8 光のない未来に
もうずっと雨に濡れて、しとしと降る中を女は彷徨い歩いていた。
地上に降りてから誰も殺せてはいない。このままでは全てを失ってしまう。ここにいた時、もう住む家もなにもかも失って、小さな子供を道連れにしてしまった。地獄でもかまわないからと親子二人で穏やかに暮らせると思い込んでいたのも束の間、子だけが賽の河原に行き、母は地獄の門の前にいた。
鬼がゲームの参加者になり成功すれば希望は叶えられると言った。それが何かも知らなかったが、もう一度子に会えるのならばと承諾し、今ここにいる。
女は顔を上げた。丁度交差点に置かれたカーブミラーが自分を映している。
赤黒い線が目から両頬にかけて引かれ、両手を挙げると爪は赤黒く泥と血に汚れている。以前ならば眼鏡なしでは難しいものがよく見えた。
もう数日こうして誰かを探している。頭の端にある、騙されたのではないか?そんな思いを振り払いながら、水を含み重くなっていく体に怒りを溜めていた。
それが次第に殺意に変わっていく。不思議だった……街角の飛び出し注意の看板を人と間違えて破壊した時、胸の中でホッとした気持ちと、苛立ちが生まれていた。
女は通りがかった工事現場で鉄の棒を取るとひょいと持ち上げた。この体ではこんな重いものすら簡単に振り回せる。今まで一度もこんなことはしたことなかったのに……。
女はゆらりと体を揺らして歩いていく。早く、誰かを……殺めないと。
雨が強くなり始めた。地上にいる時にはこんなに雨は降ることはなかったのに……。女は重い足を引き摺り、何かの声に視線を向けた。
子供の声?それとも猫?ニャアニャア鳴いているそこに近づいて、女は覗き込んだ。子供だ。女は唇を舐めて優しげに笑った。
「どうしたの?」
子供は顔を上げると、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をくしゃりと歪ませた。
「おか、おか……ああ、いないの」
どうやら母親とはぐれてしまったようだ。女は膝をつき子供の頭を撫でる。もう片方の腕は鉄の棒を持って震えていた。
「おばちゃん……トモちゃんのお母さん?」
小さな指がのびて服をぎゅっと掴む懐かしい感触。
お母さん……お母さん……頭の隅にある声が懐かしく響いていた……けれどそれも遠く、体の底からわきあがってくる憎悪に女は子供の頭を見ていた。
シャラシャラと風の鳴る音を聞いてミズナギは目を覚ます。昔良く森で聞いた音だったが、隣で眠る男の顔を見て気のせいだと気付く。今どこにいるかを思い出した。
穏やかな顔をしているレイモンドの頬に触れてからベットを降りる。キッチンでグラスに水を入れて飲み干すと長く息を吐いた。
そしてその足で浴室へ向かい、バスタブに座り、沈んでいるナツキを眺める。水を指先でさらい持ち上げると、ナツキがプカリと浮かび上がった。
「ナツキよ……」
ミズナギが呟くとナツキはうっすら目を開けた。
「我の事、覚えているか?」
指先でナツキの頬に触れると小さく頷いた。
「お前もまだ……安定せん。我の力が弱いのか、それとも……」
なんの力も持たぬ娘の中にいたのだ。確かに、死にかけるほどに弱い魂だったナツキに女のガワを渡したとはいえ……何かに邪魔されているのか。それともどこかミズナギ自身が欠けているのか……。長い封印だった。
浴室の壁にある鏡に姿を映し、ミズナギは首に触れて、ゆっくりと素肌に指を滑らせる。体の反応は一定だ。昔ほどに敏感でないのは男の体であるからか。するりと手を滑らせて足の付け根にたどり着くと指先を遊ばせた。ミズナギは目を閉じるが少ししてそれを止めて、鏡をもう一度見る。快楽が少ない。まだ男の体に慣れていないということだろう。
神は幸福の中にある。平穏とは違い、祝福を分け与えるために花の中で咲かなくてはならない。
ふむと考えて、ミズナギは再度ナツキの上で指を持ち上げた。片手で印を結び、ナツキの胸の上に文字を刻む。
「我の考えが正しければ、お前は間もなく目覚めるだろう。まだ安定には程遠いが愛する者とも会えるようになる。ナツキよ……」
うっすら開いた目をほんの少しパチパチと動かしてナツキは微笑む。
「うむ、それで良い」
また水の中へ沈むナツキを置いて、ミズナギは立ち上がるとベットへ戻る。力を少し使ったせいでぐらりと倒れこむとレイモンドに寄り添い眠りについた。
