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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第2章 京の出会い
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第16話 名のない渇き

 桜が咲く前に、巨勢こせの卿の使いが来た。


 文には、催促めいた言葉はひとつもなかった。紙は薄く、折り目が四つついていた。近ごろの学業ぶりを聞き及んでいる、感心なことだ、春には花見の宴を開くゆえ顔を見せよ。それだけの、やわらかな文面だった。だが、末尾に一行こうあった。あの家の父御も、宴に見える、と。


 やわらかな手で肩にそっと置かれた、けれどたしかに重い手だった。


 返事を待たれている。年が明けてからでよいと言われた年はもう明けて、春になろうとしている。位の岸はあの岸辺に灯をともして、真魚を待っている。断る言葉はまだ見つかっていない。受ける言葉は、喉の奥で石のままだった。庭先の土に、春の雨が細く沁みていた。


「花見までには、腹を決めることじゃな」


 文を見た大足はそれだけを言った。責めもせず、急かしもせず。ただその晩、書見をする真魚を幾度か黙って見た。その視線の意味を真魚は問わなかった。問えば、答えねばならなくなるのは自分のほうだった。灯心の爆ぜる音だけが、夜の部屋に時折立った。


  *


 大学寮は省試を前に熱を帯びていた。


 曹司のあちこちで学生たちが問答を繰り返し、夜半まで灯が消えない。墨の匂いが廊にまで満ちていた。灯の油の減りが、曹司ごとに違った。真魚のところにも、教えを乞う同輩が日に幾人も来た。毛詩の一句、左伝の一段。訊かれれば答えられる。底まで答えられる。答えながら、真魚は自分の声を遠くで聞いていた。


「おまえは、よいな」と、ある晩、同輩の一人がため息まじりに言った。「省試など通り道であろう。その先の位も縁組も、もう決まったようなもの。何の憂いもなかろうよ」


「……どうでしょう」


 真魚はそれだけを答えた。


 夜、ひとりに戻って毛詩をめくった。何百遍とめくった書物だ。どの頁もどの句も、底まで見える。覚え終わり、解し終わり、教え終わることさえできる書物。めくる指の下で、それはもう鳴らなかった。


 覚え終わる書物と覚え終わらぬ声と。


 この世にはその二種類があるのだと、真魚はもう知ってしまっていた。知ってしまった者に、覚え終わる岸は狭すぎた。


  *


 春の彼岸に、寺へ行った。


 参詣人として、いつものように。境内の梅はもう終わりかけて、かわりに地の草が日ごとに青くなっていた。囲いの内にも春は来ていた。日はやわらかく、回廊の板を白く乾かしていた。


 汀は回廊にいた。見張りの男はこのところ姿を見せない。確かめは済んだということなのだろう。それでも二人の話し方は、修正会の前とは少し変わっていた。言葉の底に、互いの知っていることが静かに沈んでいる。彼女の来し方。囲いのこと。そして、真魚が抱えているあの縁談のこと。どれも口にはしない。口にしないまま、そこにある。


「春は」と汀が言った。「鳥の声が、増えますね」


「ええ。讃岐では春になると、浜の鳥と山の鳥がいちどきに鳴きました。潮の音の上に、鳥の声が重なって」


「にぎやかなこと」


「ええ。うるさいほどに」


 汀が小さく笑った。軒先の雀が二羽、連れ立って飛び立った。そのとき、堂のほうから読経が始まった。


  *


 午後の勤行だった。


 低くうねるような、あのし方。意味よりも先に、響きが身に触れてくる。幾人もの声が重なってひとつの厚い流れになり、回廊の床をかすかに震わせる。香の煙が、格子の光の中をゆっくりと昇っていった。


 真魚の耳がそちらへ持っていかれた。


 いつものことだった。この寺でこの声が始まると、真魚の内の何かが勝手にそちらを向く。ことばはもう、あらかた覚えてしまった。何年も門前で聞き、境内で聞いてきた声だ。音としては一節も違えずそらんじられる。なのに、覚え終わらないのだ。覚えても覚えても、この声の底にはまだ先がある。手を伸ばした分だけ深くなる。そういう深さがこの世にあるのだと、この声だけが真魚に教え続けていた。


 気がつくと、汀の話が途切れていた。


「申し訳ありませぬ。いま、私は」


「ええ」汀は咎めなかった。むしろ、面白いものを見るような目をしていた。「わたくしの話を聞いておられませんでした。あの声のほうを、聴いておられた」


「面目もない」


「いいえ」


 汀は首を振った。それから、しばらく読経に耳を澄ませるようにしてから言った。


「真魚さま。ひとつ、申し上げてよろしいですか」


「はい」


「あなたの目は」と汀は言った。「わたくしを見るときと、あの経を聴くとき、同じ色をなさいます」


  *


 真魚は言葉を失った。


「初めて気づいたのは、ずいぶん前です。あなたはわたくしと話しながら、あの声が始まると必ずいまのようになる。目の色が変わる。何かを遠くまで探しに行くような色に。そして、それは」汀はそこで少し間を置いた。「わたくしをご覧になるときの色と、同じなのです」


