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25 愛が沈む

 酷くなった雨から逃れた民家の台所では老婆が湯を沸かしている。こじんまりした家は綺麗に片付けられて丁寧な生活が伺えた。頭からタオルを被ったカシミヤは老婆に何度もお礼を言い頭を下げる。

「良いんですよ。困った時はお互い様ですよ」

 カシミヤに熱い茶を手渡して、老婆は洗面器に水を張りタオルを腕にかけたまま居間へ進んだ。部屋に敷かれた布団にはイツカが赤い顔をして横たわっている。

「雨の中、随分と冷えてしまったら具合も悪くなるわ」

「すいません……私が無理をさせてしまいまして」

 恐縮してカシミヤは老婆の傍に座ると、彼女は頷いた。

「まあ、すぐに治るでしょ。お若い方だし、お薬も飲んでくれたから。あなたも少しお休みしてくださいな。私は部屋にいますから、ゆっくりしていって」

 頭を下げて見送り、イツカの額のタオルを洗面器で冷やしてからまた乗せた。

「……すいません、俺」

 イツカが体を起こそうとしてカシミヤが制止する。

「いいんだ。申し訳ない。君と私とでは違うのに」

「でも、急いでたんですよね?すいません」

「大丈夫です」

 カシミヤの手がイツカの額をそっと押さえた。

「今は休んでください。良いんですよ」

 何度か頷いてイツカは目を閉じると眠りについた。カシミヤは静かに部屋の片隅にあるTVをつける。昔の映画が放送していて、暇つぶしにはなるかと片膝を立て、ぼんやりと宙を見つめていた。そのうち何故か眠るように目を閉じた。

 ゆらゆらとカーテンが揺れている。遠い過去の記憶か?マンションの一室にカシミヤは住んでいた。傍らには妻が穏やかな顔をして眠っている。

 まだ幼さの残る面立ちに柔らかな栗毛が波打って、彼女の目がゆっくりと開いた。

「おはよう……」

「ん、おはよう。よく眠れた?」

 小さく唸って妻は体を起こすと目を擦ってから、カシミヤにもたれかかる。

「たっちゃんは眠れた?」

 自分よりも小さな彼女を抱き寄せて顔を覗きこむ。

「ああ、眠れたよ。そうだ……今日は病院に行くんだろ?お義母さんの所に行くんだよな?」

「うん、たっちゃんはお仕事だよね?」

「そう……けど方向は同じだから送っていく」

「ほんと?」

 パッと明るく笑う妻にカシミヤは微笑む。

「ああ」

 義母は年齢もあるが階段から落ちて骨折して入院している。その上、健忘症が酷くなっているせいもあり、義父は娘にまかせっきりだ。近頃は娘の顔すらわからずに、妻はカシミヤに会うと胸の中で泣いていた。それでも献身的な姿は悲しいほどで。

 その夜、妻は少し不思議な顔をしてカシミヤを迎えた。

「嬉しいニュースと悲しいニュース、どっちが聞きたい?」

 じゃあと後者を選ぶと、妻は眉を下げて少し悲しそうに笑った。

「お母さん、もう私のことわからなくなっちゃった」

 そう、としか言えず、じゃあ嬉しいニュースを聞くと妻は泣き出しそうに笑った。

「赤ちゃんが……いるの」

 突然の言葉にカシミヤは瞬きを繰り返し、妻のお腹に手を伸ばした。彼女の手がそれを受け取り、まだぺたんこのそれに触れさせた。

「嬉しい?」

 泣き出しそうな妻の声にカシミヤは彼女を優しく抱き寄せる。ずっと欲しかった二人の家族に涙が溢れて仕方がない。そんな遠い記憶をカシミヤは俯瞰で眺めていた。

 そうだ、あの時幸せだったのだ。幸せを奪ったのは誰だ?

 ふつふつと湧いてくる感情を止められずにカシミヤは両手で顔を覆うと目を見開いた。部屋は薄暗く、TVの灯りだけが照らしている。すぐ傍では布団でイツカが眠っている。

 カシミヤはぶるぶると震える手を押さえて、布団のほうへにじり寄った。

 ……こいつじゃない。自分の中の怒りが寝顔を見て首を振る。

 ああ、あいつ誰だっけ?ふらりと立ち上がり、ガクガクと頭を揺らして歯を食いしばる。その時、壁にかけてあった小さな鏡が目に入った。

 目の周りが赤く腫れている、いや赤い隈取で目玉は血走っている。

 カシミヤは壁に手をつくと鏡を覗き込んだ。

「……俺は……こんなだったか?」

 鏡を覗き込んでも何もわからない。何も理解できない。

 眠る青年を振り返ると傍にしゃがみこんで、頬を指で撫でた。

「悪かったなあ……無理をさせた。」

 すうっと立ち上がり音を立てずに家を出る。雨が地面を叩き、稲光が走っていく中、ゆらっと背中を丸めると勢いよく飛び出した。

 雨粒が顔に当たって目玉から涙のように流れていく。頭に浮かぶのは男の顔だ。誰だったか?何者だったか?もう名前が出てこない。すぐに、いますぐに殺さないと。

 冠水のため道路は通行止めになっていた。人のいない道路を走り抜けて町へ向かう。雨が降り続いているせいで、坂道の下の家では老人たちが避難をしている。それも気にせずにカシミヤは一軒の家にたどり着くと玄関ドアを蹴破った。

「なんだ!」と大声を上げて出てきた老人はカシミヤの顔を見て首を傾げる。

「ん?君は……タツヤ君か?」

 カシミヤはドアに乗り上げると老人の顔を覗きこんだ。

「お義父さん……、おと……さん?」

 血走った目が右左と遊び、頭がガクガクと揺れる。恐怖を感じたのか老人は後ろに尻餅をついた。

「いいや……タツヤ君は死んだはず。……誰だ、あんたは」

 カシミヤの首は揺れたままだ。どうしてだが、言葉が出てこない。

 言いたいこと、聞きたいことが沢山あったはずなのに、全てがどす黒い感情に飲み込まれていく。

「警察を呼ぶぞ!出て行きなさい!」

 ああ、そうだ。お義父さんだ。おとうさん……おとうさん。

 前かがみになってカシミヤは老人の上に乗りかかった。そして赤黒い指で老人の皺だらけの皮膚に触れ、その口に指をかける。

「たす……けて」

 老人は歯をカチカチ鳴らしながら目を閉じた。失禁したのか足元が濡れている。真っ青な顔にカシミヤは見覚えがあったが、もう殆どわからなかった。

 上顎に指をかけてもう片方で下へと引き降ろす。鈍い音がして老人の顔が半分に割れた。バタバタ動いていた老人の両手足も次第に動きを止めて、今はぐったりと倒れている。

 それを蹴飛ばしてカシミヤは家に入ると階段を上がった。懐かしい匂いに惹かれてドアを開けると、女の子の部屋がある。勉強机にベット、棚の上にはぬいぐるみが置かれている。もう随分と埃を被ったベットに手を伸ばして部屋の隅にあるクローゼットを開けた。

 可愛らしい洋服が目に入り、青いワンピースを手に取る。カシミヤはそれを鼻に近づけて深く吸い込む。手が震え、涙が次から次へ零れ落ちると何も分からずにそこに崩れ落ちた。

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