早朝、大きな雷鳴が響き、どこかの避雷針に落ちたようだった。
レイモンドは目覚めて隣に眠るミズナギの顔を見る。少しだけ頬に赤みは注している。ホッとしてベットを出るとキッチンで水を飲み、TVをつけるとニュースで子供の惨殺死体が見つかったと告げていた。顔を洗い、鏡を見つめながら髪を撫で付ける。
狩が始まる。リビングではすでに準備を済ませていたミズナギがソファに座っていた。
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
「ああ、大事無い。行かねばならんな」
「そのようです」
「子供が死ぬのは悲しいことじゃ……」
すっと立ち上がりミズナギはレイモンドの肩に頬を寄せる。
「阿呆じゃ」
二人はマンションを出て、事件現場へと向かう。雨は強く降り、酷く雷鳴が響いている。遠くの空には幾つもの光の竜が走り続けていた。
現場は規制テープが雨に濡れていた。すでに無人となった場所を一瞥して二人は歩き出す。傾斜した道路の中央、少し低くなった所で雨が溜まり渦を巻いている。レイモンドは膝まで浸かる水に視線を下ろした。
「神のご加護でしょうか」
傘を持つ手にパチンパチンと光の柱が現れては消える。
「そうかも知れん。我らには好都合よ」
ミズナギは傘を折りたたむと傍の壁に立てかけた。ゆっくりと両手を動かしてぶつぶつと何かを唱えて力を練る。指先から出た丸い水玉は薄く透明に光り、ふうと息を吹いてそれを飛ばした。ミズナギの指先から飛び出したそれは小さな獣の姿になり、雨の中を縫うように走っていく。
「相変わらず美しい術です」
レイモンドは傘の中にミズナギを入れると優しく微笑む。
「さて、何秒持つかな」
言葉どおり、少し離れた場所で小さな悲鳴が上がり、バタバタと何かが転がり出る。黒いフードを被った体を小さな光の獣が高速で移動し噛み付いている。
「や、やめて!やめて!」
じたばた転がって両手足をはちゃめちゃに動かしては、二人を見つけると声を上げた。
「助けて!助けてよ!」
足を噛み付かれて小さな悲鳴が上がり、這い回りながらミズナギたちの足元へ転がった。フードの中は女の顔だ。目の下に黒い線が引かれており、口は耳まで裂けている。
「おや……これは」
レイモンドが声を上げるとミズナギの目が冷たく光った。
「お前、もう一人殺したな?」
顔を上げた女が一瞬で蕩けた。頬が紅潮し舌がだらしなく垂れ下がっていく。息が白くなるほどに興奮しているのか手を伸ばし、ミズナギの髪に触れると嬉しそうに目を細めた。
「……いいなあ」
ミズナギに見惚れる女の隙を見てレイモンドが銃を構え弾き金を引いた。しかしこめかみに向かって放たれたそれは遠くへ走っていく。レイモンドの動きを察していたのか、女は後ろへと飛びのいていた。その腕にはミズナギがいる。嬉しそうにミズナギの体に触れて、唇に吸い付いた。
その瞬間、女のフードが外れて後頭部が膨れ上がる。ミズナギの唇に夢中になっている女の頭が爆発すると、数秒してレイモンドの放った弾丸が女の残っていたこめかみを撃ちぬいた。
静かに崩れる女をミズナギは片手で押しのけて体を起こす。袖で唇を拭き、背中から銃を取り出すと、まだピクピク動いている頭に撃ちこんだ。
「気色悪い」
レイモンドはミズナギにかけ寄ると体を抱き寄せる。
「申し訳ありません、私が油断をしたばかりに」
「いや……我の力も試したかったからな。大事無い。それよりも清浄を」
ミズナギはレイモンドに口づけた。柔らかな長い髪がふわりと浮かぶと泥で汚れていた頬も綺麗に整い、体の中を水が走り抜ける。お互いの唇が離れると雨はまた少し強くなった。二人の足元では消滅する黒い残骸が雨に濡れている。
足を地上につけたミズナギの体が揺れて、レイモンドが体をとっさに支えたが両手で制止した。
「大事無い」
「わかりました。ですが……疲れたら仰ってください」
「ああ……」
二人は壁に立てかけていた傘を取り、ポンと差すと歩き出した。
「もう濡れてしまっていますから……無駄かも知れませんね」
レイモンドが笑うとミズナギは振り返る、まっすぐな瞳にレイモンドは姿勢を正した。
「レイ、お前に少し頼みたいことがある」
雨はまた強くなり二人の傘を叩きつけると、遠くの空で雷鳴が響き渡った。




