祝福
短編版(https://ncode.syosetu.com/n8638mh/)と同じです!
次から新しい国での二人の傾国話をお届けします。お楽しみいただけると嬉しいです。
エルダーウッド家の屋敷の裏にある丘の上にはいつも風が吹いていて、リコリスの銀色の髪を好き勝手に散らした。麓の町から離れた場所で人気がない。大人は好んで登りたがらないから、この丘にくるのはたいてい子供ばかりだった。
隣に座る幼馴染のヴォルク・レイヴンシュラークは風に流れるリコリスの銀髪を指で掴んでは離している。引っ張るのではなく指の間から滑らせているだけなので痛くはない。「ぼくの髪、気に入ったの」と言ってみた。
「商人がもってくる布に、にてる」
ヴォルクは笑い混じりにそう言って手を離さなかった。同い年なのにひとまわり身体の大きい少年は黒い短髪を風に逆立てている。指の間を滑り落ちる絹の手触りが気に入っているようだった。
夕暮れが近づいた頃、麓の方から声がした。
「リコリス!」
兄のローワンが草を掻き分けて丘の斜面を登ってくる。栗色の髪が汗で額に貼りつき息が切れていた。
「母上が呼んでいる。日が落ちる前に帰れと言われ、た……」
言葉が途切れた。弟の向こう、丘の一番高い場所にある平たい石の上に、誰かが座っている。
子供より小さいのか大人より大きいのか、見るたびに印象が変わる姿だった。光を透かしたような肌と、木の葉みたいな色の目がこちらを見下ろしていた。
人間ではないことが不思議とはっきりわかった。
『きれいだね』
声がした。石の上から身を乗り出した『それ』はリコリスの髪に手を伸ばす。ヴォルクが掴んでいた房を、すくい上げるようにして指に巻きつけた。流れるような動作だった。それを誰も妨げることはできない。眼前に突きつけられた未知の存在に、誰もが恐れと混乱の中動けなかったからだ。
『あげるね』
リコリスの額に冷たい唇が触れた。甘い匂いがする。
『きみにはこれ。きれいだから、似合うものを』
何を、と訊き返す間もなかった。もう隣のヴォルクに目が移っている。
『きみも。ついでに』
同じことをされたヴォルクは声も出さずに立ち尽くしていた。五つの子供でも、目の前にいるものが人間ではないと分かるのだろう。
最後に、斜面で立ちすくんでいたローワンに視線が向けられる。
『あ、もうひとり。きみにも』
笑い声がして、ローワンは後ずさろうとしたが足がもつれた。その顔に手が伸びるのを、リコリスはただ見ていた。
それだけだった。
石の上にはもう誰もいない。夕暮れの風だけが草を揺らしている。
三人はしばらく黙っていた。
「……なんだ、あれは……」
総毛だったローワンがやっと口を開いて絞り出すような声で言う。その声をきっかけに、ヴォルクがリコリスの方を見た。
「わかるか」
「わからない……」
リコリスは首を傾げた。額にはまだ冷たいものが薄く残っている気がする。
「帰ろう」
ローワンが先に歩き出した。弟の手を引こうとして、一瞬迷って、結局引かないまま草の中を下り始める。ヴォルクがリコリスの隣に並んで、三人で麓へ向かった。
背中に夕日が当たっていた。三つの影が斜面に長く伸びている。
何をもらったのか、まだ誰も知らない。
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あの夕暮れのことを三人ともやがて忘れた。額の冷たさも甘い匂いも、翌朝には夢と区別がつかなくなっていて、口にする者はいなかった。
何年かのあいだ、何も起きなかった。
リコリスの髪は歳を重ねるごとに伸びて、十になる頃には腰のあたりまであった。銀色はどこまでも濃くならず、日に透けるとほとんど白に近い。町ですれ違う人間の足が止まることが増えた。リコリスが通りを歩くと店先の会話が途切れた。
怖いくらいに綺麗だと言う者がいた。不吉だ、と言う者もいた。
最初はリコリスの髪を引っ張った領主の息子だった。社交の席で絡んできた同い年くらいの少年が、翌週落馬して足を折った。少年の家はその年のうちに領地争いに巻き込まれ、没落した。
次はリコリスに花を渡そうとした伯爵家の娘だった。手が触れた翌日に高熱で倒れて三日寝込み、娘の兄は狩りの最中に大怪我をした。
偶然だと最初は捉えられた。けれど三度目が続いた頃には、両親の目が変わっていた。食事の席が別になり、部屋が離れの奥に移された。使用人はリコリスの世話を嫌がるようになり、母は顔を見ると目を伏せた。このまま屋敷のどこかに閉じ込められるのだろうと、リコリスは漠然と思っていた。
