官人だった。


「私度僧、というやつです。国の許しも得ず、勝手に頭を丸めて僧を名乗る。租も庸も逃れて山に籠る。困ったものです」


「聞いた聞いた」と、別の若い貴族が引き取った。「近ごろは、学のある者まで入るそうな。大学を出た者、官途を捨てた者まで。何でも、山に妙な行法が伝わっておるとか」


「ああ、あれでしょう。虚空蔵――」


 その名が、出た。


虚空蔵求聞持法こくうぞうぐもんじほう。虚空蔵菩薩の真言とやらを百万遍、誦するのだそうです。さすれば、一切の経文の文義をことごとくそらんじられるようになる、と」


 座に笑いが起きた。


「百万遍とは」


「一日一万遍として、百日ですぞ。百日、山に籠って、朝から晩まで同じ言葉を唱え続ける。谷の響きだけを友にして」


「正気の沙汰ではない」


「五穀を断つ者もあるとか。木の実と草の根で、百日。命を落とす者もあると聞きますな」


「それでも、入る者が絶えぬそうで」


「わたしは、聞いたことがありますぞ」と、隅にいた旅慣れたふうの老官人が口を挟んだ。「南へ下ったおり、大和の山中で、夜明け前に峰のほうから声がしましてな。経とも歌ともつかぬ同じ言葉の繰り返しが、谷にこだまして、いつまでも、いつまでも。供の者は気味悪がりましたが、はてあれは、この世の声のうちでもずいぶん遠くから来る声に聞こえ申した」


「ほう。して、姿は」


「見ており申さぬ。声だけです。山も谷も、まだまっくらでしたゆえ」


「愚かなことよ」と、最初の官人が盃を干して締めた。「経文を覚えたくば、書見をすればよい。われらのように、な。山に入って死ぬるとは、ものの順序も知らぬ者どものすることじゃ」


 また笑いが起きた。桜の花びらが盃に落ちた。誰かがそれを風流と囃して、また酒が回った。話題はもう次へ移っていた。


  *


 真魚だけが、その場に置き去りにされていた。


 喧騒のなかから、真魚の耳はあの名だけを拾い上げて離さなかった。


 虚空蔵求聞持法。


 真言を百万遍。一切の経文の、文義暗記。初めに来たのは、失望に似たものだった。また、覚える話か。一切を諳んじられるようになる法など自分には要らない。覚えることなら、生まれつきできてしまう。覚えたものがことごとく手をすり抜けていくから、ここまで来たのだ。


 だが。


 百日、山に籠る。一日一万遍。谷の響きだけを友に。五穀を断ち、命を賭して。


 書見なら、真魚は誰よりも速い。一巻を覚えるのに百日など要らない。要らないのに、あの行は百日を要すという。飢えと、不眠と、谷の響きと、同じ言葉の際限ない反復。あの行が身体に課すものは、頭に何かを入れる手続きではなかった。身ぐるみ、何かになっていく手続きだった。幔幕の内はあいかわらず酒と笑いでにぎやかで、その音がひどく薄く聞こえた。


 母の声がよみがえった。身に、宿すのです。


  *


「佐伯どの」


 呼ばれて、真魚は我に返った。


 姫の父御だった。実直そうな、日に焼けた顔の人が、盃を手にこちらを見ていた。


「卿から、詩才のほどはかねがね。ひとつ、今日の花に歌など」


 座の目が集まった。卿が頷いてみせる。ここで巧い歌を詠むこと。それがこの宴での真魚の役どころであり、返事の代わりに差し出すべき誠意の形だった。


 真魚は一礼して、少し目を閉じた。


 花を詠もうと思った。思って口を開いたとき、出てきたのは違うものだった。


 花は盛りに、都を染めて。


 人は宴に、酔うて笑う。


 遠き山辺に、何の声ぞ。


 谷の響きの、誰を呼ぶらむ。


 詠み終えて、座が微かに冷えた。


 巧い歌ではあった。誰もけちのつけようはない。だが、今日の宴を寿ぐ歌ではなかった。姫の家への心を匂わせるどころか、都の花の下から遠い山の谷の声に耳を澄ませてしまっている歌だった。


