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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第2章 京の出会い
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第15話 訳あり

 春を待たずに、影のほうが先に来た。


 修正会の夜からこちら、真魚は参詣人として寺に通っていた。十日に一度、多くて二度。堂に参り、仏を拝み、それから回廊の端で汀と少し話す。門の内と外に、あの夜引き直された線は静かに守られていた。縁談の話はしない。世の話は門の外に置いてくる。そのかわり、書物の話、季節の話、讃岐の海の話。回廊の軒先で、日はゆっくりと傾いていった。


「海というものを、わたくしは見たことがありませぬ」と、いつだったか汀は言った。「音は、どのようなものなのですか」


「低いこだまのようなものです。寄せて、返して、また寄せる。夜通し、休まずに」


「休まずに」汀は目を閉じて、聴くような顔をした。「眠るときも、その音の中で」


「ええ。私は十五の歳まで、あの音で目を覚ましました」


「では」と汀は目を開けて、少し笑った。「汀という名の女は海を知らぬのに、毎晩波の音の話を聞いて育った方の、波打ち際の名をいただいたのですね。妙なことも、あるものです」


 焔ひとつぶんの距離のまま、それでも冬の名残の日々は、これまでのどの季節よりあたたかかった。


 その均衡にひびを入れたのは、一人の男だった。


  *


 初めは気に留めなかった。


 山門の斜向かい、土塀の陰に男が一人立っていた。従者ふうの、地味ななりの男だった。痩せて、まばたきの少ない目をしていた。誰かの供が主を待っているのだろう。そう思って通り過ぎた。


 五日後、またいた。


 同じ場所に、同じ立ち方で。参道を行き来する者を見るともなく見ている。真魚が門をくぐるとき、その視線が一瞬こちらの背に貼りついたのが分かった。振り返ると、男はもう別の方を向いていた。冬枯れの土塀の上を、鳶が一羽声もなく旋回していた。


 十日後もいた。


 真魚の耳は覚えている。あの男の足の運び。参詣人のふりをして境内を一巡りしたときの、砂利の踏み方。あれは拝みに来た者の足ではなかった。目方を計るような、確かめるような仕事の足だった。


  *


 その日、汀は回廊にいた。


 いつもの場所に、いつものように。だが、真魚には分かった。静けさの質が違う。この人の静けさにはいくつかの色がある。安らいだ静けさ、聴いている静けさ、諦めの静けさ。今日のそれは、何かを遠くからやり直しているような静けさだった。


「門の外の男を」と、真魚は思い切って言った。「ご存じですか」


 汀は驚かなかった。手もとの数珠に目を落としたまま、しばらく黙っていた。数珠の珠が指の間でひとつ、乾いた音を立てた。


「詮索はなさらないお約束でしたのに」


「詮索ではありませぬ。あの男はこの寺を見張っております。五日前も、十日前も。あなたのお身に関わることなら」


「関わること、です」


 汀は顔を上げた。そして、真魚がこれまで見たことのない目をした。恐れよりずっと古い、長く付き合ってきたものが、その目の底に沈んでいた。


「けれど、案じていただくことではありませぬ。あれは昔から、ああして時折参るのです。わたくしがまだここに、大人しくおるかどうかを確かめに」


  *


 風が境内の松を鳴らした。その音は長く尾を引いて、堂の軒に消えた。


 汀は数珠を繰る手を止めて、遠くの山門のほうへ目をやった。それから初めて、自分から語り始めた。断片を。ひとつひとつ、言葉を確かめるように。


「わたくしの母方は、まつりごとの争いに敗れました」


 静かな声だった。境内の物音がふいに遠のいたように思われた。


「わたくしがまだ、ものごころのつく前のことです。誰が敗れ、誰が勝ったのか。それは申しませぬ。申したところで詮ないことですから。ただ、家は散り、人は散り、わたくしだけが残りました」


「あなた、だけが」


「忘れ形見、というものです」汀はかすかに笑った。笑いの形をした、別のものだった。「生かしておくには、障りがある。血筋というものはそれだけで旗印になりますから。けれど、殺すには憐れ。幼い女の子ひとり手にかけるのは、勝った側にも寝覚めが悪い。それで、寺に。世に出ることを許されぬというのは、真魚さま、そういうことなのです」


 真魚は動けなかった。


 世に出られぬ身と、この人はずっと言ってきた。真魚はそれを身分の言葉として聞いていた。生まれの高さゆえの、窮屈な定めなのだろうと。違った。それは命の言葉だった。生かされている、という言葉だった。大人しくしている限りは生かしておく。その条件の内側で、この人は息をしてきたのだ。


