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27 獣の咆哮

 工場地帯の奥、少し道なりに行くと鉄筋コンクリートの団地が並んでいる。

 少し小高くなっているため道路は上から水が流れていた。急勾配とまではいかなくても車が必須だ。団地の子供たちのために専用のバスが学校通学に出ている。

 多くはこの道を車で上がる際にえらい坂だと思うが、今歩いているカシミヤには苦痛も何もない。カシミヤは雨の中、遠くを見やる。

 この先に……いる。そう思うと先ほどまでクリアだった頭が重くなり、身体の奥から殺意がじわじわと染み出してくる。殺さないと、今すぐに殺さないと。

 カシミヤの身体が前かがみになり、首が落ちると口が開いて涎がボタボタ落ち始めた。両手の爪がぐぐっと伸びて赤黒い指先を鋭利にしている。

 背中を丸めて、まるでクラウチングスタートを切るように顔を上げると足を蹴る。バシャンと水の音が響き、飛沫が上がるとカシミヤの身体がスピードに乗った。雨を受けてずしんと重くなっていく服すら気にせずに血走った真っ赤な目は見開いたままで、一直線に走っていく。涙のように流れているそれが赤黒く染まり、唇の端が持ち上がると、カシミヤは笑い始めた。

 たどり着いた入り口で一つの棟に飛び込むと階段を上がっていく。四階の鉄扉の前で立ち止まり、ドアノブを握ると力任せに引いた。ガコンと鍵が当たる音がしてカシミヤは両手でドアノブを握り、鍵穴をじっと見つめる。数秒してガチンと鍵が開く音がした。




 リビングのソファで本を読んでいたスギオは、玄関扉の鍵が開く音に気付いて視線を向けた。妻はまだ娘と買い物に出ているから帰る時間じゃない、だったら何だ?もしかして避難指示か?と立ち上がると恐る恐る顔を出した。

 玄関は暗い。間接照明はついておらず、ただぼんやりと黒い輪郭が見えた。

「誰だ?」

 妻の名前を呼んではみたが、黒い影は何も言わずそこに立っている。

「誰だ?」

 背格好からして娘ではない。妻じゃないとすれば誰だ?鍵を開けて入ってくる人物に思い当たらずスギオは壁のスイッチを入れた。間接照明が点灯して目の前にパーカーを着たずぶ濡れの人物が現れる。

「……ど、どなたさまですか?」

 震える声を抑えてフードの下の顔を覗きこむ。目の周りが赤黒く、口元は笑っている。その顔が少しだけ上がるとスギオはハッと思い出した。

「……タツヤ?」

 そうだ随分前に自殺した部下だ。奥さんがいなくなったから探してくれと言われて一緒に探したんだっけ……。

 タツヤはじっとりとした目を向けたまま口を開かない。

「……お前、幽霊か?まさか、会いに来てくれたのか?」

 スギオは少しホッとしてタツヤを招き入れる。幽霊なら何も問題ないだろうとリビングのソファに座らせた。

「来てくれて嬉しいよ。お前が死んでから色々あったけど……それはいいんだ。元気そうで良かった……っておかしいか」

 コップに水をたっぷりと入れてテーブルに置くと、対面のソファに座り、タツヤの顔を眺める。真っ赤な目は見開いたままだったがスギオの話を聞いているように見える。だからスギオはまあいいか、と話し出した。これが夢でもなんでも。けれどタツヤは聞いているだけで話すことはない、殆どスギオの独りごとのようだ。

「……ああ、そういえば奥さんの件、悪かったな」

 ぽつりと呟いて俯いた。一瞬タツヤが動いたように見えたが気のせいだろう。

「天心教にいるってわかったのに、連れ戻すどころか奥さん怒らしちゃって……お前は仕方ないって笑ってくれたけどさ、俺、悪いと思ってたんだよ。すまなかったな」

 渇いた笑いが聞こえてスギオは顔を上げた。タツヤが笑っている。

「ああ、幽霊も笑うんだな。本当に悪かったよ。大体宗教に傾倒する女なんて他に男作ってるようなもんだし。お腹の子供だってお前の子かなんてわかんなかったよ、正直さ」

 あの日のタツヤの焦った顔を思い出してスギオは笑った。

「お前も仕事で忙しかったもんな。奥さんが出て行った日も出張入れちまって悪かったよ。けど、お前もなんだかんだ遊んではいたんだろ?教えてやった風俗の店も行ったとか言ってたし」

