30 巣窟
いつの間にか傘もなくして息を切らして歩いている。雨が降っているせいで汗に濡れているのかもよくわからない。時折膝を曲げて手をつくと息を整えた。
……俺、何してんだろ。イツカは息を吐いて視線を上げた。
今こうして天心教に向かっているのはナツキがいるからか、それともカシミヤがいるかも知れないからか。
重くなった足を動かして、雨で濡れた前髪をかきあげると舌打ちをした。
「なんでだよ」
正直イツカにもよくわかっていなかった。どうしてそこへ行くのかも、そこへ行って何をしたいのかも。
「あー、もうわかんねえ!」
……でも。
カシミヤの最後に見た笑顔が寂しそうでそれが気になっていた。
「くそっ」
悪態をついてイツカはまた走り出した。
雨の街、道路はまばらに車が走っている。しかし浸水している場所もあってか車の台数は減っていた。ランプを燈したタクシーは天心教の施設近くに止まると後部座席の二人に声をかけた。
「お客さん、すいません。ここからは水が酷くてね」
助手席後ろに座っていたレイモンドは微笑み、懐に手を入れた。
「いいえ、かまいません。この雨の中走っていただいてありがとうございました」
財布から万券を出して支払いを済せると運転席後ろのミズナギに頷く。
ミズナギは運転手に優しく微笑みかけると車を降りた。
タクシーが去るのを待って二人は歩き出す。天心教の前に立つとレイモンドが眉をしかめた。
「なんでしょう……これは」
施設建物から黒い煙のようなものが上がっている。
「悪意だ」
人間の目には見えないものが渦巻いて二人の腕を粟立てていた。
ミズナギが門に手をかざし、カチンと鍵が落ちて扉が開く。
「珍しいですね」
いつもならレイモンドに任せているはずがミズナギが主導だ。
「……少しな……思うことがあって」
凛とした顔に怪訝が見える。レイモンドは頷き先に踏み出した。
「ここからは私が前を行きましょう」
施設のドアも二人の力によって簡単に開錠する。ただ中に人の気配がしないのが気になっていた。普通、息を潜めて隠れていても気配はすぐにわかるのだ。
入り口から廊下を抜けて奥へと突き進んでいく。革靴のヒールの音だけが響き、二人は黙ったまま歩いていた。壁に並んだ窓から向こう側に木造の建物が見える。それは禍々しい色に燻っていた。
「あそこだな」
「はい」
レイモンドは裏口の鍵を開けるとドアノブを回す。少し開いたドアから入り込んでくる甘ったるい香と鼻につく嫌な匂いに二人は顔をしかめた。
「何かしていますね」
「ああ、レイ気付いているか?」
「はい。死臭が混じっていますね」
果実のような甘い香の後ろに潜んでいる死の匂い。ミズナギは片手をくるりと動かすと手の平に息を吹き、呪いを呟きながら人差し指でレイモンドの額に触れる。指先から薄い水の膜が貼られた。
「ありがとうございます」
「十分に気をつけよ」
「ミズナギ様も……」
レイモンドの揺れる瞳にミズナギは微笑む。
「神は死なぬ。知っておろ?」そう言うと、ミズナギの瞳から光が消えた。ゆっくりとした瞬きの下で怒りの色が現れる。
裏庭に出るとざっと雨が降り出した。大粒の雨が二人の身体を濡らしていく。
ボツボツと音を立てて滝のように流れ始める。その音に気付いたように木造の扉がゆっくりと開いた。
「あれ……雨……」
煙と共に現れたのは素肌に近い薄着の女で顔は火照っている。ただ青白くガリガリに痩せていた。女は雨の中に立つ二人の男に気付いて声を上げた。
「……どなたですか?」
レイモンドは軽く会釈をして歩き出す。すっと女の前に立つと見下ろした。
女はレイモンドの顔を見て、ゆっくりと視線を降ろしていく。そしてまた顔を見てとろりと顔を緩ませた。
「……あの」
レイモンドの指が彼女の顎先に触れて、女の肩がぴくりと動く。
「中に入っても?」
指先を顔のラインにそって動かして耳に触れる。そのまま首筋を辿ると鎖骨に触れた。人でない者にとって人間を誘惑するのはとても簡単なのだ。
「……はい」
女に導かれ中に入る。それにミズナギも続いた。
屋内は甘い香が焚かれ煙っている。板張りの床の上には全裸に近い男女が事に及んでいた。男も女も関係なく、入れ替わり立ち代わり快楽にふけっているようだ。数人が顔を上げて、入ってきた二人を見る。しかし視界が悪いのかまた行為に戻っていく。
人の間を縫うように二人は女に連れられて奥へと進む。扉までたどり着くと女はレイモンドの胸に縋りついた。
「ここからは……私たちは入れません」
欲しがる顔にレイモンドは優しく触れる。後頭部から首、背中へと指下ろすとぶつぶつと呪いを唱えて女を抱き寄せた。女の体が発情したように赤くなる。息が唇から漏れて足から崩れ落ちると意識を失った。
腕の中で倒れた女を傍に寝かせてレイモンドはミズナギを見上げる。その顔は少しだけ後悔の色が浮かんでいた。
ミズナギは目を閉じて首を振る。そして何も言わず扉を開くと中に踏み込んだ。
半日前。
小雨になっていたのか少し空から光が射しこんでいた。天心教の施設の上に降り立ったパーカーの男は静かに屋根の上を歩いていく。
カタカタ音が鳴っているからか、下では物音に気付き声が上がっている。
カシミヤは裏庭のほうへ下りると、丁度裏口を開けて出てきた信徒と出くわした。信徒はカシミヤを見て少し驚いたが、ああと声を上げた。
「あなたのような人を見たことがあります。お入りください」
カシミヤは無言で信徒に連れられて行く。両手が震えていたが逃げそうもない信徒の後姿に涎を拭いた。
カシミヤの頭の中はもうずっと殺したくてうずうずしている。殆どの意識がそればかりで占拠されていた。
「前の方も同じような服を着ていましたね、あなたたちはそのような装束なんでしょうね」
どうでもよいことをペラペラ喋りながら信徒は時折振り返る。反応もしないカシミヤの顔を見ても何も思わないのは、人が良いのかなんなのか。
廊下の端で丁度歩いてきた白い巫女と従者に出会うと、信徒は頭を下げた。
「あ、巫女様!失礼いたしました」
巫女は何も言わないが、隣にいた小さな従者が声を上げた。
「おや……」
「何です?」
「その方、お客様ですか?」
カシミヤに視線を向けたので信徒は頷いた。
「以前もあったんです。こうした方は何だったかな……鬼の……あ、思い出せない。来たら術師様の下へ連れて来るように言われていて」
「……そうですか。お気をつけて」
「はい、失礼いたします」
信徒の後ろをゆらゆら揺れながら着いていく姿を従者達は見送った。
静まり返った廊下で巫女がぽつりと呟く。
「……あの人、もしかして」
「はい。執行者ですね」
背の高い従者が首を振る。
「ああなっては何も出来ません。終わりが来るまで進むしかない」
「終わりって?」
「もうじき此処に狩人が現れる」




