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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第2章 京の出会い
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第13話 俗世の手

 その話は、祝いの形をしてやってきた。


 冬のはじめ、真魚は巨勢こせの卿の邸に呼ばれた。灯がふんだんに焚かれ、火桶が並び、絹の衣擦れの音がするあの上つ方の世界に。通されたのは、詩宴のときの広間とは違う奥の静かな一間だった。廂の外はもう日が落ちかけて、庭の池のおもてが灯の色を細く映していた。


 卿は機嫌がよかった。白髪をきれいに撫でつけた福相の男で、脂ののった手で盃を包むように持っている。近ごろの真魚の学業を褒め、来年の省試の見込みを語り、それから盃をひとつ干して、こともなげに言った。


「ときに、佐伯。おぬし、妻をめとる気はないか」


 真魚は盃を持つ手を止めた。


「わしの縁につながる家に、年頃の姫がおってな。家柄は申し分ない。父御は実直な人で、婿には家の力より先々の器を持つ者を望んでおられる。おぬしのことを話したら、ぜひにと言うてきた」


 卿は笑みを浮かべたまま真魚を見た。


「悪い話ではあるまい。おぬしは讃岐の出じゃ。都に根がない。妻の家という根ができれば、任官も昇進も道は格段に開ける。わしの後ろ盾と妻の家の縁と、両輪じゃ。おぬしの才なら、十年で地方の出には望みえぬところまで昇る」


 姫がどのような人かは、卿はひとことも言わなかった。歳と、家柄と、父御の人柄。語られたのはそれだけだった。会うたこともない、声も知らぬ人。その人が縁組という言葉のなかで、家と根と両輪という言葉のあいだに静かに畳み込まれていた。


 言葉のひとつひとつが正しかった。


 これは女の話ではない。家と家の話であり、根の話であり、一族が真魚に懸けたあの願いを一手で叶える話だった。佐伯の名を中央へ返すという、あの願いである。膝の上で、指が知らず袴の布をつまんでいた。


「……身に余るお話にございます」


 と真魚は言った。精いっぱいの時間稼ぎだった。盃を持つ指さきが、冷えていた。


  *


 帰りの夜道は、雪になりかけの冷たい雨だった。袖が重く湿っていくのが分かった。大路の轍のあとに水がうすく溜まり、遠い邸の灯を割れた形で映していた。沓の先から、冷えがゆっくり骨へ昇ってきた。


 断る理由を真魚は探していた。探して愕然とした。世の言葉のなかに、それがひとつも見つからないのだった。


 家のため。一族の願い。後ろ盾の恩。任官の道。どの筋から数えても、答えは「受けよ」としか出ない。父が聞けば喜ぶだろう。母も佐伯の縁者たちも。讃岐の館で額を畳に寄せたあの人々の顔が順に浮かんだ。この縁談は、あの夜の願いの完成形だった。


 なのに、「受けます」の一言が喉の奥で石のように動かない。


 なぜか。


 その問いの先にあるものを、真魚は見ないようにした。見れば名を呼んでしまう。胸の中で、あの名を。それをしてはならぬ気がなぜかした。あの人は世に出られぬ身だ。この縁談とあの人とは、天秤にかけることすらできない。かけてよいものではない。そう思うこと自体がもうかけていることだとは、気づかぬふりをして。


  *


 数日して、大足が真魚の部屋に来た。


 卿から話がいっているのだった。大足は火桶の向こうに座って、しばらく黙って真魚を見てから言った。


「よい話じゃ」


「はい」


「家柄、人柄、時期。どれをとっても、これ以上はない。おまえの立身はこれで決まる。一族の願いも果たされる」大足はそこで言葉を切った。「ということは、おまえが誰より分かっておろう。分かっておって、その顔か」


 真魚はうつむいた。


 この叔父には隠せない。讃岐の浜の夜からずっとそうだった。階の上ではないものを欲しがっていることも、渇きが官の道では癒えぬことも、この人はいつも先に見抜いてきた。


 大足は長いこと黙っていた。火桶の炭が小さく爆ぜた。


 何かおるのか。そう訊かれると思った。だが大足は訊かなかった。訊けば答えさせてしまうと知っている人だった。代わりに低い声で言った。


「返事は急がぬそうじゃ。卿はああ見えて気の長い御方でな。年が明けてからでよい、と」


「はい」


「真魚」立ち上がりぎわに大足は一度だけ振り返った。「世の道は断るにも作法が要る。受けるにも覚悟が要る。どちらにしても、おのれの心の在りだけは間違えるな。それを間違えた男の後悔は位では埋まらぬ」


 言い置いて、大足は廊の暗がりへ出ていった。


  *


 寺へ行ったのは、その二日後だった。


 卿の話も大足の言葉も、胸の内で鳴りやまなかった。整理がついたら行こうと思っていたのに、足は整理より先に寺へ向いた。あの人の顔を見ればと思い、では顔を見てどうするのかと思う。何を言うのか。何も言えるはずがない。それでも足は止まらなかった。