 父御は盃を持ったまま、しばらく黙っていた。それから、大人の作法でゆるやかに褒めた。卿が如才なく話題を継いだ。宴は何ごともなかったように流れていった。日は傾き、桜の影が幔幕に長く伸びていた。


 ただ帰りぎわ、卿が一度だけ真魚を見た。その目はもう笑ってはいなかった。


  *


 その晩、真魚は大足の部屋の前に立った。


 訊かずにはいられなかった。


「叔父上。虚空蔵求聞持法というものを、ご存じですか」


 大足は書見の手を止めた。ゆっくりと顔を上げ、真魚を長いこと見た。


「……どこで、聞いた」


「宴で。座興の噂話に」


「宴で、な」大足は筆を置いた。「南都の僧たちのあいだに伝わる行法じゃ。虚空蔵菩薩の真言を百万遍誦して、記憶の力を得る。学問としては、それだけのことよ。わしも若いころ、名だけは聞いた。書物の外にある学びじゃと、まことしやかに言う者もおった。じゃが、わしは書物の側の人間でな。それより先は知らぬ。知らぬままで、こと足りた。こと足りなんだ者が、山へ入るのじゃろうよ。だが、真魚」


 大足の声が低くなった。


「あれは、山の行じゃ。山に入るとは、私度になるということぞ。令に何とあるか知っておるか。私度の人は、たとひ経業有りとも、度に在らず。国は、勝手に僧を名乗る者を僧とは認めぬ。いくら経を諳んじようが、いくら行を積もうが、法の上ではただの浮浪、ただの罪人じゃ。捕われれば、罰がある。還俗どころか、むちもある」


 私度の人は、縦ひ経業有りとも、度に在らず。


 その令文が真魚の内に焼き付いた。経業有りとも。どれほど経典に通じていても、国は認めない。覚えることの達人が覚えることの外へ出ようとする道の入口に、覚えの多寡を問わぬと書かれた札が立っている。


「なぜ、それを訊く」


 大足の問いに、真魚は答えられなかった。答えないことが答えになってしまうことも、分かっていた。


 大足は深い息をついた。責める息ではなかった。いつか讃岐の浜で、恐ろしい子じゃと言ったときと同じ、何かを惜しみ何かを諦めはじめた者の息だった。


「……今夜は、もう休め」


 それだけ言った。


  *


 寝床で、真魚は天井の闇を見ていた。


 渇きに名が与えられた。


 求聞持法。谷の響き。百万遍。名を得た渇きは、名のなかった昨日までよりずっと猛々しくなっていた。名のないうちは、渇きはただ疼くだけだった。名を得たいま、渇きは呼んでいる。


 だが、その道の入口には令の札が立っている。私度は、罪。位の岸のいちばん外側よりもさらに外。行けば一族の願いは砕け、卿の顔に泥を塗り、大足の立場を危うくする。


 そして、あの人の寺に参詣人として通うこともできなくなる。


 山に寺の回廊はない。谷の響きのなかにあの声はない。十日に一度の、季節の話もない。ただの参詣人でいることがいちばんむずかしい、とあの人は言った。その、いちばんむずかしいことを続けられなくなる。


 こと足りなんだ者が山へ入る、と大足は言った。では、自分は足りているか。位で足りるか。学問で足りるか。あの人と、足りるか。問いは順に降りていって、いちばん底で止まった。


 真魚は闇のなかで目を閉じた。桜の下で聞いた嘲りが、耳の奥でまだ鳴っていた。愚かなことよ、と人々は笑った。命を落とす者もあるという。それでも、入る者が絶えぬという。夜気の底で、遠くの犬が短く吠えた。


 なぜか。


 その問いに、真魚はもう答えを知っている気がした。知っている気がすることが、いちばん恐ろしかった。

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