9 共感
マンションの玄関には草臥れた革靴が脱ぎ捨てられている。その隣には綺麗に置かれたハイヒール。上り框にはゴミ袋が幾つか置かれており、廊下の先も汚れているが、先ほどから女が掃除を続けていた。
廊下の突き当たりの寝室では男が裸で眠っている。
女はドアを少し開くと、寝室の落ちている服を拾いあげて、洗濯機に放り込み、それが済むと今度は汚れたタオルを使って汚れた床を拭き始めた。
「まじ、掃除しろっての」
女は愚痴りながらも部屋を清掃している。あらかた終わるとゴミを収集場所へ持ち込み、キッチンで手を洗う。ふと冷蔵庫に視線を向けたが溜息をついた。
「まじ、ゴミしか入ってなかったし」
「あ~?ゴミってなんだよ」
女が振り返るとさっきまで寝ていた男があくびをして立っている。
「ゴミじゃんか。つか掃除しなよ、やばいよ、この家」
怒鳴った女の背中に男はぴたりと抱きついて首筋にキスをする。
「でも掃除してくれたんじゃん、サーンキュ」
「サンキュじゃねえよ、ったく」
男を振り払い、女は鞄を持つと睨みつけた。
「マジでさ、前みたいに綺麗にしとけよ。こんなん起つもんも起たねえだろ!」
つかつかと廊下を進みハイヒールを履く。男は壁にもたれながら唇を尖らせた。
「昨日しっかりやったじゃん。帰んの?」
「そう、帰る。イツカさあ、彼女と仲良くしろよ、ヤルにしてもゴミタメはダメ!」
イツカは溜息をつくと片手を上げた。
「わーったよ。またな」
ガチャンと音を立てて鉄の扉に女が消える。
イツカは部屋を見渡した。綺麗に掃除されている。その辺に棄てた空き缶も、脱ぎ捨てた服もない。廊下を進めば、ベランダに洗濯物が綺麗に干してある。
「彼女ね……」
そう呟いてリビングに座ると胡坐をかく。
まだあいつらいるんかな……。
恋人ナツキの部屋にいた男達。一人はとんでもない美形で、もう一人はむかつくくらい品のよい男だ。ナツキはと言えばバスタブの中にいて……と未だに意味がわからない。
水の中に沈んでいるナツキ……本当はもう死んで……。
急に何かを理解して真っ青になる。いてもたってもいられずに服を着替えると家を飛び出した。
ナツキがもしあの二人に殺されていたのなら殺人だ。でも確信がない。
大通りに出るとイツカは手を上げてタクシーに乗り込んだ。
静かな浴室で鈴の音が響いている。どこにも存在しないそれの音はバスタブの水を揺らし、大きな波紋を作り続けていた。
水の中に沈むナツキの胸で梵字が光っている。先日ミズナギが施した梵字は白い光から赤へと変わり、胸元が持ち上がると顎先から水面に顔を出した。
開かれた浴室のドアからレイモンドが顔を覗かせる。レイモンドは両手で印を結び、そっと指先で横に線を描く。その瞬間ナツキは目を開いた。
何もわからない様子で呆然とまばたきを繰り返して、ゆっくりと起き上がる。
レイモンドは彼女をバスタオルで包みこむと顔を覗きこんだ。
「聞こえますか?」
ナツキは小さく頷き唇を開く。声が出ないのか困惑すると小さく唸り声を上げた。
「じきに戻りますよ」
レイモンドはナツキを抱き上げて浴室を出る。そのまま寝室へ運ばれるとベットの上に優しく横たえられた。
ベットの脇にはミズナギがいた。その片手には梵字が浮かび光っている。横たわるナツキにそっと触れて優しく微笑む。
「ナツキよ。覚えているか?我の言ったことを」
言ったこと?ああ、そういえば何か……。
ナツキは瞬きをして傍にいるレイモンドを見る。彼はまだナツキの体を確認しているようだった。
「安定しているようです」
レイモンドの声にミズナギは頷く。
「そうか。レイ……お前には話したが、我の力が戻らん以上はナツキに働いてもらうしかない。しかし、ガワを持つナツキの体を使ったところで、我の本体が無防備になり、レイの力では遠く及ばん」
「そうなります」
「うむ。ナツキよ、これから我はお前と繋がる。お前は女としての役割を果たせ、そうすれば我の力は完全に戻り、レイも完全にしてやることができる」
ナツキが首を傾げるとミズナギは続けた。
「我とレイは二つで一つである。しかし今はお互いの体が放出となっておる。受け止めるガワではないのだ。我のガワはナツキお前が持っている」
はっきりしてきた頭でナツキはまさかと目を見開くと声を絞り絞り出す。
「み、ミズナ……、まさ……か」
「聞け、我はお前からガワを取り返しても良い。しかしそうなればお前は死ぬ。お前の中には力がほんの少ししか残っておらんでの。だのでお前の体を使い、我は力を取り戻す」
「じゃあ……レイモンドさんと……その」
ミズナギは腕を組むと目を閉じた。
「レイでも良い、お前が思う人間でも良い。我はお前と繋がり、いわば快楽を得る。それが力を戻す方法となる」
「だ、誰でもいいってこと?」
「……誰でも良いというわけではない。お前が愛する者ならな」
ナツキは少しホッとしたが、隣にいたレイモンドの顔が歪んだのが見えた。
それを理解しているようにミズナギが黙り込み静寂に包まれる。
