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33 カシミヤ

 遠くで時計の音がする。違う、何か水が混じってる?何の音だ?……どれくらい寝てたのかな?

 ゆっくりと目を開き、少し身体を動かす。ずっしりと重い気がしたが上半身を立てると身体が濡れている。ぼんやりした視界に両手で足に触れてみた。

 足はある、腕もある、身体もある。両手で顔に触れてみた。顔もある、髪も……けれど何か違和感がある。なんだ?

 ゆらりと身体を動かして、乗っていたベットから降りる。辺りを見渡して自分が部屋にいるのだと分かった。

「……ここは?」

 喉に手を触れてもう一度声にする。

「どこだ?」

 壁にかかった鏡を見つけて近づくと覗き込む。

 青白い皮膚に赤紫が浮いている。目は血走り隈が縁取っている。

「なんだ…………これ」

 視線を落として首元を見る。喉仏から胸元にかけて縫い傷が続いていた。

 指先で触れて実際に身体を見る。服は着ていない。腹に大きな縫い傷が見えた。

 ……こんな傷あったっけ?というか何で、こんな気色悪い。

「……俺は…………誰だ?」

 鏡の中の顔をじっと見た。けれど記憶がない。誰だ?俺は?何でここにいる?何で?

 男は椅子にかけてあった服を着た。ジーンズとパーカーだ。部屋の隅の洗面台で顔を洗って鏡を覗き込む。顔色は何も変わらず、たださっぱりしただけだった。

「くそっ」

 悪態をついて部屋を出る。廊下はがらんとしていて誰もいない。

 どうにか状況を把握したいのに誰もいないんじゃ話にならない。廊下を道なりに行きドアにたどり着くと、ドアノブを回してみる。しかし開かずに苛立って思い切り蹴り飛ばした。ズダンと音を立ててドアが壊れ無様に開く。

 男は隙間に手をつっこむとぐっと開いて外に出た。

「……雨か」

 雨が酷く降っている。地面をぐっしょりと濡らして、誰かの足跡に水溜りが出来ていた。

 きょろきょろと見渡して少し離れた場所に木造の建物を見つけると、中にぼんやりと人が光って見えた。

「なんだこれ?」

 片手で頭を抱えてそこへ進んでいく。階段を上がってドアを開くと中には複数の男女とその中央にパーカーの男が一人立っている。

「……見たこと……ある」

 父親くらいの男の目は焦点が合っていない。

 …………誰だっけ?見たことある……名前……、なんだっけ?

 老いたその男に歩み寄ると腕に触れた。

 記憶の片隅にある名前、カシミヤ。そうだ、この人の名前はカシミヤ。

「カシミヤ……さん」

 カシミヤは顔色一つ変えず、じっと見つめている。その目には何も映っていない。きっと俺のことも覚えてない。

「俺……」

 俺は……イツカ。そうだ、イツカ。俺の名前はイツカ。

「カシミヤさん、イツカです」

 イツカの言葉にカシミヤの眉がぴくりと動く。その時、群集から装束を着た男が飛び出してきた。

「ああ、あなた、目が覚めたんですね」

 装束を来た男はイツカの身体に触れて何かを確かめる。べたべた触るのが不快でイツカは体をのけぞらせた。

「うん、ちゃんと動いてる。傷も酷くない。ああ、術は成功したんだ」

「は?」

「術ですよ、あなた一度死んで、私が術を施したんです。ああ、良かった。死んでたから呪符を縫いこむのはそんなに大変じゃなかったから……あのままだったら死んでましたよ」

 死んで?縫いこむ?

