第14話 灯火
年が明けた。
都はあらたまの華やぎのなかにあった。大路には晴れ着が行き交い、どの門も訪う客の出入りで賑わっていた。大学寮も休みに入って、同輩たちは実家や後ろ盾の邸へ年賀のあいさつに回っている。真魚も巨勢の卿の邸へは行った。縁談の返事はまだ待ってもらっている。卿は年賀の席でもその話には触れなかった。ただ帰りぎわに、急がずともよいとだけもう一度言った。急がずともよいという言葉ほど、急がせる言葉もなかった。
寺の門は閉じたままだった。
雪の日に三度、年の瀬にもう一度。四度目も老尼の答えは同じだった。真魚はもう通うのをやめていた。やめて分かったことがある。あの門が閉じてから、都の音が変わったように思われた。実のところ音は同じで、変わったのは耳のほうだった。何を聞いても、その奥に聞きたい声を探してしまう。見つからないと知っていて探してしまう。
覚えのよい耳は、失ったものの形をいつまでも正確に覚えている。
*
修正会の噂を聞いたのは、正月の松の内が明けるころだった。
年のはじめに寺々が国の安寧を祈る法会である。あの寺でも行われる。夜を徹して経が読まれるのだという。その夜は堂に灯明が連なり、門は参詣の者すべてに開かれる。大学寮の雑仕の者たちがそんな話をしていた。
門が開く。
誰のためでもない。法会のためだ。真魚のためではさらにない。それでもその晩、真魚の足は雪の残る道を寺へ向かっていた。参詣人の一人として行くだけだと自分に言い聞かせながら。仏を拝みに行くだけだと。その言い聞かせが誰に向けたものか、自分でも分からないままに。
門は開いていた。
両の扉をいっぱいに。初めて見る、その門の開ききった姿だった。内から灯の色が洩れて、雪の残る参道をあたたかい橙に染めていた。踏み固められた参道の雪までが、灯の色を映して鈍く光っていた。人が次々に吸い込まれてゆく。年寄り、子連れ、商人ふう、旅装の者。真魚はその流れにまぎれた。
*
堂の内は灯の海だった。
仏前に灯明が幾列も連なり、焔がいっせいに微かに揺れている。読経が始まっていた。声は太く低く、堂の床から立ちのぼるように響いた。参詣の人々は思い思いに手を合わせ、堂の熱気と灯の匂いが冬の夜気と入れまじる。梁の高みには香の煙がうすく溜まっていた。
真魚は人々の後ろに立って、拝むふりをしながら探した。
いた。
堂の脇、灯明の列のそばに。芯を整え、油を注ぎ、消えかけた焔を立て直してゆく人影。質素な衣。束ねた黒髪。寺に身を寄せる者のつとめとして灯を守っているのだった。その横顔が幾十の焔にいちどきに照らされて、初めて見るほど明るかった。
真魚は近づかなかった。
声もかけなかった。ただ灯の海ごしに、その姿を見ていた。それだけで、この冬じゅうの飢えが少しだけ静まった。
ひとつ気づいたことがあった。老尼たちが彼女に何かを頼むとき、そのたびにわずかに頭を下げるのだ。寺に身を寄せているだけの者への礼としては、あれは丁重に過ぎる。まるで、とそこまで考えて、真魚はやめた。詮索はすまい。あの人が言わぬことは訊かぬ。それだけは決めていた。
法会が果て、人々が引きはじめても、真魚は堂の隅に残っていた。帰らねばと思いながら、足が動かなかった。やがて人影がまばらになり、灯明が一列ずつ消されてゆく。真魚はようやく堂を出た。
回廊の端まで来たとき、背後で衣擦れの音がした。
「……足音が、いたしましたので」
振り返ると、汀が立っていた。手に小さな灯明をひとつ持って。
「あれだけの人ごみの中で、ですか」
「ええ」と汀は言った。「あなたの足音だけ拾ってしまいました。我ながら、困った耳です」
*
回廊には二人のほかに誰もいなかった。
堂の灯はあらかた落とされて、汀の手の灯明ひとつが二人のあいだの闇を小さく丸く切り取っていた。
言いたいことはこの冬じゅう、胸に積もっていた。真魚はそのいちばん上のものから口にした。
「あの話は、縁談のことは、まだ受けるとは」
「存じております」
汀は静かに遮った。
「受けるとも断るとも、まだ仰っていないこと。都の噂はそこまでは運びませぬけれど、あなたという方を存じ上げていれば分かります」
「では、なぜ門を」
汀はすぐには答えなかった。灯明の焔が二人のあいだでかすかに揺れた。
「お受けなさいまし」
やがて汀は言った。低く澄んだ、いつもの声で。