 老尼たちの、あの丁重すぎる礼。いつ来ていつ去るかわからぬ、風のような扱われ方。名を申せませぬ、という言葉の重さ。すべてが一本の線につながった。


「あの男が来るたびに」真魚はようやく言った。「あなたは、ああして確かめられて」


「ええ。もう、慣れました」


「慣れて、よいことではない」


 声が思ったより強く出た。汀が少し目を見ひらいた。


  *


 守りたいと思った。


 生まれて初めての、灼けるような思いだった。あの男をこの寺から遠ざけたい。この人を、確かめられる暮らしから出してやりたい。誰の目も届かぬところへ。


 思って、すぐに突き当たった。


 何の力で。


 真魚は讃岐から出てきた一介の学生だった。位もない。官もない。巨勢こせの卿の力は卿のものであって、真魚のものではない。あの見張りの男に寺の外で声をかける資格すら、真魚にはない。誰何すいかされれば、名乗るものが何もない。守るという言葉は、力のない者が口にすればただの音だった。


 そして気づいた。気づいて、愕然とした。


 ――位が、欲しい。


 生まれて初めて、そう思っていた。あれほど厭うてきた、あのきざはしが。皆が昇ろうとするのを遠い目で見てきた、あの位の階が。いまこの瞬間だけは、喉から手が出るほど欲しかった。力があれば。名があれば。この人を、あの視線の外へ。


「真魚さま」


 汀の声がその考えを断った。まるで、聴こえていたかのように。


「何も、なさいますな」


「……ですが」


「何かをなされば、あの者たちはこう考えます。あの女は外と繋がり始めた、と」汀の声は静かなままだった。静かなまま、一分の隙もなかった。「大人しくしている限り、わたくしはここにいられます。この寺で経を聞いて、灯を守って。あなたと、こうしてお話をして。けれど、わたくしのために誰かが動けば、その暮らしは終わります。わたくしはもっと遠くへ移されます。今度は誰も、参詣に来られぬところへ」


 真魚は言葉を失った。


 守ろうとすること、それ自体がこの人を壊す。手を伸ばせば、焔は潰える。あの夜の焔ひとつぶんの距離は、守りたいものを守るための距離でもあったのだ。


「お分かりに、なりましたね」


 汀は言った。それから、少しだけ声をやわらげた。


「あなたにしていただけることが、ひとつだけございます」


「何なりと」


「いままで通りに、参詣にいらしてくださいまし。十日に一度。仏を拝んで、わたくしと季節の話をして、お帰りになる。ただの、熱心な参詣人として。……それが、いちばん、むずかしいことですけれど」


  *


 境内の松が、また一度低く鳴った。日は西の甍の向こうへ落ちかけ、回廊の板に長い影を伸ばしていた。


 帰り道、山門を出るとき、真魚は土塀の陰を見なかった。


 見れば目が合う。目が合えば覚えられる。覚えられれば、あの人の暮らしに線が一本引かれる。だからまっすぐ前を向いて、ただの参詣人の足取りで歩いた。背中に視線の重みを覚えながら、足だけは平らかに運んだ。生まれてこのかた、何もかもを見て聞いて覚えてきた男が、初めて見ないという務めを覚えた日だった。


 歩きながら、胸の中で二つのものが争っていた。


 ひとつは、あの灼けるような思い。位が欲しい。力が欲しい。この人を守れるだけの何かが欲しい。俗世の階へ初めて自分から手を伸ばしかけた、あの思い。


 もうひとつは、その思いへの底冷えのする問いだった。位を得て力を得て、あの人を囲いの外へ出したとして、それで何になる。政の目が位ごときで消えるとも思えぬ。俗世の檻を俗世の力でこじ開けたところで、壊した先にあの人の居場所があるのか。


 答えは、その夜のうちには出なかった。


 ただひとつだけ、はっきりしたことがあった。あの人と自分のあいだにあるのは、身分という言葉で呼べるような生ぬるいものではなかった。それは、目に見えぬ囲いだった。そして自分はその囲いの外から、十日に一度、囲いの内の人と季節の話をする。


 それが、許されたすべてだった。


 春の気配が、都の風の底にかすかに混じり始めていた。土の匂いがゆるみ、日脚が少しずつ伸びてゆく。囲いの内にも春は来て、境内の白梅はもう固い蕾の先をわずかにほころばせているだろう。海を知らぬあの人の耳に、せめて境内の鳥の声が今年は少しでも多く届けばよい。それだけが、囲いの外の男に願えるせめてものことだった。

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