「……そうですね」

 タツヤは顔色を変えずに小さな声で返事をした。それに気付いてスギオは破顔する。

「ああ!やっぱり喋れんじゃないか!つうか幽霊も喋れんだなあ。そういやさ、何年か前、奥さんちょっと具合悪くなっただろ?……あれなあ……時効だからさ、先に謝っておくけど。ほら、風邪引いてるってお前から連絡もらって、んで病院まで付き添いみたいな話だったろ?だから家に行って。そしたら具合悪そうにしてるから車で病院まで送迎して、で家に戻ったらベットで寝るっつって。お前の奥さんって分かってはいたんだけどな……つい」

 ハハハと笑い声を上げてスギオが顔を上げる。タツヤは微笑を浮かべるとすうと立ち上がりスギオの前に立った。微笑みのままスギオを見下ろしている。

「悪かったって。もう時効だし……奥さんも死んじゃったからさ。後悔してんだよ、俺もさ」

 スギオはタツヤの腕をパシッと叩くと手の感触に目を丸くした。

「ええ?幽霊って触れんの?まじかよ」

 タツヤの背中が丸くなり、ゆっくりと顔が近づいてくる。その顔には微笑みはなく血走った真っ赤な目が大きく開かれている。

「タ……ツヤ?」

 スギオの視界の端で素早く何かが動いた気がした。そちらに目を向ける間もなく痛みだけが身体を襲った。ビリビリと電流が走り両手が震える。スギオの右腕を赤黒い爪が突き刺さり握りつぶしている。左に目をやると同じく潰されていた。

「タツヤ?お前……?」

 タツヤの口が横に引かれてパカッと開くと涎がだらだら零れ落ちた。タツヤの両手はスギオの肉を掴み引きちぎると床に放り捨てた。片手で首を掴んでスギオを持ち上げる。ギリギリと首の絞まる音を聞きながらスギオは足をばたつかせた。潰された両腕は力が入らずにただ垂れ下がっているだけ。

「……タツヤ、やめてくれ。やめて」

 異常な馬鹿力に息が苦しくなっていく。スギオは遠のく意識の中で、あの日見たタツヤの妻の顔を思い出す。泣き出しそうな顔で悪態をついて、つい平手打ちをしてしまった。女に手を出すなんて悪い奴しかしないと思い込んでいたのに、自分がそうだったと笑いながら彼女の上に乗った。タツヤは知らないだろうが、多分お腹の子は……。

 バチンと酷い音がして、それから音が聞こえなくなった。死ぬのか?俺は……。スギオはうっすらと見えたタツヤを見る。

 その顔は優しい笑顔に見えて、なんだか腹立たしくなり喉の奥から声を絞り出す。

「タツヤにはもったいない女だったよ」

 言ってやった、言ってやったぞ。そう思いながらスギオは絶命した。


 カシミヤの手の中でスギオの心臓が潰れている。無表情のままでそれを床に投げ捨てると口から大きく息を吐いた。

 その時、玄関が開き楽しげな声が入ってくる。

「あなた、食料は手に入ったけど、そろそろ避難したほうがいいんじゃないかって消防の方が行ってたわよ」

 スギオの妻と娘はリビングの凄惨な光景に悲鳴をあげ、その場にへたり込んだ。カシミヤはユラユラと揺れてすぐ傍にいた娘の頬を指でなぞる。泣き喚く子供の頬に指をかけて爪で引き裂くと小さな身体は床に転がった。許しを請うスギオの妻は腰を抜かしているらしく足をバタバタ動かして号泣していた。

 カシミヤは泣きじゃくる女の頭に手を置いてポンポンと叩くと、三度目に大きく振りかぶってその頭を潰した。ぐしゃりと体液が漏れて痙攣を続けていたが少しすると動かなくなった。

 カシミヤはその場に立ちつくし、頭を何度も振ってから声を上げた。まるで獣のような咆哮は部屋の中に響き渡り、窓ガラスを割った。


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