「よいお話にございます。あなたの道はあちらに続いています。学問も位も、あなたの背負ってこられた願いもみな、あちらの岸にある。わたくしのような者のところで足をお止めになりますな」
「私は」
言葉が噴き出しかけた。
この冬じゅう言えずにいた言葉。雪の門前で持てなかった言葉。縁談を前に喉の奥で石になっていた、その石の正体。私は、あなたを――
「その先は」
汀の声が、焔よりも静かにそれを止めた。
「仰いますな」
真魚は口を開いたまま動けなかった。
「言葉になさいましたら」と汀は言った。「それは、もうしまえなくなります。言われた言葉はなかったことにできませぬ。あなたもわたくしも、その言葉の続きを生きねばならなくなります。あなたの道とわたくしの身の上に、その続きはございませぬ」
灯明の焔が揺れた。汀はそれを見つめたまま続けた。
「けれど……言われなかった言葉なら」
その声が初めて、わずかに震えた。
「言われなかった言葉なら、わたくしは、いくらでも、抱えていられますから」
*
夜風が回廊を渡った。
灯明の焔が大きくかしいで消えかけた。
考えるより先に真魚の手が動いた。焔を風からかばおうと伸ばした手のすぐ内側に、同じように伸ばされた汀の手があった。二つの手がひとつの小さな焔を両側から囲った。
触れなかった。
焔ひとつぶんの距離。指を伸ばせば届くそのわずかの隙間に、炎が立っていた。近づきすぎれば焔は手にかばえない。重ねれば潰える。二人の手はその熱をあいだに挟んだまま動かなかった。
汀の顔が焔ごしに近かった。灯に照らされて、その目に小さな火がひとつずつ映っていた。二人とも、ひとことも発しなかった。
言葉の達者な男と言われぬ言葉を聴く女のあいだで、その沈黙はどんな言葉よりも多くを言った。焔ひとつぶんの、この隙間。真魚はその熱と近さを、目にも胸にも焼き付けた。この一夜が消えずに残ることだけは、いまの真魚にも分かった。
風がやんだ。
焔は立ち直った。二つの手はどちらからともなく引かれた。
*
帰りぎわ、山門のところで、汀は真魚の手に紙燭を持たせた。寺で参詣人に分ける細い灯りだった。
「夜道が暗うございますから」
そして、自分の灯明を傾けた。
焔が焔に触れて、火が移った。紙燭の先に小さな火がともった。汀の灯から分けられた火が、いま真魚の手の中にある。
「また、伺ってもよろしいか」
真魚は訊いた。汀は少しだけ間を置いて答えた。
「門は開いております。参詣の方には、いつでも」
参詣の方には。その一言で、線は引き直された。門は開く。ただし、参詣人として。二人のあいだにあるものに名をつけぬ者として。それがこの人の差し出せる、精いっぱいの形なのだった。
「はい」と真魚は言った。「参詣に参ります」
汀が笑った。命名の夜と同じ、ためらいのない笑みだった。
*
帰り道、真魚は紙燭の火を手のひらでかばいながら歩いた。
夜風は冷たく、火は何度も消えかけた。吐く息が白く流れて、灯の先で薄くほどけた。そのたびに立ち止まり、背を丸め、両手で囲って守った。都の大路を、雪明かりとこの小さな火だけを頼りにゆっくりと帰った。大路の両側の邸はもう眠り、雪を残した屋根が星明かりの下に静まっていた。
覚えても連れてはいけない。ずっとそうだった。潮の音も、母の声も、あの寺の読経も。覚えたものはみな、その場に置いてくるしかなかった。
だが、火は持ち帰れた。
あの人の灯から分けられた火が、いまたしかに手の中で燃えている。ひとつの焔から別の焔へ移し取られ、こうして運ばれてゆく。これは覚えて掴むものではない。ただ絶やさぬようにかばい続けることでだけ、手の中に留めていられるものだった。
家に着くころ、紙燭は根元まで燃えて尽きた。最後の火が指先の近くで消えるとき、かすかな熱が皮膚に残った。
朝が来れば、この熱も消える。それでも、あの焔ひとつぶんの距離と言われなかった言葉と手の中の火は、確かにあった。
真魚は冷えた指先を握りこんで戸をくぐった。
言われなかった言葉ならいくらでも抱えていられる、とあの人は言った。
ならば自分も抱えていこう。言わぬまま。いつか言える岸に渡る日がもし来るのなら、その日まで。
その「いつか」を、真魚は半ば信じ、半ば信じていなかった。信じきれぬまま、それでも抱えていくと決めた夜だった。