 門は、閉じていた。


 いつも半ば開いていたあの門が。


 真魚はしばらく門の前に立っていた。風が冷たく、閉じた板戸の木目だけが妙にはっきりと見えた。塀の内の松の梢が、暮れかけた空を黒く区切っていた。板戸の向こうで砂利を踏む音はしなかった。中から読経は聞こえる。寺が閉じているわけではない。ただ門だけが閉じている。


 脇の潜り戸から、腰の曲がった老尼が出てきた。皺の中の目が真魚の顔を見て、少しも驚かなかった。まるで来ることが分かっていたように。


「あの」真魚は言った。「今日は」


「お会いになりませぬ」


 老尼は静かに言った。取り次ぐだけの者の、平らかな声だった。


「お加減が悪いのですか」


「いいえ」


「では、なにゆえ」


 老尼は答えなかった。閉じた板戸の前で、その沈黙は長かった。


 真魚は食い下がろうとしてやめた。この老尼を困らせても仕方がない。代わりに一つだけ訊いた。


「……いつなら、お会いできますか」


「それは」と老尼は初めてわずかに目を伏せた。「あのお方のお心しだいにございます」


  *


 帰り道、真魚は歩きながら考え続けた。


 なぜだ。前に会った日、何か障りのあることを言ったか。あの日の言葉を一つ残らず思い返した。何もかも覚えているのだ。どの言葉も間違ってはいなかった。なのに門は閉じた。


 分からなかった。


 分からないまま五日おいてまた行った。門は閉じていた。十日おいて行くと、また閉じていた。雪が降り始めていた。門前の石段が日ごとにうっすらと白さを増し、軒の氷柱は日ざしに痩せてはまた夜のうちに太った。老尼はそのたびに潜り戸から出てきて、同じことを言った。お会いになりませぬ。


 三度目の帰り道で、真魚はようやくひとつの可能性に行き当たった。


 ――噂。


 俊才に、さる卿の縁の姫との縁談。そういう話は灯より早く都を走る。げんに大学寮では、もう幾人にも祝いめいた言葉をかけられていた。廊で行き合った貞主などは、袖から焚き込めた香をさせて、わざわざ足を止めて言ったものだ。


「聞いたぞ、佐伯。あの家との縁組とは、たいしたものだ。後ろ盾に妻の家。これでおまえは名実ともに都の人だな」


 都の人。その一言が妙に胸に刺さった。祝われるたびに喉の奥の石は重くなった。受けるとも言っていないのに、世のなかでは話はもう決まった形で歩き出している。噂とはそういうものだった。


 あの寺の老尼たちが都の噂を拾わぬはずがない。そして、言われぬことまで聴いてしまうあの人の耳が、それを聞き落とすはずがない。


 真魚は雪のなかで立ち止まった。


 噂は自分より先にあの人のところへ着いていたのだ。そしてあの人は何も言わずに門を閉じた。責めるでも問うでもなく、ただ音もなく身を引いた。あの晩「あなたの前でだけ、汀でおります」と言った、あの静けさと同じやり方で。


 胸の奥が軋んだ。


 誤解だと言いたかった。まだ受けるとも言っていない。だが言えるのか。では断るのかと問われたら、断る理由を世のどの言葉で言うのか。あの人の名を出さずに言えるのか。出してよいのか。世に出られぬ人を俗世の縁談の断り文句にしてよいのか。


 言葉の達者な男は、雪の中で一つの言葉も持っていなかった。肩に積もる雪を払うことも忘れていた。大路の灯は雪の幕の向こうでにじみ、行き交う人の影もいつしか絶えていた。


  *


 俗世の手というものを、真魚はその冬初めて本当に知った。


 それは位階や縁組の形で表から掴みかかってくるだけではなかった。噂の形で先回りをして、いちばん細い糸のところへ届く。二人のあいだの、名づけても言葉にもしていないあの糸のところへ、真っ先に届くのだった。


 いつだったか真魚は思ったことがある。開かれた門の奥には答えがなく、閉じた門の奥にこそそれはありそうだと。大学寮の門とこの寺の門をそんなふうに見比べた日があった。皮肉なものだった。いま世は開かれた門のほうへ真魚を押し込もうとし、閉じた門はほかの誰でもない真魚に対してだけ閉じた。


 閉じた門の前で、雪は音もなく積もっていった。祝いの形をして来たものが、いまはこの白く冷たい形で二人の間に積もっている。払う言葉を真魚はまだ持たない。


 おのれの心の在り処を間違えるなという大足の言葉だけが、灯のように胸の隅で燃えていた。


 年が明けようとしていた。

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