「それは……」


「妬いてよいのか、安心してよいのか、分からぬ色です」


 汀は笑った。冗談の形をしていた。冗談の形をした、たぶんこの人のいちばん深い観察だった。


 真魚はうつむいて自分の手を見た。


 恋と渇き。この人への想いと、あの声の底への飢え。二つは別のものだと思っていた。それどころか、敵同士だとさえ思っていた。彼女を想えば道は遠のき、道を思えば彼女に背く。ふたつの岸のあいだで引き裂かれるのが、自分の葛藤なのだと。


 だが、この人は同じ色だと言う。


 この人を見るとき、自分は何を見ているのか。美しさか。いや、美しさなら都にいくらでもある。自分が見ていたのは、聴いても底の見えぬ静けさ。掴んだと思うそばから深くなる人。会うたびに、まだ先があると思わせる人だった。


「あなたは」と、真魚はようやく言った。「恐ろしいことを仰る」


「あら」


「私はいま、自分の葛藤の絵図が描き直されてしまいました。二つの岸のあいだで引き裂かれているのだと思っておりました。位の岸と、もうひとつの岸と。ですが、いまのお言葉で分からなくなった。私の渇きは二つではなく、ひとつなのかもしれませぬ。ひとつの渇きがあなたの顔をしたり、あの声の顔をしたりして、私を――」


 そこで止めた。


 その先を言えば掟に触れる。言われなかった言葉のまま抱えていてもらう約束の、その言葉に。


 汀もそれ以上は聞かなかった。ただ読経の続くほうへ目をやって、ぽつりと言った。


「わたくしは、あの経の意味を存じませぬ。長く聞いておりますけれど、詞の意味はついぞ。けれど、あの声を聞いていると思うのです。この世の囲いの外にも内にも属さぬものが、ひとつくらいあるのかもしれない、と」


 囲いの外にも内にも属さぬもの。


 その一言が、真魚の底のいちばん深いところに落ちた。落ちて、波紋のようにいつまでも広がりやまなかった。


  *


 帰りの道々、真魚はあの読経の一節を口の中でなぞってみた。


 夕暮れの、小さな橋の上だった。人通りが絶えて、川の音だけがしている。水面は夕映えを流して、暮れ残る空より少し明るかった。岸の柳がひとむら、水の匂いのする風に葉先を揺らしていた。真魚は欄干に手を置いて、誰に聞かせるでもなく低くあの一節を誦した。自分の声が、川音の上に細く乗った。讃岐の浜で母の経を口ずさんだ、四つか五つのあの朝から。声に出して経をなぞるのは、思えばずいぶん久しぶりのことだった。


 意味は分からない。何年聞いても、詞のほんとうの意味はまだ真魚のものになっていない。それなのに、なぞると、胸の底のくぼみが鳴り方を変えるのだった。


 これまで、窪みは虚しさの音で鳴った。覚え尽くしたあとのからっぽの音。だが、いまは違う音がする。飢えの音だ。方角を持った飢えの音。満たされたのではない。その逆だ。もっと飢えた。ただ、その飢えに初めて向きが生まれていた。


 位の岸では、ない。


 そして、認めるのは身を切るようだったが、あの人の岸でもたぶんなかった。あの人は渇きの向かう先ではなく、その形を誰より正しく映す人なのだ。同じ色、と言い当てたあの目がその証だった。違うと分かることが、こんなに痛いとは知らなかった。


 では、この渇きはどこへ向かうのか。


 囲いの外にも内にも属さぬもの。覚えても覚え終わらぬもの。手を伸ばした分だけ深くなる、あの声の底にあるもの。それに、名はあるのか。


 名のない渇きを抱えて、真魚は春の都を歩いた。桜のつぼみが、そこかしこでほどけかけていた。夕風はもう、冬のような棘を持たなかった。位の岸の花はまもなく満開になり、その下で返事を待つ人々が盃を上げるだろう。都の空は日ごとに霞んで、夜には朧の月がかかるようになった。腹を決めよ、と大足は言った。決まらぬまま、ただ渇きの向きだけが定まっていく。


 その渇きに、名はあるのか。あるとして、それを知っているのは誰なのか。真魚はまだ、その問いに答えを持たなかった。


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