 イツカは喉元の傷口に触れた。この縫い目は胸元まで続いている。

「……俺に……何したんだよ」

「だから、あなたは一度死んでるんです。それで私が」装束が言い終わるのを待たずにイツカは彼の胸倉を掴んで持ち上げた。力なく簡単に持ち上がり、苛立ちとは裏腹に何故こんなに軽いのか不思議だった。

「や、やめてください」

「…………俺が死んだ?」

「そうですよ!あなたはその男に腹を貫かれて死にました。だから私はあなたへ蘇生の術を……。降ろしてください!」

 バタバタ足を動かして装束が暴れる。握っていた拳を開くと男は地面にころがり落ちた。

「俺が……死…………」

 イツカは傍にいたカシミヤを見た。彼は地面で咳き込んでいる装束の男を見つめ、両手をのばす。頭を鷲づかみにし赤黒い指先が目に突き刺さると悲鳴が上がった。三人を取り囲む群衆は凍りついたように動かない。まるで恐怖という針で固定されたようだった。

 装束の男がカシミヤの手で形を失くして行く。イツカは凄惨な光景をただ傍で見ていた。死んだ、その言葉から蘇る少し前の記憶。うさんくさいオッサンから言われた事。

「そうだ、俺……三人殺さなくちゃ」

 ゆっくりと顔を上げて、イツカは群集を見る。その目に絶望が映り一瞬誰かがちらついた。開いたままの扉に背の高い男が二人、白い女が立っている。

「イツカ!」

 名前を呼ばれてイツカは振り返る。ナツキだ。

 誰よりも愛しく、誰よりも憎い、ナツキだ。

 足元で装束を抉っていたカシミヤが走り出す。一瞬の出来事のようにナツキの目の前に立つと彼女の首に手を伸ばした。

「させるかよ」

 隣にいた烏のような男がカシミヤの腕を掴んで、勢いよくぶん投げる。

「三号、ナツキ様を!」

「はい!鳶丸様は?」

「俺はいい、奥へ!お二人は中だ」

「了解です!」

 三号はナツキを抱きかかえて俊敏に群集を駆け抜ける。

 壁にめり込んでいたカシミヤはゆらっと立ち上がった。後ろに巻き込まれた女を見つけるとその身体を切り裂いて高らかに笑う。

「アイ、シー、ユー」

 ゲラゲラ笑うカシミヤに鳶丸は髪をかきあげた。

「まじかよ、俺とやったってしょうがねえのに。おまえ、しっかりしろ。色くらい見えてんだろ?俺はお前の先だ。それとそこ!」

 鳶丸はイツカに視線を向ける。

「俺?」

「そうだ、お前。お前は最後の執行者だ。さっさとやれ。俺らは手は出さねえよ、いいか。こいつにしてもお前にしても目的を果たせ」

「目的?」

「そうだ!お前は三人殺すんだろ!」

 そうだ、三人!それをやり遂げなくちゃいけない。でも……。

 イツカはカシミヤを見て立ち止まる。

 もうきっとイツカの事すらわからないカシミヤ。それでも……。

 鳶丸に飛びかかろうとするカシミヤを捕まえてイツカは笑う。

「ダメだよ、カシミヤさん。しっかりして。あんた、やりたいことあったろ?」

 首を羽交い絞めにして耳元で話す。反応はない。

「なあ、カシミヤさん。しっかりしろよ」

 カシミヤの手がイツカの腕を掴んで前に引くと身体が宙を舞う。背中から落とされてイツカは膝を立てると体勢を立て直しカシミヤの足を捕る。

 足を掬い上げるとその場に引き倒した。馬乗りになりカシミヤの首を捕まえる。

「カシミヤさん。もうダメなのか?俺もわかんない?」

 その目にはイツカは映っていない。

 カシミヤの手がイツカの脇腹を掴み爪が食い込む。痛みはなくただ違和感が身体を走っていく。

「ダメ?」

 ぐっと握っていた首に爪を立てて握りつぶしていく。喉元でゴボゴボ音が漏れてカシミヤの口から血が溢れ出す。目の奥にほんの少し色が戻った時、カシミヤは一瞬笑った気がした。

 拳の中でぐしゃりと水が弾けて、骨が触れた。それを力いっぱいもぎ取った。

 血しぶきを浴びてイツカの顔が赤く染まる。喪失感に涙が零れて立ち上がった。

 パーカーを捲ると脇腹は抉れ、中から呪符が零れている。

「ああ…………」

 何だよ、これ……。じゃあ、ほんとうに俺死んでんだな。


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