そうならなかったのは、レイヴンシュラーク王家の第二王子、ヴォルクのおかげだった。リコリスを側近候補として自分の傍に置くと宣言したのだ。王家の意向に貴族の家が逆らえるはずもなく、両親はリコリスに手を出せなくなり、幽閉は免れた。
四度目、五度目と続く頃にはもう、偶然で片づける者はいなくなっていた。リコリスに近づいた者の家には悪いことが起きる。貴族たちはそれをはっきり口にはしなかったが、子供たちの席からリコリスは遠ざけられ、社交の場に招かれることが減った。
ヴォルクだけは変わらずリコリスの隣にいた。背は伸びて声は低くなり、幼い頃の丸さは影を潜めていたが、リコリスの髪をときどき指で掬う癖だけはそのままだった。
「聞いた。またか?」
「……うん」
「フゥン」
ヴォルクはそれ以上訊かなかった。
周囲が壊れ始めてから少し遅れて、実家にも影が落ちた。家畜が立て続けに倒れ、翌年は領地の川が涸れて収穫が半減した。父がやつれ、母が寝込むようになった。領地を手放す話が持ち上がり、夕食の席から笑い声が消えた。ローワンは父の代わりに商人との交渉へ臨むようになり、頬がこけて顔色が悪くなった。
ローワンの視線が変わったのは、同じ頃だった。兄は何も言わなかったが、リコリスの顔を見るときの瞳にかすかな怯えが混じるようになった。弟の髪が燭台の光を受けて白く光るたびに、ローワンはほんの少しだけ顔を背けた。
リコリスはそれに気づいていた。父、母、そして兄が自分を避け始めていることも、使用人たちがすれ違うときに息を詰めていることも。「あの家の弟御は」という囁きがついて回るのも。
ある夜、あの丘の夕暮れのことを思い出した。寝つけずに窓から外を見ていたら、庭の木が一本音もなく倒れた。虫に食われた様子もない。根元から折れて月明かりの中で横たわっている。
ああ、とリコリスは思った。
あれは贈り物ではなかったのかもしれない。
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ローワンが初めてリコリスに手を上げたのは、父が倒れた日の夜だった。
離れの奥にある部屋に蝋燭も持たずに入ってきた兄の顔は憎悪に満ちていた。
「お前のせいだ」
声が震えていた。
「お前がいるから家が傾いた。お前が関わった者は皆破滅する」
リコリスは黙っていた。言われた通りだと思った。
明らかに自分の関わったものが不幸になっているというのはわかる。体質なのか、悪いものに憑かれているのか、星回が悪いのか、そのあたりだろうと思っていた。なぜかまだ、兄であるローワンとヴォルクの身は無事なのだが、反応は二分していた。
ローワンは当人に直接的な危険が及んではいないが、家が倒れかけている原因だろう自分を憎悪するようになった。
ヴォルクは外野の事故には無関心で、変わらずそばにいるどころか、リコリスのこれのおかげで邪魔だった家が消えて良いことだと思っている節もあった。直接そう言われたわけでもないし、積極的に利用しようとはしてこないから、良いのだが。
いつのまにかローワンの手がリコリスの首に伸びた。指が喉に触れて、止まった。月明かりの中で白く光る弟の髪と、怯えも抵抗もしない目を見て、兄は顔を歪めて手を離して後退り、そのまま出ていった。
その後も同じことが何度かあった。
家は傾き続けた。残った領地も手放し、屋敷の半分が閉じられた。母は寝たきりになり、父は回復しなかった。
家だけではなかった。凶作が続き、疫病が流行り、隣国との争いが戦に発展した。民の怒りは王家に向き、王家の怒りは原因に向かった。銀色の髪のエルダーウッド家の弟、あれが元凶だと誰かが言った。
議会がリコリスの処刑を決めたとき、ヴォルクは血のついた剣を下げてリコリスを迎えにきた。背後には、リコリスを連行しに来ただろう兵士が数人倒れている。関わると不吉という評判のおかげで、手勢は思ったよりも少なかった。処刑台に引っ立てられるか、屋敷ごと焼かれるかのどちらかだと思っていた。
「行くぞ」
ヴォルクは短く言う。
「どこに?」
「知らん。ここにいれば殺されるだけだ」
リコリスは立ち上がった。兄のことが頭をよぎったが、姿はどこにもなかった。
「巻き込んで……」
「助けた礼を言え」
「ありがとう」
ヴォルクはリコリスの手を取って走り出した。屋敷を出ると空が赤く、どこかで火の手が上がっていた。もうすぐこの屋敷にも火が放たれるだろう。
走り続けて、あの丘の麓を通り過ぎた。丘の上には誰もいない。風だけが吹いていた。
国境を越えたあたりでリコリスは振り返った。空がまだ赤い。生まれた国が燃えている。
隣のヴォルクは振り返らなかった。
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