その時、激しく玄関から音が鳴りバタバタと何かが飛び込んできた。イツカだ。汗びっしょりのイツカはベットの上のナツキを見て、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「イツカ?」
腰が抜けたのかその場にへたり込んでナツキを指差す。
「お、お、お前、生きてんじゃん!」
ナツキが小さく頷くとイツカは部屋にいた二人を交互に見て怒鳴りつけた。
「お前らまだいんのかよ!?」
突然やってきて喚き散らしている男を冷たい目で見下ろし、ミズナギは何も言わずに部屋を出た。
「逃げんのかよ!」
罵声はレイモンドにも飛び火する。
「お前も!ナツキを返せよ!もうこいつは戻ったんだろ?」
まるで自分は正義の塊のように喚いている。レイモンドは話にならないと頭を振るとナツキに断り部屋を出た。
ドアは開け放たれたままで寝室は二人きり。イツカはふらふらと立ち上がるとナツキに駆け寄り抱きしめた。
「大丈夫か?お前」
「……うん」
「良かった」
きっと本心であろう言葉に抱きしめられながら、イツカの体からする甘い匂いが鼻につき、まわしかけた腕を止めた。嬉しい気持ちが束の間、一気に現実に押し戻されてしまう。イツカの体をつき離すとナツキは俯いた。
「誰かと……いた?」
「へ?」
情けないような、悔しいような気持ちでナツキは唇を噛む。
「首……痕ついてるよ?」
即座に反応してイツカは首を手で押さえる。決定的だった。しどろもどろの言い訳に目が泳いでいる。そうだ、これを何回聞いてきたんだろう。
「……嫌い」
苦しい……。涙が溢れて、とめどなく流れ落ちる。
「ナツ……キ?」
「帰って、もう二度と来ないで」
拒絶の言葉にイツカがダメージを受けるのはわかっている。けれど彼の浮気癖は昔からだ。そして今も同じで、人を咎める癖に自分を見返したりはしない。
何で……それでもどうして好きなんだろう。悔しいんだろう。
「……」
黙り込んだイツカは背中を丸めて部屋を出て行き、玄関ドアが開く音が聞こえた。
私は大馬鹿だ。何度も裏切られているのに……まだ期待してた。
ベットに伏せって大声で泣いた。分かっているはずなのに。
「大丈夫ですか?」
そっと背中を撫でられて優しい声が聞こえた。
ナツキは顔を上げてその胸に縋りつく。ぎゅっと抱き寄せられ頭を撫でられながらまた泣いた。小さな頃、両親にしてもらったように優しく撫でる手。暖かく広い背中を両手でぎゅっと握った。
ふと名前を呼ばれた気がしてナツキは顔を上げる。優しい眼差しがそこにあった。レイモンドの指がナツキの顎をすくって顔が近づき、唇が優しく触れる。
「私ならこんな風には泣かせない。誠心誠意を尽くし、あなたに安らぎを与えることが出来る……のに……私はミズナギ様を愛している」
言葉とは裏腹に優しい瞳が揺れている。
「聞いてください。本当はあなたが愛する人ならば、誰を選んでも良いのです。繋がっているミズナギ様の力で私たちは万全な状態で狩りができるでしょう。しかし……」
レイモンドの指がナツキの唇に触れた。
「あなたが誰かを愛し愛される時、ミズナギ様はそれを共感する。……それがとても嫌なのです。こんな風に思うのはあなたには悪いと思っている、しかし我慢ならないのです」
ナツキを思っている言葉ではない、なのに触れる指が、瞳が優しい。
「あの方に喜びを与えるのは私でありたい。私だけであるべきだと」
暖かな火が胸に灯る。これは繋がっているミズナギの気持ちだろうか。それとも自分自身の……。けれど泣きたいくらいに苦しくてレイモンドの頬に触れた。
「……いいなあ。ミズナギ様は……」
「……?」
「だって、こんなに大切に……こんなに愛されてる。羨ましい」
その言葉にレイモンドは眉を下げるとナツキの瞳の奥を覗き込んだ。
止まらない気持ちにナツキはそっとレイモンドのシャツを握る。
「……ミズナギ様、お許しを」
何を言っているのかと思ったが、ナツキの口が勝手に開いた。「許す」自分の口から出たのはミズナギの声だ。これが繋がっている。
戸惑うナツキを前に、レイモンドは呪いを唱えながらナツキの耳、唇に触れる。柔らかな風が吹きぬけたようにナツキの髪がさらりと揺れた。
「え?何?」
レイモンドの指がナツキの頬に触れる。
「先ほど羨ましいと言いましたか?……では本心を言いましょう。あなたをイツカに渡すのは心苦しい」
「え?あ!」
ミズナギと繋がっていると思い出して目の前の口を両手で塞ぐ。けれどそれは不要と大きな手がナツキの手を掴み、彼の顔が変わった。今までに見たことのない男の顔だ。
「聞こえません。あなたの声も耳もあなただけのもの」
唇が重なって、ゆっくりとベットにもたれこむ。ずしりと心地よい重さにナツキはレイモンドに触れた。
「……ミズナギ様には……聞こえない……の?」
「聞こえない」
耳元で囁く声に吐息が漏れる。ぼろぼろ零れるナツキの涙に口付けを落としてレイモンドが微笑む。
こんな風に優しくしちゃだめだよ。ミズナギ様の代わりなのに……ねえ、レイモンドさん……好きになってしまうよ?こんなの。




